4-8. モザイクガラスの海
野枝実は昼の御前崎灯台からの景色を初めて見た。休日を使って、先生と野枝実は朝から御前崎灯台へと出向いていた。
次は昼間だな、と夜の御前崎で先生が口にしてから四年半、先生が養父となってから三年が経ったころであった。
四年半の間に母と何度か会って食事をしたが、野枝実は結局一度も湊先生のことを言い出せなかった。年相応の恋愛をしていると思っている母が、目の前の娘がすでに自分の戸籍を抜け、赤の他人の養子となっていることを知ったらどう思うのだろう。そう思うたびに胸がちくちくと痛み、本当のところを打ち明けたときの母の悲劇的な様子を思うと更に胸が抉られるように痛み、その両方の痛みから逃げた結果、母と会うことも減っていった。そして、母と疎遠になっていることを湊先生には言えなかった。
いつも何も言ってないな、と野枝実は思う。考えに考えに考えた挙句に適切な機会を失って、やっと考えがまとまったころには問題は自分の理解の及ばないところまで遠く離れている。学生のころ、このまま自分は何も言えないままもやもやの思念に埋もれて自滅していくのではないかと恐ろしくなったことがあったが、今もうすでに自滅しているのではないかと野枝実はぼんやりと思う。
一度お母さんと三人で食事でもしようか、と先生から提案してきたこともある。お互い顔も知らないっていうのもねえ、などと彼は言い、中学三年生のころ野枝実を自宅へ送り届けた際に母と挨拶を交わしたこともすっかり忘れている。野枝実は再びうやむやにし、先生もそれ以上何も言ってこない。彼としても本当ははっきりさせたくない部分なのかもしれなかった。
御前崎へと向かう道中、高速を下りてから助手席の窓を半分くらい開けて風を入れると、秋口の風の匂いがしていた。
ついこの前夏休みを取ったと思ったら、もう風が軽やかに吹き抜ける季節になっている。緑についた露が秋晴れの陽光によって蒸発し、軽やかな風があちこちにその匂いを運んでいた。花の甘い匂いがふわりと車内へ入り込み、さんざんに生を振りまいた夏の植物たちが、秋に向かって少しずつ朽ちていく気配も含んでいた。
家の中と運転中は眼鏡をかけるようになった先生の横顔を眺めていると、お互いに四つずつ歳をとったということを感じる。野枝実は二十六歳に、先生は五十一歳になっていた。
灯台のふもとに広々とした市営駐車場があり、そこに車を停めた。すぐそばには海を見渡せるウッドデッキがある。先生はウッドデッキから来た道をじっと見下ろして何かに納得した様子だった。
「前に来たときはかなり遠回りしてたんだね。あのへんからずっと歩いてきたんじゃない?」
車を下りてあたりを見回しながら野枝実が言うと、「そうかもしれないな」と先生ははにかむ。その目じりのしわもよりくっきりと浮かぶようになってきた。
広々としたウッドデッキにまっすぐに陽が差して、そこにいるにぎやかな家族連れやカップルたちは一様に逆光であった。黒い立体的な影がくっついたり離れたりにぎやかに動き回ったりしており、そこに入り込んでいく二人もすぐにその影のひとつとなる。以前来たときは真っ暗だった風景が明るくなり、そこにいる人たちのほうが暗く見えるのは不思議なことだと思いながら、野枝実はウッドデッキの鉄柵に寄りかかってあたりをぐるりと見回した。鉄柵は赤茶けて錆をふいていた。
ウッドデッキは灯台に向かってのびる斜面から飛び出した形になっていて、全方位から海を見渡すことができる。鉄柵が設けられたところどころにはベンチもあり、子どもたちが小さな肩を並べて休憩していたり、すぐそばの自販機で買った飲み物を飲んでいたりしていた。
灯台へ続く門扉は開け放たれている。子どもたちがはしゃぎながら灯台に向かって走っていき、二人のすぐそばを追い越してゆく。家族連れの後ろに並び、らせん階段をぐるぐると回って展望台にたどり着いたとき、あのときと同じ潮風の匂いが鼻をつんとさせた。
打ちつけるような強い海風が髪を撫ぜ、服を撫ぜ、近くにいた幼い男の子の帽子を飛ばしかけた。
頂上に来てしまった、と野枝実は思った。
向かってくる海風に目を細めながら、「念願の展望台だ」と先生が嬉しそうに言う。
アルバムで父の写真を目にしてから先生の表情が、仕草の一つ一つが胸に迫ってくる。清々しい海風を大きく吸い込んだ野枝実の胸は奥のほうがつかえて苦しく、見渡す限りの青色は無窮を想起させてなんだか恐ろしい。
先生が野枝実の頭を撫でる。子どもたちの笑い声が、家族のおしゃべりが、にぎやかな休日の午後が、変わらずそこにある。海風がごうごうと音を立て、海面が陽光をモザイクガラスのように反射しながら穏やかにゆらめいていた。時折鋭く光るまぶしさに目を細めたり髪をなびかせたりした。短く切った野枝実の細い髪。先生のかさついた髪。白髪の増えた髪。誘惑すると同時に拒絶するこの目、包容すると同時にすがりついてくるこの唇。まっすぐに野枝実を見ているようできっとその奥では見ていない、その瞳。
こうして四年間一緒にいてわかったのは、先生は結局何者でもないということだけであった。何者でもないからこそ先生は何者にでも見えた。
そして、野枝実も先生にとって何者でもない。先生にとっての野枝実は、つまるところ代替品であった。代替というのは言うまでもなく、生まれてくるはずだった彼の子ども。野枝実は結局のところ、今ここにないもの、彼が本当に欲しいものの代わりに過ぎず、今ここになくこれからも手に入ることはないからここにいられるだけであり、もっと言えば、彼の本当の心の奥の奥の奥の部分は野枝実ではない別の方向を向いているということであった。
これからどれだけ先生の中に入り込んでも、先生がいくら入り込んできても、やはりどこまでも何かが違うままなのだ。並んで立つ二人は、隣り合ったままずっと平行線をたどる二本の線路であった。
目の前に広がる無窮の青色を眺めながら野枝実は、あ、どうしよう、と思った。どうしよう。蓋が外れてしまった。蛇口が緩んでしまった。
振り出しに戻ってしまった。鼻の奥がつんと痛み、その痛みに紐づくあらゆる記憶が野枝実に押し寄せてきた。
先生の何もかもがたまらなく愛おしくなった。無窮の海がどこまでも続いているように、どこまで行っても先生への執着から逃れられないことに気づいてしまった。
もう何もしたくない。先生と、もうこれ以上何もしたくない。ここから動かないで、帰らないで、ずっとここにいよう。海風を浴びて、髪をべとべとにして、やがて錆をふいて、最後の風と一緒に消えてなくなろう。これ以上進んだり戻ったりしなくていいように。このまま二人で停止するために。停止して朽ちていくために。
展望台のはるか下に穿たれた底なしの井戸に、空っぽの巨大な井戸に、野枝実は力なく落下する。高い空が、モザイクガラスの海が、みるみる遠くなって見えなくなる。
二度と上がってくることはできない、甘美な破滅。でも、いつかこうなることはどこかでわかっていたような気がする。
居心地のいい井戸の底で、野枝実はもうどうしようもなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます