4-9. 顔をもった影[1]

 二度目の蜜月であった。どこにも出かけない休日が続いた。晴れの日も雨の日も昼間からカーテンを閉めきり、野枝実は先生と二人きりの世界に閉じこもった。身体と時間の境界がなくなり、二つの身体の境界をも曖昧にした。先生が与えてくれるすべてを体に刻み込みたい。先生との思い出だけでこの先ずっとやっていけるくらい、先生でいっぱいにしたいと思った。


 十一月の連休を使って、先生は野枝実を久しぶりに外へ連れ出した。温泉であった。

 目的の温泉地へと向かう道中、市街地の大きな県立公園に立ち寄った。いちょう並木が綺麗な公園であった。黄色い葉が散り敷いた並木道をしばらく歩き、自販機であたたかい飲み物を買ったのちベンチに腰掛けて休憩した。朝から運転し続けていた先生は、しばしそこで目を閉じていた。


 静かな公園にゆっくりと時間が流れていた。野枝実がはちみつレモンのペットボトルで手をあたためていると、目を閉じたまま先生が口を開いた。

「温泉は初めてだね」

「うん、実は今まであんまり行きたくなかったんだよね」

「なんで」

「不倫旅行だと思われそうだから」

 なに、そんなこと気にしてたの、と先生が吹き出して目を開ける。

「どこからどう見たって我々は不倫カップルだよ」

 そう言って笑う、くっきりとしわの刻まれた横顔に昼下がりの陽光が差していた。


 小さな温泉地は閑散としていたが、閉塞した日々を送っていた野枝実にそこは開放的に映った。渓流が流れる静かな温泉街で、たまに行き交う人たちの足音や話し声の間から常に勢いのいい水音がしていた。

 宿の駐車場に車を置くと二人で温泉街をしばらく歩き回り、小さな喫茶店で甘いものを食べ、宿近くの酒屋で地酒を買った。冷蔵棚をじっと見ていた二人に話しかけてきたのは饒舌で気さくな初老の店主で、二人の好みを聞きながら次から次へと酒瓶を出しては見せてくれた。


 宿の急な階段を上り案内された二階の部屋は、窓の外にぼうっともやのかかった秋の山並みが広がっていた。水音がするのでバルコニーに出てみると部屋の真下にちょうど渓流があり、透き通った水が上流から下流へ健やかに流れていた。

 大浴場に入り、静かな食事処でお腹いっぱいになった後は、部屋にある露天風呂に二人で浸かった。食事の間に部屋にはふかふかの布団が二つ並んで敷かれ、部屋の端に寄せられた卓に向かい合わせに座り、先ほどの酒店で買った四合瓶を二人で分けた。ぽかぽかとあたたまった体に冷えた日本酒が染み入ってますます心地よく、渓流の音にぽつぽつと会話を乗せながらその瓶がゆっくりとむなしくなった後、ぬくぬくとあたたまった先生に抱かれた。二人きりで閉じこもっていたとき、野枝実の行き場のない情欲にどこまでも付き合ってくれていたときのような手応えのない肉体ではなく、ろうそくのゆらめきに手のひらをかざしているような、じんわりと熱い交わりであった。


 野枝実のスマホに、滅多にない着信があったのはその後のことだった。

 固い振動音で野枝実は目が覚めた。深夜の公衆電話からの着信。怪訝に思った野枝実はそのまま煌々と明るい画面を伏せ、それからすぐに着信はやんだが、程なくしてまた振動し始めた。不気味になり隣で眠る先生をちらりと見やったが、すっかり眠りこんでいる彼を起こすことが躊躇され、野枝実は震えるスマホを手にとってそのまま静かに起き上がった。

 そういえば前にもこんなことがあった。確か去年も、その前の年も、今時分に決まって夜中に公衆電話から着信が残っていた。


 公衆電話。野枝実はある一つの直感を持って咄嗟に電話を取った。

 無言のまま耳を当てるものの、電話口の向こうも無言のままである。周囲の雑音が遠くに聞こえるばかりだったが、しばらくした後その雑音の奥で、すん、とかすかに鼻をすする音が聞こえた。やけに立体的な音で、その鼻の輪郭が目に浮かぶようだった。


 お父さんだ。直感が陰影を帯びて目の前に現れる。

 野枝実が小さく息をのむと電話口から、野枝実、と呼ぶ声がした。かすれた低い声。時計がものすごい速さで逆回転を始め、野枝実はめまいがするほどの過去の中にいた。


 隣の先生が目を覚まして起き上がる。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、何も言わずに野枝実の肩を抱いた。

「お父さん?」

 やっとのことで野枝実が言ったとき、先生の腕がわずかに動揺したのを感じた。

 電話口の向こうの空気は凪いだままであった。


 よかった、ようやく通じた。電話口の空気がわずかに緩んだとき、耳元でがちゃんと硬貨が落ちる音がした。残り時間がわずかかもしれない。

「野枝実、近々会いに行くよ」

 待って。お父さん、待って。ばくばく音を立てる心臓に邪魔されて言いたいことが言えない。


 野枝実、ハッピーバースデー。アイラブユー。

 そこで電話が切れた。野枝実は先生に背中をさすられながら、彼の腕の中に顔を埋める。


「お父さんから?」

 腕の中で野枝実はうなずく。ふんわりと抱きしめられ、よかったね、と穏やかな声がした。

「ハッピーバースデーだって。誕生日、まだまだ先なのに」

 笑いが引きつっているのがわかった。先生は何も言わずに野枝実を胸に抱き、二人ともそのまま眠ろうとしたがうまくできない。先生の腕の中で、野枝実は体の奥にほんの少し残る父の記憶をたぐり寄せた。


 あの日、玄関で父を見つけたときの背中、野枝実に飲ませるお湯を準備していたときの背中、抱きしめられた後、再び玄関に向き直ったときの背中。背中ばかりを追いかけながら、その後ろ姿の向こう側、父の顔をはっきりと思い出した。

 先生のゆるやかな呼吸は次第に寝息へと変わる。彼のお腹にそっと手を当てると、丸みを帯びたお腹が寄せて返す波のように穏やかに上下する。しばらくするとそのお腹がごろんと野枝実のほうへ倒れてきた。彼の腕の中にすっぽりと収まる形になり、野枝実が寄り添うように更に体をすべりこませると、半分寝ぼけながら目を閉じたまま手探りで抱き寄せようとする。

 そうして先生が眠りに落ちたことを確認した後、野枝実はそっと彼の腕をすり抜け、卓に置かれたブランケットを手に取ってバルコニーへ出た。


 浴衣を巻いただけの素足を、初冬の北風が容赦なく通り抜けてゆく。夜霧をまとった冷気の中で、白い息は昼間よりもずっと遠くまで広がってなかなか消えない。ごうごうと音を立てる渓流は濃い暗闇に紛れて見えず、星は出ていなかった。

 野枝実は低い空をしばらく見上げて、白い息が立ち上ってゆくのを見ていた。頭を冷やして何かを考えるつもりだったが何らも思い浮かばず、しばらくするうちに何を考えるつもりだったのかもわからなくなる。見えない星を探していると頭の中に、八方塞がり、という言葉だけが浮かんだ。

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