放屁論異聞

大澤伝兵衛

放屁論異聞

<両国橋の辺に放屁男へっぴりおとこ出でたりとて、評議とりどり町の風説なり。(中略)屁ひり男、今江戸中の大評判、屁は身を助けるとは是ならん歟。>

風来山人(平賀源内ひらがげんない)著「放屁論ほうひろん」より


 安永3年(1774年)の事である。

 とある長屋を一人の青年が訪れようとしていた。その青年は、均整のとれた引き締まった体をしており、からげた着物の裾から覗くその脚の筋肉は、虎の様な肉食獣を思わせる。愛嬌のある顔立ちをしているが、険しい表情をしており、見ている者にもその悩みが伝染してきそうだ。

 大きな看板が立てかけられている入り口の前でしばし考え込んでいたが、意を決した様に中へ入って行った。

 看板には「平賀源内研究所」と書かれていた。


「ふむ、屁が止まらぬと?」

「へい。そうなんです」

 長屋の中で、先ほどの青年と中年の男が膝を詰めて話している。部屋の中は古さのためにあちこちが変色して劣化しているが、埃一つなく清掃されているし、部屋の主の几帳面な性格を反映しているかの様に整然と整頓されている。

「それで、三国福平みくにふくへい君と言ったね? それを僕に何とかして欲しいと?」

「あちこちで相談して周ったんですが、どうにもなりゃしませんでした。そんで、平賀源内先生ならなんとかなるんじゃないかと聞きやして」

 ここで、青年——三国平助は、身を乗り出しながら勢い込んで、中年——平賀源内に向かって言った。勢い込み過ぎたのか、尻から「ブボボ」と音が漏れる。ついでに臭いもモワッと狭い部屋に充満する。

「なるほどね。これが所構わず出るとなると、まあ困るだろうね」

 平賀源内は臭いに鈍感なのか、まるで表情を変えずに淡々と答えた。

 三国福平の言うには、彼は両国橋付近の見世物小屋で働いており、軽業師としてそこそこ評判であった。しかし、最近屁が止まらぬようになったのだと言う。

 馬鹿馬鹿しく聞こえるかも知れないが、人前で芸を披露する者としてはこれは一大事である。軽業芸を見に来た客に屁を披露する訳にもいかないし、屁が気になっては軽業などとても出来るものではない。少しでも集中が途切れてしまえば、大怪我に繋がるのだ。

「食事内容が変わったとかは、あるのかね? 例えば薩摩芋を多く食べる様になったとか」

 四十年程前に、学者の青木昆陽あおきこんようが薩摩芋の栽培方法についての発表をして以来、江戸の町には薩摩芋が多く普及した。これにより飢餓に陥る者は少なくなっている。

「いえ、特にそういう事はありゃしません。大体、芋食ったからって屁が止まらなくなったら、江戸の町人皆屁が止まらなくなりやすぜ」

 三国福平は「プゥウー」と響かせながら否定した。芋は屁を多くすると言われているが、確かにここまでひどくはならないだろう。米が買えない貧しい町民は芋を常食とする者も多いのだ。

「では、とりあえず薬を処方してみよう。五臓六腑の何処かに悪い所があるのかも知れぬからな。ついて来たまえ」

 そう言った平賀源内は立ち上がり、部屋の壁に設けられた戸を潜り、隣の部屋に向かった。平賀源内は様々な事を研究している。そのため、長屋全体を借り上げて内部を行き来出来るように改造しているのだ。

 平賀源内が向かったのは、薬研やげんや乳鉢が置かれた部屋である。

 平賀源内は、様々な分野でその名を知られており、それは発明家、戯作者、画家、地質学者と幅広い。あまりにも幅が広いため、彼をまともな学者ではなく単なる山師の類だと評価する者も多い。エレキテルという南蛮の道具で雷を発生させ、人々の評判になったりしているが、傍から見れば見世物にしか見えない。平賀源内はエレキテルを医療器具として入手したのだが。

 しかし、彼は元々本草学者であり、薬草やそれから調合される薬の研究が本分だ。そんな彼がひとまず薬で体質改善を試すのは当然であろう。

「胃腸に効果のある薬を調合した。一週間飲んでみなさい。効果があれば良し。そうでなければ調合を変えてみよう」

「へい。試してみやす」

 三国福平は「ブフッ」と屁を放ちながら丁寧にお辞儀した。


「平賀先生、全然良くなりやせん」

「うーむ。その様だな」

 三国福平が最初に平賀源内研究所を訪れてから、一か月が経過している。屁が止まらぬ奇病が未だ治らぬ事を示す様に、今も三国福平の尻から「プッ、ポッ、パッ」と漏れ続けている。この一か月というもの、何度か薬の配合を変えて処方したのだが、一向に良くならない。

「人参、生姜、陳皮、大棗、白朮、茯苓、半夏、甘草、その他にも胃腸に効く生薬を色々調合したんだが、どうにも上手くいかんな。調合要領が悪いのか、別の原料を用意すべきなのか……」

 平賀源内の本草学の知識は並大抵のものではない。なので他の町医者には治せなかったと聞いても、自分なら何とかなると自負していたし、他の町医者も平賀源内なら或いはと思っていたので、三国福平に推薦したのだ。

 それがどうにもならぬ。

「平賀先生、もう諦めやしょう。あっしが我慢して、別の仕事をみつければどうにでもなりやす。他にこんな病気になるヤツァいやせんから」

 三国福平はもう諦め顔で、「バフッ」と屁をしながら治療の中断を申し出た。いつまでたっても治せぬとあっては、平賀源内の名声を傷つける事にもなりかねない。これまで処方された薬は、自分の研究も兼ねているからと言って平賀源内は銭を受け取っていない。様々な面からこのままでは申し訳ないと三国福平は感じているのだ。

「いや、そうはいかぬ」

 しかし平賀源内は、気迫に満ちた顔でその申し出を断った。

「三国君、屁の悩みというのは何も君だけのものではない。君ほどの悩みは珍しいが、大小はあれどこれまで人は放屁に悩んできたのだ。例えば武士なら主君、朋輩の前で屁をひろうものなら、それを腹を切るほどの恥とするだろう。かつて戦乱の時代には、新年の祝賀の席で放屁したことを大名に叱責された武士が、それを恨みに思って主君を殺害し、大名家が断絶した事すらある。他には、品川の何とかという遊女は、客の前で放屁してしまい、自害しようとした事があると伝え聞いている。つまり、屁の悩みとは古今老若男女問わず重大な悩みであり、これを解決する事が出来たのなら、どれだけの人が救われる事か」

 平賀源内の熱のこもった演説を、三国福平は「プッスゥゥゥー」と屁を漏らしながら聞き、感動していた。平賀源内の世評は多種多様であり、彼の事を山師、詐欺師の輩と悪し様に言う者も多くいる。しかし、今三国福平の前にいる男は、人々の悩みを救いたいと真摯に研究に打ち込む聖人である。

 平賀源内は少年時代から本草学を学び、長じるにつれ様々な学問や事業に手を広げていた。これは、何も彼が一山あてて儲けてやろうなどと思っての事ではない。人々を救いたい一心からなのだ。

 本草学はその薬効により病魔から人を癒す。幼少時から学んだその本草学の理念は、平賀源内の本質に大きな影響を与えた。本草学だけに拘るのではなく、様々な方向で人を癒したいと思うようになったのだ。彼が修得した西洋画の技法は、人を癒す事とは一見何の関係も無い。しかし、美しい物を見る事は心を癒す事だと平賀源内は考えている。様々な殖産興業に手を出しているのも、自らが設けるためではなく、事業により社会全体が豊かになれば、その分人々が心身共に救われると思っての事だ。

 社会全体の人々を救いたいと考えている彼が、目の前にいる悩みを抱えた青年を見捨てるなど出来ようか。

(しかし、どうすれば……)

 悩みながら何んとなしに部屋を見回した平賀源内の目に、ある物が飛び込んできた。

 それは、部屋の隅に置かれた一抱え程もある木製の箱で、回転できる取っ手が付いており、加えて二本の銅線が飛び出ている。また、箱の内部には歯車で作られた複雑な機構や、ガラス瓶などが組み込まれている。これは取っ手を回転させることで、いかずちを発生させることができる道具であり、阿蘭陀オランダの商人がもたらしたものを平賀源内が入手したのだ。

 その名を「エレキテル」と言う。

 雷を発生させる事が物珍しいので、町衆は面白い見世物くらいにしか思っていないが、元来エレキテルは治療器具である。平賀源内としては自らの理想である人々を救済する事に使いたいと思っていたが、これまでその様な機会には恵まれなかったのだ。

 平賀源内はエレキテルを持ってくると、取っ手を回した。最近使用していなかったが問題なく機能し、小さな稲妻を二本の銅線の間で散らした。

「ひゃあ! こりゃあ凄いや。雷がこんな木の箱から出てやがる」

 初めて見るエレキテルに三国福平は、「ボンッ」と屁を破裂させて驚いた。

「三国君、これはエレキテルという南蛮渡来の治療器具で、この雷を浴びる事で人体の調子が良くなるのだよ」

「は……はあ」

「と言う訳で、このエレキテルを使用して雷を三国君の尻に浴びせれば、君の放屁の悩みも解消されるやもしれぬ」

「プゥ?」

 唐突な平賀源内の言葉に、三国福平は声も出ず、思わず屁で返事してしまった。

「じゃあ早速やってみよう。尻をこちらに向けたまえ。ああ、褌を脱ぐ必要は無いぞ」

「ま、マジっすか?」

 流石に自らの尻に雷を浴びせられると聞いて、三国福平は「パパパパパパ」と屁を響かせながら驚愕の表情で問い質した。色々な薬を飲まされる位なら理解できるが、これは想像の範疇を超えている。

 だが、平賀源内の顔を見てはっとした。その顔は真摯そのものであり、冗談を言っている表情ではない。自らの信念に殉ずる男の顔である。

 この様な顔をされては、それを信じねば男ではない。

「分かりました。信じやしょう」

 三国福平は裾をからげて尻を出し、エレキテルに近づけた。

「信じてくれてありがとう。エレキテルによる治療はあまり成果が残っておらぬが、万に一つの可能性で上手くいくだろう。多分」

「え? 多分って……うわ!」

 抗議の声を上げる間もなく、治療?が開始される。

「ぎゃ! うあ! ぎゃあぁぁ!」

 身も世も無く悲鳴を上げる三国福平を、大の男が情けないと嘲ってはいけない。尻に直接電撃を浴びるなど、とても人の身で耐えきれるモノ

ではないし、この様な実施方法は恐らく空前絶後であろう。

 途中、「真っ昼間からうるせえぞ!」と近所の住人が殴り込んできたが、目の前に飛び込んできた地獄絵図に速やかに退散してしまった。恐らく何が行われているのか理解など出来なかっただろうが、兎に角見てはならないモノを見てしまったのは理解出来ただろう。

 もしも抗議に訪れたのが公儀の人間だったら、もしやこれは異教——切支丹キリシタンの儀式なのではないかと誤解して、面倒な事になったかもしれないが、幸運な事にその様な事にはならなかった。まあこの悪魔も目を背ける行いと結び付けられたら、温厚な伴天連バテレンですら怒りのあまり助走を付けて殴ってくるかもしれないが。

「どうだね? もう屁は止まりそうかね?」

「がっ! はっ! うぉ! あっ! あぁっ!」

 エレキテルの電撃を浴び続け、三国福平は問いに答える余裕はなさそうだ。。何となく声に艶っぽいモノが混じって来たようにも聞こえるが、多分気のせいであろう。そして、治療?が開始されてから、現時点で屁は出ていない。

(これは成功か?)

 ドーン!

 そんな平賀源内の甘い思いを打ち砕く様に、久々に屁が放たれた。溜め込んでいたためにその量と勢いは凄まじく、大爆発の様だ。

 これまで屁が止まっていたのは、電流の影響で尻の筋肉が収縮し、強制的に堰き止められていただけなのだ。そして、堰き止められている間にも屁は腹の中に溜まっていき、最終的には限界を超えてこの様な事になってしまったのだ。

(嗚呼、駄目だったか。私には世の人々を救う事、目の前の人間の悩みすら解決出来ないのか?)

 屁の大爆発を間近でモロに受けた衝撃波と臭いで倒れ込みながら、その様な弱気な事を考えてしまう。そして、頭を放電を続けるエレキテルの上に突っ込んでしまった。

 その時、平賀源内の頭に電流が(物理的にも)走る。

「逆に考えるんだ。『屁を止められなくってもいいさ』と考えるんだ」

 何者かにその様な事を囁かれた様な気がした。

 それが衆生を病から救う薬師如来なのか、先程の悪魔的所業で召喚された魔神デーモンなのか、はたまた何処かの高潔な英吉利イギリス貴族なのかは不明だが、平賀源内はこの考えに目の前の霧が晴れる思いだった。

「三国君、ちょっといいかな?」

 平賀源内は思いついた方法を、放屁大爆発の反動で突っ伏したままの三国福平に話し始めた。


 両国橋の近く、立ち並ぶ見世物小屋に一際歓声を響かせる小屋があった。小屋には僧俗男女が押し合いへし合い詰めかけている。

 中に据え付けられた舞台には男——三国福平が座って客に向かって口上を述べている。そして、口上が終わると下座に控えていた男達の笛や太鼓の囃子はやしに合わせて「トッパヒョロヒョロピッピッピ」と評し良く屁の音を響かせる。

 それが終わるとまるでニワトリの鳴き声の様に「ブッブブーブー」と屁をひり分けて見せる。

 また、軽い身のこなしで宙返りをしながら「ブウブウブウ」と屁をひるので、あたかも水車が回っているようだ。

 三国福平が見せているのは屁の芸であり、押し寄せた観客は評判の「屁ひり男」を身に来ているのである。

 平賀源内が考えた策は、「屁が止まらぬのなら、逆に自由自在に出す訓練をしたらどうであろう」と言う事だ。

 屁を芸と出来るほど拍子も音程も自由に放出出来れば、見世物小屋で働く三国福平にとって飯の種となる。そうすれば屁が止まらぬとて困る事は無い。また、屁を自由にひる訓練は、逆に自由に止める訓練にもなった。無理に止めるよりも効果覿面てきめんであり、今では屁が止まらぬなどと言う事は無い。

「平賀先生、ありがとうございました。おかげで芸人としてやっていけそうです」

 屁ひり男として名声を博した三国福平が、ある日平賀源内の長屋を訪れた。治療や訓練の時は、謝礼を受け取らなかったのだが、芸人として成功した今なら受け取ってくれると考え、礼金を持って来たのだ。

「いやいや、屁の芸をあれだけモノにしたのは、君の努力あってものだ。礼には及ばぬよ」

 平賀源内は流石に謝礼を受け取ったが、自分の功績を誇る事は無かった。彼にとっては頼って来た者の悩みが解決出来ればそれで良いのだろう。

「それで平賀先生、旅支度の様ですが、一体どちらへ?」

 三国福平の言葉の通り、平賀源内は旅支度をしており、背中には巨大な行李を背負っている。

「うむ。長崎へ行くのだよ」

「長崎へ?」

「ああ、実はエレキテルが壊れてしまってね。構造は分かっているんだが、どうしても必要な素材が無くてね。長崎の出島で阿蘭陀人から入手するつもりだ」

 そこで三国福平は平賀源内の背負う巨大な行李に、エレキテルが入っている事に思い至った。

「へえ、壊れちまったんですか。でもどうしてで?」

「ああ、それはな。エレキテルを受ける君の様子を見て、気持ちよ……自分でも実験してみようと思ってやってみたんだが、ちょっと無理な態勢になってしまってね。倒れた時に壊してしまったんだよ」

「先生?」

 大恩人とはいえ平賀源内のあまりにも危険な香りのする言葉に、三国福平は訝しげな表情になる。

「ではさらばだ。私も研究に励むので、君も芸の道を精進したまえ」

 平賀源内はそう言い終えると、唖然としたままの三国福平を残して颯爽と旅立っていった。


 平賀源内はこの数年後、罪を犯して獄死した。

 ただ、その死にざまも様々な説が残っており、中には逃亡に成功したというものすらある。

 また、その評価も様々であり、西洋のレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する天才とするものや、単なる売名の上手い山師・詐欺師の類であるとの説もあり、毀誉褒貶きよほうへんが激しい。

 平賀源内が、天才なのか、それとも単なる変態なのか、それは誰にも分からない。

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