fin. 記憶の中の暗い雨

 目を覚ますと雨の音がしていた。真っ暗な部屋、静まり返った部屋の中に、冷たい雨が降りしきる音だけがあった。

 明け方から今まで、野枝実は何度か目を覚ましながらとろとろと眠り続けていた。一人きりの部屋で野枝実は、世界から取り残されていた。


 あれから、本題であったはずの荷物整理はあっけなく終わってしまった。野枝実のささやかな私物は先生が事前にほとんどまとめており、野枝実は持参したトートバッグにそれらを詰め替える作業をしただけだった。


 先生の部屋を出る前、すでに支度を終えた先生は、おいで、と玄関で手招きした。野枝実は吸い寄せられるようにたちまち抱きしめられ、彼の腕の中にすっぽりとおさまる。

 懐かしい感覚だった。目を閉じてその懐かしさの根源をたぐり寄せたとき、十二年前のあの日にたどり着いた。

 玄関口でしばらく何も言わずに抱き合った。これ以上こうしていたら体温が染み込み、忘れられなくなる直前で、よし、と小さく口にしたのが聞こえ、先生のほうから先に体を離した。


 薄い朝焼けが遠くにあった。昇り始めた太陽が水彩画のような淡い色彩であたりを浮かび上がらせ、誰も吸い込んでいない色のない空気が真夜中のまま冷え切っていた。

「ドライブでもしようか」車に乗り込んだとき、先生が口を開いた。笑いを含んでいたが明らかに硬質なその声は反響しない車内に吸い込まれ、すぐに消えてなくなった。外の世界は止まっていて、あたりは何らの音もしない。世界中で二人きりになってしまったような静けさであった。


「やめときます」野枝実は努めて明るい声色を作った。喉から心臓がぴんと張りつめて苦しく、もう歩いても帰れるくらいの見慣れた風景に囲まれると、その苦しさは頭から足先まで一本の糸のようになって息をするのも苦しくなった。

 嫌だなあ、と思う。

 アパート近くのコインパーキングに車を停め、エンジンの音が止まるとたちまち無音がのしかかってきた。


 風景が停止していた。目の前にある一軒家やアパートの窓すべてのカーテンが閉めきられ、すべてが眠りの中にあった。そのような風景をうち眺めながらしばらく沈黙した後、どちらともなく車を降り、自宅の前まで歩いてきたところで別れた。そこで聞いたのが先生の最後の声だった。


 記憶は具体から抽象へと今も形を変えている。それは実際の時間の経過とは逆行していて、何年も前のことは写真のようにはっきりと思い出せるのに、今日へ近づけば近づくほどその風景はぼやけた水彩絵の具のように滲んでいる。昨日から今日にかけてはもはや原型を留めていない。


 車を降りたときはまだ、またいつか会えるだろうと心の中で思っていた。何かのきっかけで、何かの偶然で。ある日また気まぐれに先生から電話がかかってくる。置き忘れた荷物があるなどと口実を作って会いに行ける。何度も待ち合わせした駅前で、何度も一緒に歩いた街のどこかで、ある日偶然出くわせる。


 しかし眠って起きて眠り、もう一度目を覚ましてから野枝実は気づく。もう二度と会えない。何度眠って起きたところでそれは絶対に覆らない。


 だったらこのままずっと眠っていたい。あたたかい、とろとろの眠気の中でずっと夢と夢じゃないところを行き来していたい。でもそれは半分嘘だ。


 本当は今すぐ外に飛び出したい。全身で大雨を浴びたい。産まれたときと同じくらいの大声で叫びたい。叫び疲れたら一番見晴らしのいい高いところに上りたい。真夜中の海の中を駆けてびしょ濡れになりたい。びしょ濡れになりながら、誰ともない名前を呼びたい。


 でも今はもう疲れた。


 カーテンを開け放したままの窓から街灯が差し込んで、部屋の中はほの明るい。白くて寒々とした明るさであった。時間を見ようとスマホに伸ばしたむき出しの腕に冷気がまとわりつき、野枝実は慌てて手を引っ込めた。夜の中に穿たれた窪みのような部屋の中で、布団の中だけが自分の体温であたたかい。今何時なのかも結局わからず、野枝実は時間からも取り残された。


 薄暗闇の中で目を開けていると、暗い天井に断片的な映像が映し出され、浮かんでは消える。先生とかつて夢のような時間を過ごしていたとき、いつかこの瞬間を思い出すときが、自分の後ろ姿を眺めるときが来るのだろうかとふと考えたことがあったが、今がまさにその瞬間だと思った。

 洗面所でシャンプーを詰め替える背中。野枝実に背を向けながら隣で眠る彼の背中。飲み過ぎた翌日、トイレで嘔吐する先生の背中をさすったときの、その背中。抱き合いしがみつくときの熱い背中。その背中をいつになったら懐かしむことができるようになるだろう。


 手を繋いで寝ようと言われしばらくそうしていたときの体温が、まだ野枝実の手のひらにわずかに残っている。

 手。力強い手。器用な手先。白髪の混じったぱさついた髪。半開きの唇。苦しそうに歪む顔。眉間に刻まれるしわ。吐息。声。朝と昼と夜の何もかも。時に空洞のような、時にどんよりと沈んだ奥底を持つあのまなざしが脳裏に立ち上がる。


 いろいろなできごとがあって、いろいろなところに行って、いろいろな話をして、いろいろなことをしたと思っていたけれど、結局思い出すのはそんなことばかりであった。


 私は眠って起きて、また眠る。先生も眠って起きて、また眠る。時々変な夢を見る。嫌な夢を見る。懐かしい夢を見る。それが続いてゆくだけだ。一年に一度歳を取り、二人ともいずれ老いて消える。先生のほうが少し先に。それだけのことだ。


 雨の降る街に、たくさんの家が立ち並んでいる。一様に雨に濡れた家々の窓にはぽつぽつとあかりが灯り、それらは夜の中でやわらかな光を放っている。その光はやがて野枝実のまぶたの奥で形を変え、顔のない、誰ともない誰かの後ろ姿となる。野枝実はその気配に耳を澄ませ、やわらかい光源へ入り込もうとする。

 抱きしめられているようなあたたかさの中で、野枝実はもう一度目を閉じる。(了)

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