4-6. 空っぽの大きな井戸[2]

 隣にいると思っていた先生は野枝実がレジに並んだときにはすでに消えており、会計を済ませて外へ出ると駅前の喫煙所でまだライターと遊んでいた。

 先生は背が高いからすぐわかる。ぽつぽつと人が集まった喫煙所には頭一つ飛びぬけた人がおり、野枝実はすぐに見つけることができた。

「このライターさあ、」

 煙草を吸いながらしげしげとライターを眺めていた先生は野枝実がやってくると唐突に口を開いた。

「いいね」もったいぶるような口調で放たれた簡潔な感想に野枝実は拍子抜けして笑う。

「これ、ペンギンライターっていうんだって」

 ペンリンライターね、と先生は怪しい呂律でくり返す。脱力して骨が抜けたような語尾になるときは少し酔っているときである。

 先生は喫煙所でペンリンライターの使い方を完全に習得し、すっかり慣れた手つきで煙草に火をつけると野枝実を見て「できた」と煙を吐き出しながら笑った。自慢げな微笑に野枝実も力が抜けて笑う。


「なんか、いつもよりうまい気がするよ」

 そう言われて差し出された煙草を野枝実も一口吸ってみる。濡れたフィルターが唇に当たり、いつも通り重たい吸い心地に何の違いがあるのかわからなかったが、どう、と感想を求めてくる先生に押されると本当に違いがあるような気がしてくるから不思議だと思う。

「確かにちょっと違う感じするね」

「でしょ、まあ気持ちの問題だと思うんだけどね」

 こちらが同調した途端に梯子を外してくる先生に野枝実は呆れて苦笑する。

「このライターはなくしちゃだめだよ」

「気をつける」

 いつにも増してぶっきらぼうな先生の口調に野枝実は隠れてほくそ笑む。言葉の足りなさが今は愛おしい。


「よっぽど気に入ったんだね。よかった、アイリに後でお礼の連絡しとこ」

「俺からもよろしく伝えといて。今度三人で食事でもするか」

「食事することになったら先生もきっと事情聴取されるよ」

「事情聴取って何?」

「女子会のことをそう言うときがあるんです」

 そうなんだ、よくわからんけど、と先生は笑う。


 先生の内側に野枝実がどれほど入り込んだのかはわからない。ただ、自分が先生の生活の一部となったこと、親子となったことを、野枝実は自身の人生の終着点のように思っていた。終着点というより行き止まりのようなものかもしれない。


 行き止まり。その言葉から合わせ鏡の暗い閉塞が想起され、そこから無限に自分が映る合わせ鏡を重ねた鏡張りの部屋のことを思い浮かべて、野枝実は酔いが回ったようになった。

 よく考えてみたら、先生は合わせ鏡に映る人というより鏡張りの部屋そのもののように思う。それぐらいに過去も未来も上も下も、すべて先生に満ちているような心地だった。その状態が行き止まりというならば、じゃあどうすればよかったのかと思う。今に至るまでいったい何を選択してくれば正解だったのかと思う。


「楽しいね」ようやくライターをポケットにしまった先生は、子どものような飾り気のないことを言って目じりにしわを浮かべた。

 その目の奥に、わずかに淫靡な明るさが見え隠れする。帰ってシャワーを浴びたら、寝る前にきっともう一度汗だくになるのだろうと野枝実は思う。


 先生には執念に近い種類の、激烈に甘い愛情がある。その愛情が本質的に向かう先は野枝実ではなく、今ここにない別のもの。そのことに先生は気づいていない。そして、先生は彼自身が持つその激烈に甘い愛情の総量を理解していない。

 野枝実がこうしてぶつかり続けている先生の底なしの情欲は、すなわち彼の家族に対する情念であり、その奥にある深い孤独が形を変えたものなのかもしれない。


 野枝実が目の前に現れ、その形が先生の空洞のある部分と偶然に合致した。だから先生はその空っぽの器でもって受け入れてくれている。彼自身は何らの自覚も、何らの意志もないままに。


 それでいい、と野枝実は思った。噛みしめるように思うと、初めて納得できたような気がした。


 気化したコンクリートの熱が立ちのぼって夜の中に漂う。ぬるい川面に映った街灯が、陽炎のように揺れている。どこかでまだ蝉が鳴いている。夏が過ぎる気配はまだない。

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