4-12. 移り変わる

 一か月後の約束した日は、野枝実が先生の自宅に置いていた私物を引き取るといった事務的な用件によって消化された。


 いつものように駅で待ち合わせをしてチェーンの喫茶店で軽く食事をしたとき、野枝実は先生から長いこと預かっていた彼の実印を返した。先日、この印鑑を使って野枝実は一人で離縁の手続きを済ませた。

 ちょうどコーヒーのおかわりを注ぎに来た若い女性の店員がちらりと印鑑を見やり、一瞬じとりと視線が止まる気配を感じた。ほとんど飲んでいないコーヒーを形だけ注ぎ足した店員に、野枝実の代わりに先生が小さく頭を下げていた。


 先生の自宅で少し泣いた後、そうしないつもりでいたものの結局一度抱き合って眠り、日付が変わるころに目が覚めた。どちらともなく起き出すと、玄関に脱ぎ捨てた上着を拾い上げてしばらく外を歩いた。

 夜が深まった住宅街は街灯もまばらであった。まばらな街灯は二つの影を照らし出し、やがて薄まって見えなくなる。

 急な坂道を下りてゆくと川沿いの歩道に行き当たる。遠くにかすかな電車の走行音が聴こえる黒い川に沿って、二人はあてもなく歩いていた。


 きっとこれから、どんなときでも思い出してしまうだろう。この夜のことを、彼の吐いた息の白さを、体に染み入る寒さを。いつかきっと何も思い出さなくなるだろう。


 ソファで泣いていた野枝実が顔を上げ、それまでに黙って寄り添っていた先生を見たとき、その目の奥がわずかに見開かれ、まぶたが熱を帯びていた。それを見たとき野枝実の内臓がぎゅっと収縮して目の奥がかっと熱くなり、再び滂沱たる涙が頬を伝った。ぐしゃぐしゃになった顔を先生の胸に押しつけているとなんだかもうどうでもよくなり、そのままなだれこんでしまった。


 彼の瞳の奥でずっと燃えていた低温の炎の温度を確かめた。最初から最後まですべて確かめた。夕方から夜へ、夜から真夜中へ、真夜中から朝へ移り変わる時間のすべてを見届けて、すべてが繋がった。繋がったすべてが手に入った瞬間、今度はそれが手からこぼれ落ちてゆくのを見た。完成した途端に壊さなければならなくなる。跡形もなく解体しなければいけなくなる。一度手に入ってしまったものを手放すのは、一度も手に入らないことよりもずっと辛いと思った。


 川沿いをしばらく歩き、幹線道路へ行き当たる手前の角で曲がり、静まり返った住宅街をしばらく歩き、再び急な坂道を登った。こんな時間でもひっきりなしに行き交う車のそれぞれはどこへ向かうのだろう。


 坂の中腹に小さな公園があり、そこになんとなく入り込んで一周した。昼間は子どもたちがはしゃぐ声で溢れているであろう公園は、今はどこまでも無音であった。

 野枝実は滑り台に上り、頂上から先生を見下ろして手を振った。先生、と小さく呼びかけてみると先生は微笑んで手を振り返す。彼はいつもなら大体こういうときに野枝実の写真を撮ってくれるが、今日はそうしない。そういえば、彼のスマホにたくさん入っているはずの野枝実の写真は消すのだろうか。


 滑り台の頂上は少しだけ空に近い。星のない曇り空は低く、中空あたりで詰まっている。低い夜空を見上げていると次第に息苦しい気持ちが起こった。その息苦しさは、夕方絶え絶えになりながら野枝実が口にしていた先生への告白と似ていた。


 好きです。好きです。好きです。好きです。大好きです。夕方の野枝実は喘ぎながら言っていた。

 黙って野枝実を抱いていた先生は一度だけ口を開いた。

 欲張ってごめん。こんなことしかできなくてごめん。先生はかすれた声でそう口にして、苦しそうに目を伏せた。


 野枝実の頬に触れる彼の指先が濡れていた。汗とも涙ともつかないそれは熱い肌の上ですぐに消えてなくなる。先生の動きのすべては静止画のようで、二度と見られない写真のようだった。


 滑り台の頂上で野枝実が空を見上げていると、先生もそこへ登ってきて野枝実の隣に並び、狭い頂上は大人二人でぎゅうぎゅう詰めになった。

 先生の声、言葉、唇の動き、間の取り方、が今隣にある。次の夜にはもう感じることはできないと思うと話すことも苦しい。

 身を寄せ合いながら空を見てみたり眼下の砂場を見下ろしてみたりしていると上に行っても下に行っても有窮であると身につまされて、時間からの逃げられなさが身につまされて、いっそのこと二人して消えてしまいたくなる。


 夕刻の部屋で、先生が絞り出すような声を出して果てたとき、野枝実はぐるぐる回る混沌からようやく解放される思いだった。熱い息を吐きながら野枝実の唇に吸いつき、汗ばんだ腕で力強く抱きすくめてきた目の前の彼は、やはり誰でもないような気がした。

 野枝実の体にはまだそのときの余韻が残っている。肋骨のあたりがじんわりと熱く、太腿の付け根の筋肉が痛み、肘の裏や、喉の奥や、顎の関節や、足首や、足の爪先や、あらゆる箇所が鈍く痛んでいた。先生はどうだろうか。

 その余韻は今も野枝実の体中から揮発して、じきになくなる。今、白く吐き出しているこの息のように夜の中に溶け出して、明日の今頃にはきっと何事もなくなっている。


 どちらともなく階段を降りて再び地上に戻ると、何も言わずに帰路についた。

 もうすぐ虚構から抜け出すことになる。説明のつかない、誰にも言えない、奇妙な夢のような毎日。底なしの井戸に細い光が差したような気がしたが、その光が何のためにあるのか野枝実にはわからない。


 先生、先生、お父さん、先生、お父さん、お父さん、先生、お父さん、先生、先生、お父さん、先生。歩を進めるたびに、冷たいアスファルトを踏みしめるたびに、隣を歩く先生の影が今も移り変わっている。

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