4-9. 顔をもった影[2]

 冷えきった体で部屋に戻ると、先生は起き上がって卓で煙草を吸っていた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「ううん、今目が覚めた。お茶でも淹れようか」

 あ、私がやる、と野枝実は急須の乗った盆を引き寄せた。先生は寝る前に使った飲みさしの湯呑みを手にとって立ち上がり、流しへと向かう。


 渓流の水音が響いていた。豆電球だけをつけた部屋で細長い卓に向かい合わせになり、静かにほうじ茶を淹れて飲んだ。

「そんな格好で出て、寒かっただろ」

 ゆっくりと冷めてゆくほうじ茶を半分ほど飲んだころ先生が言い、おいで、とあぐらをかいた膝をぽんぽんと叩く。野枝実がそのくぼみの中に入り込むと後ろからすっぽりと抱き込まれた。あたたかい毛布のような先生の腕の中でほうじ茶を一口飲むと、生ぬるい一筋が喉から胃へと下りてゆく。

 一口飲ませて、と言いながらふざけて二人羽織のようにお互いのお茶を飲みあっていると、野枝実は猛烈に胸が苦しくなった。この手が、この胸が、この腕が、いつか決定的な過去のものになるという予感がよぎり、野枝実は思わず振り向いて先生に抱きついた。


「先生、いなくならないで。ずっと一緒にいて」

 思った以上に切羽詰まった声が出た。

 切実な野枝実を先生はやわらかく抱きとめる。黙って野枝実の頭を撫でていた先生はしばらくして、いなくなったりしないよ、とささやくような声で言った。

「ぜんぶ野枝実が決めていいんだよ。野枝実の好きにしていいんだよ」そう付け加えると野枝実の前髪をかき分けて額と額をくっつけた。


 先生は野枝実をいつものように甘やかす。その甘さに野枝実もとろとろと身を委ねて幸福になる。

 先生の指、髪を撫でる指、耳の周りのでこぼこをなぞる指。先生の唇。野枝実の唇をついばむやわらかい唇。野枝実の下唇を甘く噛むように挟みこむ唇。その下唇を、つるつるとなぞるように舐める舌先。強張った肌と今日一日の疲労と、もやもやと膨らみ続ける胸のわだかまりがなだめすかされてゆく。

 先生は野枝実をひょいと抱き上げて布団へと運ぶと、何も言わずに覆いかぶさってきた。


 ぐるぐると混乱した野枝実を先生はもう一度抱いた。諭すように全身を愛撫し、いつにも増して優しく、いつにも増してじっくりと責めた。

 野枝実はいつにも増してよく応えながら、先生がどんどん不器用になっているのを全身でもって感じていた。今までになかった迷いが出て、愛撫はどこかぎこちなくなり、いつも恐ろしいくらいにぴったり合致する歯車はどこか噛み合わず、心地のいい唇には時折獰猛な焦りが混じるようになった。


 先生は自分ではなく先生自身を甘やかしている、と野枝実は思う。そもそもそれは甘やかしに見せかけた放棄であった。選択すること決断することに対する無自覚な放棄であった。


 野枝実、養子縁組はやめてやっぱり結婚しようか。結婚して子ども作ろうか。

 そうささやく先生の甘い声色には明らかな動揺の色がにじんでいる。

 うわごとのように言う先生が結婚なんて本当は全然したくないことくらい野枝実もわかっている。返事の代わりにその背中に強くしがみつき、指先で背骨を探り当て思いきり爪を立てて引っ掻くと、苦しそうなうめき声が耳元でわだかまる。


 先生の子どもでいられなくなったら。子どもとしての役目がなくなってしまったら。役から降りてしまったら。もし先生から庇護されない存在になったら。そこまで考えたとき、野枝実は突然怖くなった。居てもたってもいられない焦燥が沸きあがり、沸きあがると同時に途方もない亀裂に落下していくような絶望に首筋が寒くなった。


 きっと私はずっと誰かの子どもでいたいのだと野枝実は思う。

 先生もまた、自分より小さいものをずっと庇護していたい人であった。彼の愛情の本質は庇護であって、庇護することで先生は自分をどうにか保っている。その愛情を表出するただ一つの手段が野枝実とともに散々に耽溺した肉体的な交わりであったこと、故に愛と庇護と性の境界が失われそれらが根本的なところで矛盾していることが彼の不幸であった。また、本来であれば野枝実の父のことについてじっくり向き合うべきところを結局は野枝実への愛と庇護に帰着するところは、本当に欲しいものを自分のものにするための手段と身の振り方を知らない、本当に欲しいものが今まで一度も手に入ったことのない彼の根本的な弱さであった。


 庇護するものとされるもの。まさしく庇護するような、救助するようなやり方で先生に抱かれながら、私たちはやっぱり似たもの同士だと野枝実は思う。


 そして、お父さんが現れたことによって先生のまぼろしの部分がそぎ落とされ、あらゆる幻想をそぎ落としてもなお野枝実が先生を求め続けている今、そのいびつな共依存はいっそう修復不可能なものになった。そのことに気づいた野枝実も不幸であった。


 先生が野枝実の名前を呼びながら動きを速め、野枝実は大きく喘いで乱れた。


 先生、かわいそう。今ここにないものを探し続けて、これからも見つかることのないものを探し続けて、探しているものが何かもわからないまま、探していることすら気づこうとしないで、この先も見つかることはなくて、本当に本当にかわいそう。


 憐憫を含んだ執着はすなわち自分の身が代わりに引き裂かれるような、痺れるような幸福を伴っていた。全身で先生の重さと熱さを感じるたびに身も心も千々に引き裂かれ、その重さと熱さは野枝実のものとなって、木肌に太い彫刻刀を突き立てて抉るように、先生の一つ一つが野枝実に刻印された。


 そうして先生から離れられなくなればなるほど、野枝実の内でお父さんの存在も肥大してゆく。もしも今後本当のお父さんに会えるようなことがあるとしたら。そうしたら今度は、お父さんとなった先生はまぼろしになる。すると、今度はまぼろしとなった先生のことを思い出し続ける。もはや忘れるという選択肢は残っていない。先ほど先生は、すべて野枝実が決めていいと言った。それはすなわち、あらゆる退路が絶たれたところで野枝実を突き放したということだった。


 絶え絶えの思考がぬらぬらと浮き沈みをくり返していた。すがりつくように強く抱き合いながらお互いに果てた後、腿の内側にかいた汗が冷えるのを感じながら野枝実はその続きを考えたものの、頭の中には何らの意志も願望もないことに気づくばかりだった。


 そして、強く抱かれた今しがた、先生が初めて自分に対して明確な執着を持ったということにも気づく。その執着は根源の部分では野枝実そのものに対する執着ではないことはわかりながらも、隣で眠る先生が昔からそこにいるように野枝実のそばにいることに作り物のような白々しさを抱きながらも、いっそう先生のことが愛おしくもはやどうしようもない。


 野枝実は目を閉じ、隣の寝息と部屋の外で響く渓流の音を聴いていた。

 渓流の水音は夢の中の湖へと続いていた。肌寒い曠野のようなところに湧く透き通った水。遠くにボートが一つ浮かび穏やかに上下していた。その上下は野枝実の呼吸のリズムと同じであり、先生の呼吸のリズムと同じであった。

 止まったままゆっくりと上下するボートの上で、電気を消して眠れないまま朝が来る。窓がきっと結露している。喉が渇いてきっと口が臭い。川面の水をすくって飲みたい。


 浅い呼吸で野枝実は目を覚ました。猛烈に喉が渇いており、思わず川面の水を探して畳を撫でた。

 先生は野枝実の隣で静かな寝息を吐き続けながら、水面に浮かぶボートのようにじっと眠っていた。

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