番外編「餞」②
「なんだろうね、君が来ることをなんとなく感じていたんだ」
僕の言葉にヨルベミチコは何も応答しなかった。彼女は家に上がるなり部屋のグランドピアノに手をかけ、その縁を優しく撫でている。
「ピアノが恋しくなった?」
「全然。あなたは?」
「恋しいよ。こんなにも恋しいのに、僕には決して振り向いてくれないんだ」
才能溢れるピアニストであった彼女が、ある時からピアノを弾くことを辞めた。彼女の才能を羨んだ僕はその選択に嫉妬し、恨みすら感じた。スランプで弾けなくなった僕と違って、彼女は今でも弾ける。僕なんかよりも才能で溢れているのに。どうしてその才能を簡単に手放せるのか、無碍にできるのか、と。
無駄にするならせめて、彼女には僕の踏み台になってもらおう。僕は様々な理由を積み立てて、強引に彼女をピアノの前に再び立たせ、そして弾かせた。その時僕は彼女の隣にいた。彼女に弾かせたのは連弾の曲だった。
彼女の旋律を追いかければ、僕はきっとスランプを脱することができる。今思えばそれはただの思い込みだ。だが僕は天才の道を無理矢理辿ることを選んだ。
自分の才能を取り戻す為、そして才能を無碍にした彼女に報いる為……。
結果は、散々なものだったけれど。
「今更だけれども、ヨルベさん、あなたに謝りたいんだ」
「何に?」
「君のプライドを踏みにじったこと。ピアノを弾かないと決めた決意や理由を、僕の枠に収めて理解したように振る舞ったこと。そして何より……無理やり君にピアノを弾かせたこと」
才能に触れることで、自分も再起できるかもしれない。浅はかな考えだ。弾けなくなった問題は自分の心にあるというのに。でも当時の僕は、それすらも受け入れられないくらいに追い詰められていた。同時に才能ある存在たちに深い嫉妬を覚えていた。
才能ある彼女はその名を界隈に轟かせた後、ぱったりと姿を消した。彼女の中にある引き際が「ここだ」と言ったのだという。それからはピアノを弾かない講師をしたり、会社の事務をやってみたりして、日々の生計を立てていたという。僕から言わせてみれば、その生活の何が楽しいのか分からない。今でもそれだけは理解不能だ。
今、彼女は「斡旋する仕事」をしているという。
必要なところに必要な人を置く。それだけの仕事だ。コンサルタントのようにその先の経営の仕方をアドバイスするわけでもなく、ただ人を配置するだけ。
何かが結実する瞬間が、私には見える。と彼女は言った。人を引き合わせた時に、なんとなくその行先が分かる。だからそれ以上のことはしなくてもいい。ただ、置くだけ。
結果として、彼女はそれなりの成果を収め、今ではこの「斡旋する仕事」を天職としている。
彼女に無理矢理ピアノを弾かせた時、彼女がそのことに酷く憤りながらも僕との連弾を受けた。のちに言えば、それもまた一つの「結実する瞬間」だったのだろう。
僕のピアニストとしての終わりが、結実する瞬間が、彼女には見えていたに違いない。
「今回の仕事はどうでしたか?」
「あら、知ってるの?」
「佳波多からよく話が出ましたから。あなたの名前も含めてね」
「そっか。まあ、そうよね。今回も無事に終わったわ。この間、彼と彼女を海に送ったの。彼をモデルに絵を描くためにね。それでおしまい。今回ばかりは少し長かったけれど、そうね……素敵なものが見られた」
「それは良かった」
「佳波多くんから聞いたことがあるかもしれないけど、その子はね……」
「僕と同じ、だったんですよね」
ヨルベミチコの言葉を遮るように僕は言った。
「彼女は抜け出せたんですね。僕は……見つけられませんでしたから。どうしたら良かったのかも分からなくて、随分遠回りしてしまった」
「……アサキくん、佳波多くんとの出会いはあなたに何かを与えられたかしら」
「もともとそのつもりで僕らを引き合わせたんでしょう?」
僕が呆れたように笑うと、彼女は観念したような顔で微笑んだ。なんとなくそうだと思っていた。佳波多との出会いは偶然ではない、と。
「一つだけ誤解しないで欲しいんだけど、当時の君のピアノに惚れたのは佳波多くんよ。私はいくつか候補者の演奏を聴かせただけ。その中からアサキくんを選んだのは、彼よ」
「でもなんとなく、予想はしていたんでしょ」
彼女は答えない。僕はそれをイエスととることにした。
「僕も一つ誤解をしないように言うと、この出会いを恨んではいません。佳波多と会えたことで、僕はようやく長年抱えていた気持ちに区切りをつけることができた。僕はこの先も、佳波多の進む道を羨むでしょう。でもそれが生きる理由にもなった。今の僕には佳波多の背中が見えている。それでもう十分です」
一息入れてから、僕は最後の一言を口にした。
「ここが僕の居場所だ」
この言葉を見つけ出すまでにどれほどかかっただろう。
願うことならこの一言を口にする場所は、ピアノの前が良かった。でもそうはならなかった。そこが僕の居場所ではないと認めるまでに一体どれほどかかったのだろう。
「今日はね、画集を一つ持ってきたのよ。例の子がね、佳波多くんをモデルにした絵を描いてね。それを見せたくて」
彼女はそう言ってカバンから一冊の本を取り出すと、付箋のついたページを広げた。
両開きで掲載されたその絵を見た僕は、あの日のことを思い出した。僕が彼に餞別としてピアノを弾いたあの日のことを。
どこか儚げに歌う少女と、その奥でピアノを弾く佳波多。
佳波多は、少女の心の内を察しているのだろう。そして少女もまた、佳波多の心のうちを察している。それでも互いに姿勢は変えず、彼は弾き手に徹し、歌を引き出すピアノを弾き続け、彼女はその旋律に相応しい歌を心掛けて歌っている。
「良い絵ですね」
「でしょう。彼女も私のお気に入り。まあ、個展には行ってあげられなかったんだけどね」
「この子は今も佳波多と?」
「ええ、一緒よ」
「なら、もう大丈夫ですね。佳波多は」
これだけ佳波多を描ける理解者がいるのなら、なんの不安もない。
本を閉じたヨルベミチコに歩み寄り、僕は彼女の手を取った。
「良かったら久しぶりに、僕と連弾してもらえませんか?」
目を丸くする彼女が見られるのはなかなか貴重だ。ヨルベミチコは一瞬だけ虚をつかれた表情をした後、いつもの表情を取り戻すと髪をかき上げ笑った。
「曲は?」
「どうしようかな、モーツァルトのピアノ・ソナタ、ハ長調のK521なんてどうです?」
「……いいわ、一緒に弾いてあげる」
僕の言いたいことは大体分かったのだろう。
彼女を踏み台にしたあの時の曲を僕は選んだ。それがどういうことなのか、ヨルベミチコならすぐに理解できただろう。
不思議と、今日は上手く弾けそうな気がした。重荷が降りたからだろうか。それともこうやって日々を過ごしていくことを受け入れたからだろうか。
あの日僕は、天才に追い縋ることで自分の壁を乗り越えられると心から思った。その白羽の矢が彼女だった。でも結局、あの日も僕は最後の四小節で指先が止まってしまった。
結局僕は復帰もできず、全てを弾き切った彼女はそれ以来ピアノを弾くことを辞めた。
さて、今回はどうなるだろう。
「ねえ、前にも言ったと思うけど、私は好きに弾くから、貴方は頑張ってついてきてね。多分だけど、もう大丈夫でしょう?」
もう大丈夫でしょう。
その言葉が僕の中で弾けた。目の前に広がる鍵盤と、顔を上げるとピアノの天蓋。左側には窓の外の景色。そして右隣には、ヨルベミチコがいた。いつの間に僕はここに座っていたのだろう。弾けるかどうか分からない不安のまま無意識にここに座っていたのだと思う。
それを見越した彼女が声をかけてくれたのだろう。
本当に自分は、どこまでダメなのだろう。ここまで落ちて、落ちきってしまったのに、それでもまだダメらしい。
手元にロープがあったとして、それらを一つ一つ手放して生きてきた。そうすれば最後の一本には必ず自分を自分たらしめる何かが残っていると信じて。
佳波多にピアノを弾いた時、その最後の一本を、僕は手放した。
どうかこの一本を、佳波多が受け取ってくれたらと思ったのだ。捨てることをこの先も選ばず、背負って、背負って、潰れる間際までその才能で突き進む彼に、襷のように、僕は最後のロープをかけた。
何も残っていない僕から、彼へのせめてもの餞として。
「佳波多にしたこと、少し後悔しています」
「そう? でも彼は気にしないで持っていってくれると思ったから、そうしたんでしょう。なら良いじゃない。私と同じ空っぽ。空っぽもね、案外楽しいものよ」
そう言って彼女は低いドの音を叩いた。深く腹の底にまで響くような強い音に僕の体が震えた。
「とりあえず楽しみましょ。こんなのただの贅沢な音遊びに過ぎないんだから」
そう言ってはにかんだ彼女を見てようやく僕の心が解れていくのを感じた。そう、これは彼女の言うとおり遊びだ。もう僕には何の制約も何もない。格好をつける必要も、何かを背負う必要も。
ただの、人より少しピアノが弾けるだけの人間だ。
そう考えたら、随分と気分が良くなってきた。
「ヨルベさん、楽しみましょう。ピアノ弾くのってやっぱりなんだかんだ言っても楽しいんですよ……こんなことを思い出すのに何年かかってるんだって話なんですけどね」
「いいんじゃない。気が付けないまま死ぬ人だっているし、気づくことを残酷だと思う人もいるんだから。気がついたから偉いわけでもない。どう生きるのが楽かって、そういう話よ」
「そんなもんですかね」
彼女の言葉に思わず僕はあははと笑ってしまう。この人は相変わらず、自分がどう楽に生きられるかで全てを決めている。天才になりえたかもしれないのに。この人は「楽に生きられない」という理由だけで、背負うことを辞めたのだ。
鍵盤に手を置いた時、ふとヨルベミチコの持ってきた絵のことを思い出した。あの絵はとても綺麗だった。多分、佳波多と同じような才能の持ち主なのだろう。いつの間にか何でも背負ってしまっていて、でもそれを推進剤にできるような。そういう続けられる人だと僕は思う。
あの手前の女の子が特に良かった。何の色も載っていない無色透明のたった一人が、絵のアクセントになっていた。
「すりー、つー、わん……」
ヨルベミチコのカウントを聞いて僕は意識をピアノに移す。
さて、弾けるだろうか。
これまでずっとダメだったのに。果たしてこんな簡単な気付きだけでまた弾けるようになるのだろうか。
まあ、そのときはそのときだ。
何故なら、もう僕はそんなことを気にする必要はないのだから。
彼女が海にとけていく 有海ゆう @almite
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