番外編「餞」①
夕刻過ぎの、窓辺から日の光が落ちてゆく光景が好きだった。
譜面が読みづらくなる頃に、僕は必ずロールカーテンを降ろす。カーテンを降ろすその時に見える窓の外の景色が好きだからだ。強い橙の光が、ゆっくりと淡い濃紺に飲み込まれてゆき、やがて深い青の中にとけてゆく。
その景色を見ると、その日どんなことがあっても心を落ち着かせられたし、よく眠れることができた。
背中越しに聴こえる教え子の、拙いピアノの旋律と相まって見えるその景色は、特に格別だった。ああ、僕はこの一瞬の為に毎日を生きているのかもしれない。いや、生きていたのかもしれない。そう思って今日まで生活を続けてきた。ここが僕の終着点だと言い聞かせるかのように。
初めて彼の音を聞いた時、僕は窓の外にヨルベミチコの姿を見た。
少し経ってそれが幻であることに気がついたが、その実感が余韻のようにべったりと僕の中にしばらく残っていた。
ヨルベミチコ。飄々と才能を振りかざし、誘惑した天才ピアニストの名前だった。自由奔放にピアノを弾いて回り、数多くの羨望と期待を受け、それらを容易く捨て去って壇上から消えていった変人。彼女のせいで何人ものピアニストが将来を諦めた。もし彼女がどこかで突如として居なくなると知っていたなら、まだ彼らはピアノを弾いていたかもしれない。
振り返った時、当然そこにヨルベミチコの姿はなく、あるのはまだ僕の人生の半分も生きていない、若く瑞々しい才能の姿だった。
彼は、佳波多は振り向いた僕を見ると不思議そうに首を傾げ、それからまた鍵盤に指を落とすと軽やかにピアノを弾き始めた。
「ああ、楽しい」
純粋無垢な少年はそうやって、容赦ない才能を僕に見せつけ続ける。
まるでステップを踏むかのように才能を振りかざす彼の音は、あまりにも暴力的で、それでいて魅力的だった。一体、彼が僕のどこにそんなにも惹かれたのだろうか。
僕はこれまで触れたことのない原石を一体どうすればいいのか非常に悩んだ。こんな僕よりも、もっと魅力に溢れた講師はいる。佳波多に何度もそう言ったが、彼は頑として首を縦に振らなかった。
ガツン。
ガツン。
ゴリ。
ゴリ。
研磨の不十分な才能を容赦無く僕に振るいながら、彼はずっと言い続ける。あなたの教え子になりたい。あなたが良いと。そうやって、まるで僕が研磨するに相応しいとでも言うように、僕に何度もその原石をぶち当ててくるのだ。
いっそ彼との出会いがもっと近しいものであれば良かった。研磨剤にされながら僕は何度も思った。もし彼と同じ目線で、彼と同じような研鑽を経て、彼の友人のような立ち位置だったとしたならば、きっと僕はなんの遠慮もなく彼を恨み、羨み、そして舞台から降りただろう。
天才と、その天才を持て余す講師の図式なんて、一番惨めだ。
どれだけ味気がなくなっても、縋るようにピアノの音を噛み続けてきた。元ピアニストとしての矜持すら捨て、必死に「講師」の座に食らいついてきた。弾けなくとも、せめてピアノの音だけは僕の中から消したくないと。
そんな僕に、どうして神は彼を寄越したのだろう。
彼の音を聴くたびに身を裂かれるような感覚を覚えた。どうして彼を導かなくてはいけない。そんなことばかりを考えながら、表向きは必死に気のいい講師を続けていた。
「先生に教わって俺、本当に良かったと思っているんだ」
練習の合間に、佳波多はぽつりとそう呟いた。
その日、彼は珍しくポップスの伴奏を練習していた。彼は自分が舞台の主役ではないことに戸惑い、どの位置に音をおけば良いか悩んでいた。人の横で演奏する経験がある僕の目線が欲しかったのだそうだ。物分かりの良い彼のことだからきっとすぐに飲み込んでモノにしてしまうだろうと思ったのだが、どうにも気持ちが入らない。どうしたらボーカリストが引き立つのか理解できないと、彼は悩み続けていた。
たまにはこういう姿を見るのも悪くない。僕はそんな気持ちで彼の練習に付き合っていた。だから突然そんなことを脈絡もなく言われた時、正直僕はとても驚いた。
「どうして、そう思うの?」
「先生がいなかったら、俺はきっと全部を手放してたと思うから」
「手放す、とは?」
「何て言うんだろう、生活も、学校も、家族も、羽美ちゃん……ともかく全部だよ」
佳波多は鍵盤を一つ強く押した。主張の強いラ、の音が部屋に鳴り響く。
「最初は多分、何も気にしてなかった。一人のほうが楽だって思ってたんだ。自由気ままで、全部自分の責任で、自分の好きなところにどこまでも行けてすっごい楽だって。でも、先生に教えてもらって、おじさんの家に住んで、遙と二人で暮らして、羽美ちゃんと会って。そんな沢山の出来事があって思ったんだ。この境目はもしかすると、失ったらダメなものかもしれないって」
「境目を失ったら、どうなるの?」
「本当に感覚的にそう思っただけなんだけど……。ここに来て思ったことなんだけど、逃げ場をなくしてたと思う。好きだったものすら嫌いになっていたかも……。うーん、自分の中でもよくまとまらないんだよね。ごめんね先生、変なこと言っちゃって」
そう言ってはにかむ彼を見て、僕はようやく腑に落ちた。
そうか、これか。
ここが僕の境目か、と。
「佳波多は誰かに教える道を目指すんだったね」
「はい、そのつもりです」
「なら君は、音楽をもっと学びなさい。人に教えたいのなら、尚更だ」
僕の言葉をうまく飲み込めなかったのか、佳波多はしばらく呆けていた。少しして我に帰ると「そんな突然な!」と慌て始める。彼が慌てるところを滅多に見たことがない。これも彼の講師じゃなければ遭遇できなかった光景だと思うと、少し得をした気になれた。
「進路だって、もうほとんど相談を終えたんだよ」
「明日にでも変えれば良い。元々親御さんも理解はあったんだから問題ないよ」
「いや、でも大した実績も残してないし」
「実績なんていくらでも付いてくるよ。試験に受かればなんの問題もない」
「なんでそんな、先生も同意してたのに……」
「それは、僕が君に嫉妬していたからだよ」
これは本音であり、嘘でもあった。どちらにせよ佳波多は卒業と共に僕の下を去る。その先で彼と何度会うかなんて分からない。恩師と慕ってくれる彼のことだから、時折会うことはあるかもしれない。あの頃教えてもらったお陰で、今の自分があるなんて言葉で彼は笑うのだろう。
でも、そんな評価をもらうくらいなら、恨まれてでも良い、彼を突き放したかった。突き放して、何においても彼を僕が乗れなかった道に乗せてやりたいと思った。
これは僕のエゴだ。あの時、もうピアノを弾かないと言った彼女に無理矢理ピアノを弾かせた時と同じ……。
一つ違うとすれば、今回は自分の為ではなく、佳波多の為に選んだということだ。
「佳波多が音楽の道を進まないと言った時、内心ホッとしていた。僕が立てなかった舞台に君は立てるかもしれないと思っていたから。自分が教えた子供が遥か彼方まで飛んでいってしまうのを見守ることしかできないことに、自分は耐えられないと思っていた。だから、僕は佳波多の相談に頷いた」
「で、でも……ならどうして」
「大丈夫だと思ったんだ、君なら。きっとこの先間違えたとしても進める。君は手放さないことを学んだ……学べたんだ。だからもう大丈夫。君はどこまで行っても、自分を失わないで生きていける」
「そんな、俺が?」
「しのごの言わず行け」
僕から言えるのは、それだけだ。
自分を見失って、最後までピアノが弾けないまま終わった僕が言えるのは、それだけなんだ。
「佳波多が進路変更を決めた記念に、たまには僕がピアノを弾こうかな」
「……先生が?」
勝手に進路を変えるよう強要されたことよりも、彼は僕の言葉のほうに戸惑ったらしい。
それもそうだ。彼が来てからここまで、一度も彼の前でピアノを弾いたことはないのだから。教えるだけなら、言葉でだってできる。これは誰の言葉だっただろうか。多分、彼女が言った言葉だろう。こんなところで思い出すとは思わなかった。図らずとも僕は、ピアノを弾くことを辞めたヨルベミチコと同じように、ピアノを弾かずに講師を続けている。
僕はいまだに、彼女の中に僕の再起の道を見ているらしい。
「これは、餞別だよ。僕を慕ってくれた君へのね」
佳波多と席を代わる。椅子の高さを調整して、鍵盤に指を置く。低音から高音までを一通り鳴らし、一呼吸。なんてことない。ずっとやってきたルーティンだ。今も頭にはこびりつくように残っている。
さあ、何を弾こう。
いつものように、最後の四小節で指が止まった。我ながら笑ってしまう。結局僕はここまでということか。
まだ弾こうと震える指先を鍵盤から離し、一度大きく伸びをしてから周囲を見渡す。生徒たちが帰った後のレッスン室は、とても広く見える。
佳波多との最後のレッスンは思っていた以上にシンプルに終わった。もっと情感的になるんじゃないかとか、お互いに泣くんじゃないかとか、滅多に見られない姿を見られると思っていたけど、終わってみればなんてことない、いつもの二人だった。
「じゃあ、先生。今までありがとうございました。俺、頑張るよ」
「頑張れ、ここからだよ。佳波多はここからだ」
僕の言葉に彼は深く頷いた。ただ音楽が楽しかっただけの少年時代を終えた彼が、この先どんな道を歩むのかは分からない。でも彼は大丈夫だろう。だって彼は僕と違って、手放さない選択ができたのだから。
彼のことを思いながらピアノの前に座っていると、チャイムの音が聞こえた。僕は立ち上がり、降ろしたばかりのロールカーテンに手をかける。なんとなく、訪ね人は分かっていた。こういう時に来るのは彼女しかいない。
カーテンを上げると、そこにはやはり彼女がいた。
僕の好きな夕景の中に溶け込むように彼女は立っていて、窓越しに覗き込む僕を見つけるとにこりと微笑む。
ーーヨルベミチコ。
僕が追い求めた才能あるピアニストであり、同時に僕に結末を与えた人。
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