第5話

紅海灘風景区はその名の通り、マツナと言う葦の一種が紅葉し地平線の果てまで一面が真っ赤に染まることで有名な観光スポットだ。マツナは特に九月から十月にかけて鮮やかな色を帯びる。

そして今は七月だった。

地味で黒っぽいただただ果てしなく広大な湿地を七瀬はモコと二人、帰りのバスが出発するまで見続けた。


「ほんと、ついてないよね」

 笑って、隣に座ったモコの顔を見る。夕日に照らされた彼女の顔はそのハッキリとした目鼻立ちに深い陰影を作り出していた。うっとりするような美しさだった。そう、モコは出会った時から「黙っていれば可愛い」のだ。


 生気のない顔がむしろその可憐さを引き立てている。恐ろしさと強い愛着の情が心を支配し、はやる気持ちを余計に急き立てた。

 言葉に出来なかった。

 漠然とした感覚が突然リアルな質感を持ち始め、喉のあたりから噴き上がってくる。


 モコは死んだ。逃れようのない現実。そしてそれは、嫌だという強烈な願望とセットになっていた。現実を払いのけるようにして七瀬はモコの髪を撫でた。モコは七瀬の方を向くと心地よさげに目を閉じて、体を預けた。


「あんたって本当についてない。ついてないよ、モコ………私の所為で自殺しちゃったんだから。私なんかと出会ってなかったら、今頃かーくんと幸せに………でも、私だって反論する権利はあると思わない? だって、ここまであんたの為に色々してやったんだよ…………あんたが、可哀想で、いっつも頼りないから………」

 返答などあるはずもなかった。肩を枕にして目を閉じているモコはひんやりとして、重かった。

「…………ごめん。それは嘘。私があんたに色々してやったのは………あんたのことがずっと………」

 潮の香りが鼻を掠め、七瀬はモコを強く抱き寄せた。こんな段になって、モコと離れたくない、別れたくないという気持ちが表出してくる自分を七瀬は恥じた。大人しく、綺麗な彼女はかつて無いほど愛おしく、腕の中で縮こまっていた。

 

 だが、人間なんかそんな上等じゃない。弱さや運命、現実に打ち勝てる人間なんか一人握りなのだ。自分みたいな弱者は甘えにすがって生きていくしかない。七瀬は地味で唯々膨大な湿地をずっと、眺めながら自分に言い聞かせた。



 出国ゲートでは色々と躓くこともあったが、何とか切り抜けることが出来た。モコが持っていた薬のたぐいを軽く見せると、警備員たちは怪訝な顔と安い同情で、頷いてくれた。

 男に貰った件の漢方はジーンズのパッチポケットに滑り込ませて、機内へ持ち込んだ。


 格安航空の機内は、シーズンが外れていることもあってか酷くがらんとしていた。

 七瀬はモコのシートベルトを締めてやりながら、このままでもいいんじゃないかと思った。日本へモコを連れて帰り、二人でひっそりと暮らす。モコの彼氏は? 仕事は? 現実的ではない考えも、今モコを思う気持ちを考えれば何もかも上手く行きそうな気がした。

 なによりも、このままモコとお別れなど、出来るはずがない。


 飛行機が離陸している間も、その感情はずっと拮抗していた。倫理的や罪悪感と自分の甘え。相克する感情はぶつかってせめぎ合ったが、隣で虚空を見つめているモコの髪に夕陽が照り返っているの見ると、全てが吹き飛んでしまいそうになる。


 やって来たキャビンアテンダントが飲み物はと尋ねた。頭を漢方のことが過った。少し迷って水を頼んだ。もし、やるのであればこの機内でしなければ。七瀬は強く思った。日本へ帰り付いてしまうと、きっと自分はモコを一生自分の物にしてしまう。その感情にあらがえない自信がある。

 

 キャビンアテンダントがプラスチックのコップへ、ピッチャーから水を灌ぐ。一連の動きが酷く緩慢に思える。すぐ、薬を水に混ぜ、さっさとモコに飲ませる。それですべてが済む。考えれば考えるほど、行動は躊躇いを生んでしまう。


「お待たせしました」

 手を添え、丁寧に渡された水を受け取ったが、それで限界だった。カップ越しの冷たい水が、あらゆるものを拒絶しようとしている。


 これでお別れなんて、あんまりすぎる。誰にも言わなければ、モコはずっと自分の傍にいてくれる。美しくて素直で、そして無垢で。そして、そして自分の一番、大好きな人―


 七瀬は冷たく、まるで物のようになったモコの手を握った。嫌な感じはなかった。手はじわっと自分の温もりで温まっていく。


 心は決まった。

 水はいらない。漢方も。モコは自分が面倒見る。

 七瀬はコップを掴んだまま、自分の口へ運んだ。

 不意に機体が大きくバウンドし、持っていた紙コップから水が溢れ、一つの塊となってモコのスカートへ零れ落ちた。


「あ、ごめん!」

 フリルのスカートに染みた水が太ももを伝って、滴り落ちる。モコは無反応だった。叫び声一つも上げない。濁った眼で窓の外をずっと見ている。


 分厚い積乱雲の隙間から月光が現れ、束の間機内を照らし出した。前の座席に座った客が咳払いをして、遮光シートを降ろす。

 アナウンスが乱気流のため、少し揺れたことを詫びた。

 月が再び雲の中へ隠れた。


 七瀬は下唇をグッと強く噛みしめ、鼻から絞り出すように息を吐いた。改めて見つめたモコは、相変わらず流麗な顔立ちで無感情に虚空を見上げている。

 そこに、モコはいたが、モコは居なくなっていた。

込み上げて来るものを全て押さえつけて飲み込むと、キャビンアテンダントをもう一度呼んだ。


「すみません、水こぼしちゃって、拭く物もらえたりしますか? あ、…………あと、オレンジジュースもらえます?」

「申し訳ございません、丁度たった今オレンジジュースが切れたところでして………グレープフルーツであればすぐにご用意できるのですが」

「じゃあ、それで」

 とことんついてない、七瀬は思った。

 でもまあいいさ。


 七瀬はジーンズから、漢方薬を取り出しテーブルへ置いた。

「さよなら、モコ」

 呟くと、また月が雲の切れ目から顔出した。



   おわり

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ハードラックウーマン 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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