第56話 エピローグ
夜は、いつの間にか過ぎ去っている。
魔王城の残骸の上に太陽が登った。ルナは、その眩しさに目を細める。
「……終わったな」と、アイ。
「ん」ルナは曖昧な返事でアイに応える。
ルナの髪と瞳は、もとの鳶色に戻っていた。
いちどは欠けた両足の膝から下も、何事もなかったかのように、ルナの身体を支えている。
朝日を見つめたまま静かな声で、アイは続けた。
「ルナ、ごめんな」
その言葉は何に対するものだったのか。
アイの言葉に導かれるように、意識しないまま、ルナの口からも謝罪が滑り落ちた。
「……ミーシャのこと、ごめん」
長い沈黙のあと。アイは言葉を絞り出すようにして、ルナに応えた。
「……家族、だったんだ」
「うん」
「ミーシャとルナがいれば、魔王なんて……どうでもいいって」
「……うん」
ルナには、アイの語ることがよく理解できた。
長い孤独のあとに、手の中に転がり込んできた居場所。
ほんとうの家族。
ルナが岩崎家に引き取られたことで救われたように、ミーシャは、アイの救いとなり得た存在だった。
でも――そうはならなかった。
ルナがあの街に身を寄せなければ、ミーシャが犠牲となることもなかったはずだ。
(あたしは、本当に……)
それでもひとつ、ちゃんと守り切ることが出来たのは――
「岩崎さん! ひ……火が! どうすればいいんですの!?」
声の方に視線を向けると、桜花が半泣きで、両手から炎を立ち上らせていた。
意識を取り戻した桜花に、ルナは大まかな状況をかいつまんで説明した。とはいえ、短い時間で、起こったことを伝えきるのは無理だった。ここが異世界であること、ルナと桜花には【魔力】が備わっていること。
そして基本的な魔法の使い方を教えたところ、桜花はそれ以上の詳細に興味を失い、すっかり【魔法】に夢中になってしまったのだった。直感で色々と試しているらしく、先程からこうして、魔力が制御しきれなくなって助けを求めてくる。
炎を引っ込めようと四苦八苦する桜花を眺めて、アイは苦笑交じりに呟く。
「ボクもそっちの世界に行けば、【魔法】使えるようになるのかなぁ」
「ええ? アイは魔法より――」
――と、振り返ったルナは、ちょっとした違和感を覚えた。
アイが寄りかかっている【終焉の剣】の刀身、柄に近い位置に、漆黒の珠がはめ込まれているのだ。
ルナは首をかしげる。
「……あれ、それ割れてなかった?」と、珠を示す。
「ん? ……ほんとだ。なんだこれ」アイも言われて気が付いたらしく、コンコンと黒い珠を叩いて眉を寄せた。「でも、ちょっと色が違うような……」
確かに、元々は紫の宝玉がはめ込まれていたはずだ。そしてその宝玉は、ルナを【召喚】した際に砕け散っていた。
アイは珠を掴み、無理やり取り外そうと力を込める。
「ガッツリはまってんな」
《――魔王様!》
突如、その黒珠から声が響いた。
全力で尻尾を振る忠犬のようなその声色は、紛れもない――
「オ……オシリス!?」
「お前……生きてたのか」
と、黒い珠を掴んだまま、何とも言えない表情を浮かべるアイ。
《ふふふ……魔王様から、死なないでとご命令頂きましたからね。オシリスを誰だとお思いですか? 【生命の魔族】ですよ。生命力だけはこの世界の誰にも――って、アイ、何を?》
ドヤ顔が浮かんで見えるオシリスの語りを無視して、アイは、すたすたと剣を持って移動する。
そして瓦礫に狙いをつけると、剣を振るい――
《ちょっ、やめてください! アイ!》
黒い珠を、瓦礫にガンガンと打ち付け始めたのだった。
「魔族付きの剣とか冗談じゃ……くそ、だめだ……全然壊れない」
《ふふふふ、アイ程度の力でオシリスの……ってカドは! カドはやめなさい!》
わあわあと騒ぐオシリスとアイの声を聞いていると、ルナは、まるでミーシャと過ごした日々が帰って来たような錯覚を覚えた。
だが、あの時間はもう戻らない。
(……)
何かを振り払うように頭を振って、そういえば、と、ルナはアイに問いかけた。
「アイは、これからどうするの?」
「これから?」と、アイは振り返って聞き返す。
「だって、ほら……魔王、あたしだったから」
「ああ……」
オシリスの珠を壊すことを諦めたらしく、アイは手を止めて、ぽりぽりと頭を掻いた。
「城にふんぞり返ってる奴をひっぱたいて終わりなんて思ってないよ」
「別にふんぞり返っては……勉強とか、やってたし……」
ルナの弱気な反論に笑って見せると、アイは【終焉の剣】を肩に担ぐ。
そして、朝日に照らされた遠い山々を眺めた。
「魔族は、まだ世界にいくらでもいる。同じだけ、怖い目にあってる人間も」
「……」
「ルナの話だと、あの【知恵の魔族】を潰せば組織としての魔族はほとんど終わりだろ? それならあとは、害獣狩りみたいなもんだ」
「……じゃあ、最後の魔族が消えるまで……」
「それに」と、アイは少し照れたような表情で、口の端を吊り上げる。「洗脳の【呪文】も消えたんなら――これからは、仲間が見つかるかも」
◆
――紫色の魔法陣が、浮かんでいる。
魔法陣の先は、ルナと桜花が生きる、元の世界に繋がっていた。
二人は魔法陣の前に立ち、アイと【終焉の剣】を振り返る。
「じゃ……アイ、オシリス。……元気でね」
《んんーーっ! んんんんんーーー!》
モガモガとくぐもった声が【剣】から聞こえて来る。
オシリスは延々とルナと別れることの悲しみを訴え続けていたが、それを鬱陶しがったアイは、元々鞘を兼ねていた厚い布で黒珠をぐるぐる巻きにしたのだった。
「なぁ、ルナ」
アイは少し逡巡するように眼を泳がせたかと思うと、ルナの眼を見据え、
「……また逢える?」と、口にした。
ルナの心の半分は、その問いかけに微かな驚きを覚える。
「あたしが……この世界に来たら、また【魔力】が増えちゃわない?」
「それでも」
勇者の視線は揺るがない。
ルナは勇者の眼を見つめ返して、そっと、心のもう半分に沸き起こった感情を手に取った。
それは――素直な嬉しさであった。
ルナの答えはもう決まっている。
だから魔王は、異なる世界に生きる――奇妙で大切な友人に向かって、笑いかけた。
「――週末なら、いいよ」
◆
魔法陣を通り抜け、岩崎ルナと
「本当に……戻って来ましたの?」
桜花は唖然として、クルーズ船の甲板を見渡す。
誰もいない。
魔法陣に飲まれて異世界に召喚され、そして帰還したルナと桜花は、誰の眼にも留まらずに世界間を移動したのだった。
まるで――
「夢を、見ていたようですわ」と、桜花が呟く。
「……そうだね」
異世界で起こった劇的な出来事は、一時間にも満たないほんの僅かな時間に過ぎなかった。
ルナはこうして桜花を失うことなく、元通りの日常に帰ってくることができた。
「――ちゃんと目が覚めて、よかったよ」
海はまだ、空に輝く月光を映していた。
◆
夏休み半ばの登校日。
ルナは校庭の木を見上げていた。
春の終わりに芽吹いた若葉は、すっかり青々と育ち、豊かに樹木を彩っている。
――あたしは、正しかったのだろうか?
魔族と人間の共存は、確かに偽りだった。
でも時間をかければ、本当にわかりあえたのかも知れない。嘘偽りなく共存する道があったのかも知れないと、そう思ってしまうのだ。
そうなっていれば、もう、アイは魔族と戦わなくてもよかったはずだ。
もっと正しかったかも知れない未来。
それを想う時、ルナの脳裏に浮かぶのは、その命の最後に、ルナと桜花に向かって手を伸ばすハデスの姿だ。
五百年もの間、一人で研究を続けた【知恵の魔族】。
たった一人で、ハデスは種族の滅びの運命に立ち向かっていた。
唯一の存在であるということは、孤独と背中合わせでもある。
ハデスはきっと、孤独だった。
もしかするとハデスは、高度に発展した【知恵】を持つ、ルナの世界の人間たちに惹かれていたのではないか。その形は、歪んでいたかも知れないけれど。書物や学問を通じて触れるこちらの世界は、彼にとって瑞々しい魅力に満ち溢れていたはずだ。
世界を滅ぼす【終焉の魔王】を、魔族の延命に利用すると決意したのは、いつだったのか。
ハデス以外の魔族は、種族の未来を考えてなどいなかった。
緩やかに死に向かいつつある彼らは、ハデスを除いて、その運命を回避する術を探そうともしていなかったはずだ。
先が見えないこと。あるいは、見ようとしないこと。
知らないということは、幸福なのだろうか。
もしそうだとすれば、ハデスの広めた【精神操作魔法】は――人々を、幸福にしていたのだろうか。
それとも幸福な嘘で騙すより、残酷な真実を突きつけることの方が、誰かのためになるのだろうか。
幸福な呪いから覚めたあの世界の人間は、どこに向かうのか。
もしも、あたしだけが、世界が終わることを知っていたら。
そして、あたしだけが、世界を救うことができるとしたら。
――勇者。
結局、ルナは勇者にはなれなかった。
アイのようにも、ハデスのようにも生きられない。
日常と、手の届く大切なものを守ろうとするだけの、とても小さな存在だ。
ルナは、自分自身であることしかできない。
それでも、
――ルナはもはや、
狭い世界に支配され、絶望に打ちひしがれる子供ではない。
破壊の宿命に囚われ、世界に終焉をもたらす魔王でもない。
ルナは手のひらを見つめる。
そこには自分自身で勝ち取った力と、その代償に失った、確かな価値が刻まれていた。
いまさら魔王の週末異世界 放睨風我 @__hogefuga__
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