4-10. さざなみ
二人で年を越し、二人で新しい年を迎えて一月が経つと野枝実の誕生日がやってくる。二十七歳を迎える誕生日を、野枝実は先生と例年のようにお祝いした。
毎年行っているレストランで、二人で食事をした。久しぶりにデートしよう、と先生に誘われ三年ほど前に開拓したフレンチの店で、それから毎年の誕生日やクリスマスに足を運ぶようになったところだった。
コース料理を一通りこなした後、小さなケーキとコーヒーが運ばれてくる。ケーキの皿の縁にはチョコレートペンでBon Anniversaire Noémiとあり、顔なじみの若い店員から小さな祝福を受けた。
いくつになっても慣れない行事に照れ笑いを浮かべながら、野枝実は苦しかった。あの日以来、父から電話がかかってきた日以来、先生が彼なりに必死になっていることが苦しかった。その苦しさは、かつて母が野枝実に向けていたいびつな明るさ、いびつな頑張りを見たときと同じ類の苦しさであった。
目の前のおいしそうなケーキを、いつもよりきちんとめかしこんだ先生を、お酒によって緩んだ表情を、上機嫌な仕草を、上気した目じりのしわを、自分が苦しく思うことですべて無下にしているようで苦しかった。
そうだ、今のうちに渡しちゃおう、と先生はおもむろに鞄を開ける。取り出された小さな赤い包み、その中身は恐らく以前に野枝実が欲しいと言っていた腕時計であった。
受け取る指に力が入りきらなかった。手渡された包みが二人の手の間を滑り、他愛なくケーキの上に落ちた。赤い包装紙はたちまち生クリームにまみれ、精巧なケーキはたちまち跡形もなく潰れる。
野枝実は汚れた包みを床へと落とし、すかさずそれを踏みつける。同時にケーキとコーヒーをひっくり返す。ぐしゃぐしゃになったケーキにフォークを突き立て、ぐしゃぐしゃにかき回す。
壊したい、消したい、全部なかったことにしたい、破壊的な衝動に野枝実はされるがままになっている。いびつな頑張り、母の顔、その奥にほんの少し浮かぶ父の顔、それらすべてにフォークを突き立てた。先生がどんな顔をしているかを見る余裕もない。でも先生、大好き。どんな顔をしていたとしても。怒った顔も困った顔も悲しそうな顔も全部。
「野枝実、大丈夫?」
目の前に座る先生の声で野枝実はようやく我に返った。
「水もらおうか」野枝実が返事するより先に先生は後ろを振り返って水を頼んでいる。目の前のケーキは手をつけられずに運ばれてきたときのまま鎮座していた。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた。あと、プレゼントは何かなって考えてた」
野枝実はすでに鞄にしまった包みをちらりと取り出して笑ってみせる。
どうしよう、と思う。どうしよう。どうしよう。どうしよう。野枝実は依然として混乱していた。灯台の上で底なしの井戸に落ちたのを自覚したときからずっと、緩慢な混沌の中にいた。
抱き合った後の浅い眠りがすぐに去って目を開けると、野枝実は先生の腕の中にいた。
野枝実の首の下を先生の腕が通り抜けている。枕元に伸びるその腕と、伸びきった先にある弛緩した手のひらを野枝実は見つめる。五十年を経た肌のきめが、木彫刻のような粗いきめが浮かび上がっていた。野枝実はその手のひらの隣に自分の手のひらを並べてみる。
中学三年生の秋、野枝実の頭上に初めてついた彼の手形は、長い月日をかけて頭のてっぺんから足の指の先まで、くまなく野枝実の全身に刻印された。この手、この腕、この唇、この身体によって。先生の全身でもって。そのすべての痕跡に色をつけて見ることができるとしたら、きっと自分は全身の色が変わってしまっているだろうなと野枝実は思う。
「野枝実、起きてる?」
寝ていたと思った先生の声が突然差し挟まれた。起きてるよ、と野枝実が振り向こうとすると、先生はそれをやんわりと押しとどめて抱き寄せる。このままでいいよ、とささやくような彼の声が、その後の沈黙と彼の心臓の音が野枝実の背中に溶け出した。
「今日、ちょっと辛そうだったね」湿った息が耳元にかかる。
「お父さんのこと考えてた?」野枝実は回された腕に少しだけ力をこめた。何も言えずにそのまま沈黙していると、
「辛い?」いつもは野枝実の沈黙に踏み込んでこない先生が言葉を継ぐ。ちょっと、と野枝実は消え入るような声で答えた。
野枝実の頭を撫でていた先生はしばらくして、あのさ、と口を開いた。
「野枝実が辛いんだったら、もうやめてもいいと思うんだ」
思わず先生の腕の中で振り向く。電気を消した部屋で、先生の目の奥はしんと静まり返っていた。
「なにそれ。全部私が決めていいって言ったじゃん」
「そういうことじゃない。野枝実が辛い思いしてまでこんなこと続けなくていいって言ったんだよ」
先生はわずかに語気を強める。暗闇がわずかに硬質になって二人の間に立ち込める。
こんなこと、と言われたら確かにこんなことであった。小さな矛盾に蓋をし続けて、隣り合ったまま平行線をたどり続けていたことにそもそも無理があったのだ。
こんなことだったら、こんなことになるんだったら、と野枝実は思う。
こんなことだったら、はじめから先生の本当の子どもだったらよかった。いっそのこと先生から産まれてきたかった。先生と私以外誰もいない、誰も登場しない、何らの矛盾のない世界。
それが叶わないなら、あるいは。先生と私との間にもう一度私を産み落としたい。父である先生との間に、あるいは父であるお父さんとの間に。先生との間に一人の私を、お父さんとの間に一人の私を産む。母である私はひっそりと消える。これが一番矛盾のない、悲しみのない調和なのではないかと思う。
ああ。今までの思い出すべてが邪魔をする。お父さん、どうしていなくなっちゃったの。お父さんがいなくならなければこんなことにならなかったんだよ。でもお父さんがいなくならなかったら。きっと先生にも出会えなかったことにも気づいた野枝実は再び途方もなくなる。
お父さん、いなくなったのにどうしてまた現れるの。どうして忘れかけたころにいつも現れるの。どうして私から忘れる選択肢を奪うの。会えるかもわからないのに、どこにいるのかもわからないのに会いに行くなんて言われて、もやもやするじゃん。命がけでもやもやするじゃん。住所も知らないのに会えるわけないじゃん。でもお父さんなら、もしかしたら見つけてくれるかもしれないって思っちゃうじゃん。もし会えなかったとしても、覚えていてくれただけで嬉しいって思っちゃうじゃん。
胸がわだかまり、息苦しさで目には涙がたまった。その一筋がこぼれ落ちたとき、野枝実はどうにか体を反転させて「こんなことなんて言わないで」と先生にすがりついた。
ごめん、とささやくような声で言った先生は野枝実を胸に抱き、
「今は無理に考えなくていいよ」
そうして野枝実はまた甘やかされ、わだかまりは彼の胸のあたたかさによってまやかされる。ジグソーパズルが合わさるようにぴったりと抱き合えるこの心地よさが、今は少しの隙間もないことが苦しい。
今まですべて手放すことを選んできた先生はこれから、野枝実に手放されるかもしれない。彼はずっとそうやってなげやりにうち捨ててうち捨てられて、そのたびに振り出しに戻される。
先生の幸せは一体何だろうと野枝実はふと考える。先生に尋ねたらきっと、今が一番いい、と言うだろう。そのように言うために、そのように思うために時間をかけて空っぽの井戸になった彼を思って途方もなくなる。それから彼の幸せの本当の本当のところを思い、彼の奥底の到底手の届かない深い孤独にどうすることもできずに呆然とする。
先生、何がしたいの。先生に空いている穴と、私に空いている穴の両方を広げただけだったのに、先生が一番わかってるはずなのに先生は何がしたいの。それを埋めることなんてできないとわかっているのに、どうして私と一緒にいることを選んだの。お父さんに会えても会えなくても寂しくするの。不幸にするの。どうして私と一緒に不幸になることを選んだの。
野枝実の頭に波が寄せては引いて、浮かびかけた思いを波がさらっていった。
野枝実の呼吸が落ち着いたとわかると、先生は野枝実の頭をぽんぽんと撫でて抱いていた腕をほどき、仰向けに寝返ってしばらくすると、そうだ、と小さく声を上げた。暗闇の中に灯った豆電球のような、ほのかに明るい声だった。
「さっき夢に昔の野枝実が出てきたんだよ」
「昔って?」
「中学生のころ。制服着てた」
中学生のころ。先生は続けた。
「膝に大きな絆創膏貼ってて痛々しかったな。あれはあのときか、なんか転んじゃったんだよな」
そうそう、転んじゃった、と野枝実は噛みしめるように言う。自分に初めて先生の手形がついた日のこと、つい先ほど考えていたことだった。
「夢の中でも思ったけど、野枝実はかわいいな」
学生のときは思ったことなかったけど、と付け加えて先生は目を閉じる。ずるいことを言う、と思った。
「どうしたの、そんなこと普段は言わないのに」野枝実も明るい声を作って背中をつついてみると、
「毎日思ってることだよ」
先生は目を開け、指先で野枝実の頬をふにふにとつまんだ。これが恐らく自分に刻まれる先生の最後の手形だろうと野枝実は思う。
しばらくして眠りに落ちかけたとき、隣の気配がのそりと動いた。眠ったふりをした野枝実の寝顔に先生が一度唇を合わせてきたとき、野枝実は不思議な調和を感じた。不思議と涙はこみ上げず、大海を身一つで漂流しているような薄い寂寞がただ広がるばかりだった。
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