4-11. 匂い
取り返しのつかないことをしたと今まで何度も思った。先生に初めて思いを伝えたときに、灯台のふもとで初めて先生に受け入れられたときに、後ろ手に閉められた鍵が、かちゃ、と音を立てたときに。親子になったときに。本当のお父さんを選んだときに。どこまで戻ればよかったのだろう。野枝実は今まで歩いてきた道を振り返ったが、まっすぐに続く一本道は足元から真っ暗になって何も見えなくなっていた。
そもそも初めから取り返しなどついていなかった。あの日、友達を待って校門で一人うつむいていた時点で、怪しい男に髪の毛を引き抜かれた時点で、転んで怪我をした時点で、先生が迎えに来てくれた時点で、初めて抱きとめられた時点で、こうなることは決まっていた。どうにかしようともがいていたけれど、初めからどうにもならなかったことだった。
燃え上がるようなどうしようもなさを自覚する一方で、野枝実の心中は静謐であった。静謐な心中で、あらゆる匂いとそこに紐づく感覚が現れては消えた。
それらの匂いと感覚は、恐らくこれからも野枝実の身の回りで浮かんでは現れ、この先ずっと野枝実とともにある。そして、それらに付随するまぼろしは永遠にさまよう亡霊となる。
きっとこれから、どんなときでも思い出してしまうだろう。カーテンの向こうに朝が来るときに、目を覚ますときに、寝汗をかいた体が乾いてゆくときに、むせ返るような春の陽光に包まれるときに、鮮やかに咲く花の色合いにくらくらするときに、虫食いのような夏のひだまりを目にするときに、突き抜けるような青い空を見上げるときに、果てしないほどに青い夏の空に途方もなくなるときに、濃く短い影が足元で動くときに、額にじっとりとかいた汗をぬぐうときに、眠れない夜を過ごすときに、夜中に小さな黄色い花の蕾が開く瞬間を目にするときに、鋭い月明かりに照らされるときに、薄い雲に月が隠れてぼんやりと光るときに、その空に星を一つだけ見つけるときに、しんと冷たい冬の空気を吸い込むときに、眠りにつくときに、ふと涙を流すときに、一人になるときに、息をするときに。
そしていつか何も思い出さなくなるだろう。明け方見た夢をぼんやりと思い出すときに。伸びた髪を切るときに。駅のホームから雨に濡れた街を見るときに。冷たい雨で上着を濡らすときに。傘を持つ手がかじかむときに。白い息が雨にうたれるときに。雨が上がり、濡れた街が静まり返るときに。煙草の匂いがするときに。いつか誰かに抱かれるときに。
夜が明けて二人で朝食をとり、先生の車に乗って野枝実は一人で暮らすアパートへと戻る。木曜日ぶりに帰ってきた自室で昼過ぎまで再び眠り、溜まった家事を片付けながら少しずつ暮れてゆく空のグラデーションを目にする。夜になれば眠り、再び夜が明けると仕事へ行く身支度を始める。いつもと何ら変わりのない日曜日と月曜日であった。
そのような日曜日と月曜日を何度目かにくり返したとき、野枝実は先生に伝えた。
お父さんに会いたい。それはすなわち先生を捨てるということであった。
先生に自室まで送り届けられながら、最後に会う日取りを決めた。別れ際、いつものように車中から手を振り、野枝実を見送る彼の姿を無下にした。
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