4-7. ペンギンの親子

 実家から持ち帰ったアルバムの写真の中に、一枚だけ父が映った写真があった。


 その写真は、野枝実の失敗写真の後ろに重なる形で隠れていた。休日の午後、自室の掃除をしていたときにふと目に留まったそのアルバムを、野枝実は久しぶりに見返していた。

 幼稚園の運動会のようだった。グラウンドの隅の保護者席、その更に隅のほうで、父は大勢の保護者たちに混ざって嬉しそうな横顔を向けていた。父の視線の先にあるものは映っていないが、野枝実の記憶は写真の向こうに繋がった。これは確かグラウンドで徒競走をしたときだ。見切れたグラウンドの中央には眠たそうな顔で体育座りをして順番を待つ野枝実がいるはずだった。


 いつも周囲に気を遣うように背を曲げた、風に舞う木の葉のような父の身のこなしが脳裏に浮かぶ。細身で猫背、ぱさついた無造作な髪、眼鏡の奥にある優しげな瞳、懐かしいけれど初めて見たような感じがする、昔から知っているような人。線の細い、どこか頼りないシルエット。


 背中。線の細い背中。飛びついて体を預けたい背中。その背中に先生の姿を重ねたとき、果てしない不在が野枝実の目の前に現れた。時計がものすごい速さで逆回転を始め、野枝実は今まで見たことのない過去へ、確かに足をつけた地面ごと引っ張られてゆく。


 見知らぬ駅前の喫煙所で、野枝実は父の姿を見つけた。

 お父さんは背が高いからすぐわかる。ぽつぽつと人が集まった喫煙所には頭一つ飛びぬけた人がおり、野枝実はすぐに見つけることができた。

 たくさんの紙袋を提げた母の手から離れ、野枝実は父のほうへと駆けた。本当は瞬間移動のようにすぐに父のもとへ行きたいのに、速く走ろうとしても思うように足を動かせないのがもどかしかった。父もまた周りの人たちから頭一つ飛びぬけていて、駆け寄ってくる野枝実を認めると大きく手を振り、細長い体で野枝実をしっかりと受け止めた。

 父を見つけたときの自分はどんな背中をしていたのだろう。その背中はきっと母が見ていた。


 懐かしい天井が現れる。野枝実は父と母と一緒の部屋で眠っていた。和室の八畳間に布団を三つ並べて、窓際から父、野枝実、母の順番で川の字に布団を敷いていた。いつも静かな母の寝息と、ときどき目が覚めるくらいの大きないびきをかく父の気配がいつも野枝実の両隣にあった。

 怖い夢を見たときには、真っ先に父の布団の中にもぐり込んだ。父の布団はあたたかく、綿の寝間着はさらさらと触り心地がよく、野枝実がその裾をぎゅっと握ると父はすぐに気づいて骨張った腕の中に抱き込んでくれるのだった。


 野枝実は夜中に目を覚ます。両隣にある気配の片方がなく、見ると父の布団が跡形もなくなっていた。

 襖の隙間からわずかな光が漏れている。野枝実は裸足で起き出して、寝ている母のことも気にかけず音を立ててふすまを開けて廊下を走った。氷のように冷たいフローリングだった。


 父はコートを着て玄関先に立っていた。どこか遠くへ行ってしまうような、二度と会えない予感があった。

 お父さん、どこ行くの。幼い野枝実は次の瞬間には泣きじゃくっていた。こんなに泣いていたらいつも母が飛んできてくれるのに今日はそんな気配はなく、野枝実はいっそう大声で泣き叫んでいるとやがて見かねた父によって抱きかかえられた。父の顔を見ようとするが、涙でにじんでよく見えない。あたたかそうなコートから父がいつも吸っている煙草の匂いが立ちのぼった。


 父は野枝実を台所へと連れていき、ダイニングテーブルに座らせて豆電球を灯した。父はコートを着たまま台所に立ち、やかんでお湯をわかして野枝実がいつも使っているミッフィーのマグカップに注ぎ、息を吹きかけて少し冷ましてから野枝実に手渡した。

 食卓にぐんなりと腰かける野枝実の向かいに父は座った。その顔は黒く塗りつぶされたようになって見えない。

 いつもは三人で囲んでいる食卓であった。あたたかいお湯を飲むと体の内側から抱きしめられているようで、ここで眠ってしまったら次目が覚めたときに父はいない、それをわかっていても容赦ない眠気がのしかかり、野枝実は泣きはらした目をこすってすぐにうとうとし始めた。


 ふんわりとあたたかく体が包まれる。目の前にいた父はしゃがみこんで野枝実を抱きしめていた。野枝実はそのとき初めて安心し、重たいまぶたに耐えきれず目を閉じ、そこで眠りに落ちた。次に目が覚めたときには自分の布団にくるまっていて、いつもと同じように母が起こしに来た。


 母には何も聞かなかった。聞けなかった。母はいつもと変わらず、昔からそうだったように父だけが不在だった。不在の生活が成立し、それが日常となり、野枝実もいつしか父のことを忘れた。


 大人になったらまた会おうね。約束だよ。

 眠りに落ちる直前、父の腕の中でそう言われた。それを思い出した野枝実は愕然とする。こんな大切なことを、どうして今まで思い出さなかったのだろう。


 点描画の点がひとりでに歩き出す。歩き出した先でちりぢりになってゆく。


 どうして今まで思い出さなかったのだろう。思い出せなかったのだろう。今まで何度もその後ろ姿を思い出しかけていたというのに。夜のサービスエリアの匂い、浜辺の背中、街の喫煙所、ふとしたときにその影をどこかで感じていたというのに。

 父の不在以前と以降で野枝実は完全に断絶されてしまっていた。そのことに無自覚だった。父のことを思い出そうとしなかった。思い出されない父が不憫だとかいう都合のいい理由で記憶に蓋をし続けた、つもりでいた。


 こんな気持ちが起こることが怖かったのだ。本当に欲しくなってしまうから、会いたくなってしまうから怖かったのだ。

 今この瞬間もものすごい勢いで父のことを思い出していく中で、分断された橋の向こう岸の記憶が脳内で泡立って、野枝実は息ができなくなりそうだった。


 それと同時に湊先生という存在の虚弱な骨組みがあらわになった。父という実物が現れたことで先生は完全な虚構となった。虚構によって充足した、虚構によってひとつながりになった毎日にささやかな喜びを見出していた、つもりでいたのだ。


 ばかばかしい。本物の父という圧倒的な強度を持った存在を目の前にした途端に、今までの何もかもが陳腐になっていくことに野枝実は興ざめする。


 先生と私は確かに似たもの同士だ。先生が家族に、子どもに執着し続けているように私も執着しているものがある。私の場合はお父さんだ。結局のところ、私はずっといなくなったお父さんにとらわれ続けているのだ。

 二人ともそれぞれのまぼろしをお互いに重ね合わせている。先生は産まれてくるはずだった自分の子どもの幻影を野枝実に重ね、野枝実は顔も知らない父の幻影を先生に重ねて抱き合っている。お互いの肉体に依存し、あくまでもそこに存在することに執着する、二重にも三重にも倒錯した二人であった。


 そこまで考えて野枝実は再び愕然とする。逃れようのない虚構と陳腐を突きつけられてもなお、先生への執着は一切揺らがなかったからであった。


 いいとこ取りをしていたつけが回ってきたのだと思った。このまま先生と一緒に人生を逃げきりたいとどこかで願っていたことを自覚した。

 でも、お父さんのことを一度も忘れてなどいなかった。それを認めると幾分か報われる気持ちだった。


 長い間つかえていた棘のようなものがようやく抜けたような心地だった。棘が抜けたことでずっと息がしやすくなった。大きく息を吸い込んで吐き出すと涙がこぼれた。吐き出す息は震えていた。風通しの良くなった胸を喉を震わせて、野枝実はうずくまってしばらく泣いた。小さく丸まった背中に午後の陽光が射していた。

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