4-6. 空っぽの大きな井戸[1]

 店内が少しずつにぎやかくなってきたころ、熊さんに見送られながら野枝実と先生は店を出た。

「居心地悪くなかった?」

「全然。楽しかったしお料理もすごくおいしかった」

 よかった、と先生は野枝実の手を取った。

「ずっと連れて行きたいと思ってたから一緒に行けて嬉しかった。見ての通り熊さんがああいう感じだから、ちょっとためらってたんだけど」

 野枝実は小さく笑って彼の手を握り返す。吸いつくような彼の手のひらはしっとりと汗ばんでいた。東京の夏は夜になってもどっしりと蒸し暑い。


 熊さんの店で、野枝実は先生におみやげと言って筒形のオイルライターを渡した。アイリが友達からもらったと言って野枝実にくれ、それを先生に横流しした形だったが、彼は思った以上に気に入ったようで、今も野枝実と繋いだ反対の手でそのライターをもてあそんでいる。

 家庭用ミシンを手のひらサイズにしたような形の、複雑な風貌のライターだった。着火のやり方も少々複雑で、アイリから教わったそのやり方を先生に教授しているときには、彼は隅から隅まで検分するように小さなライターに楽しげなまなざしを向けていた。子どもが真新しいおもちゃに目を輝かせるのと同じ種類の煌めきを宿していた。


 新しいライターで新しい煙草を吸いたいと言う先生とともに、野枝実は駅前のドン・キホーテに入り込んだ。メッキがぎらぎら光る腕時計、どぎつい色の多目的なポーチ、積み上げられた原色のカップラーメン。それらがご機嫌なBGMとともに陳列されて、店内全体がほろ酔いの頭の中のようであった。

 先生は野枝実の買い物に付き合うふりをしながら、気の向くままにすいすいとどこかへ行ってしまう。今も野枝実が自分用のシャンプーの詰め替えを探している間に、彼はあっという間に姿を消した。


 また見失ってしまった。迷路のような店内を歩き回り、最後にたどり着いたピンク色の暖簾をくぐってみると果たしてそこに先生がいた。妖しげなブラックライトのもとで、ショッキングピンクのディルドを手にした彼は極めて真剣な表情だった。

「ようやく見つけた。何してるのこんなとこで」

 ごめんごめん、と妖しげな場に似つかわしくない明るい調子で先生が言う。二人に背中を向けて商品を物色していた若い男がちらりとこちらを振り返った。


 アダルトグッズの非現実的な色合いには、駄菓子に囲まれているようなほっとする懐かしさがある。かつて二人して熱にうかされていたときに何度か物色しに来たものだったが、そのたびに何でも使えばいいものでもないという結論に落ち着いたことを思い出す。

「こうやってずらっと並んでると、なんか馬鹿みたいだね」

 柄にもなく偽悪的なことを言うのは彼なりの照れ隠しである。

「ま、いっか」何かに納得した彼はさっぱりと言い放つと生々しいディルドを元に戻し、代わりにコンドームの箱を手に取ると再び暖簾をくぐって外界に戻ろうとした。


 暖簾の外には大学生くらいの若いカップルがおり、肩をくっつけながらいちゃついていた。中に入るか入らないかでふざけあっているところに先生と野枝実がちょうど立ちはだかる形になってしまい、あ、と一瞬気まずい格好になる。

「すいません、お先に」先生は体を折り曲げて暖簾をくぐりながらそのままぺこりと頭を下げた。見上げるような大男の人の好さそうな態度に逆に気圧された形のカップルも、あ、すみません、と会釈しながらそそくさと脇へよける。


 暖簾の向こうから出てきた大男と娘くらいの年齢の女。あっけらかんとした先生の背後で、カップルがまだ気まずそうに苦笑しているのが気配でわかった。彼は何も気にせず堂々としているけれど、その隣にいる自分は異物そのもののようだと野枝実は思う。

 性愛によって結びついた男女から漂う生々しさはとっくに枯渇し、二人は傍から見ると確かに仲睦まじい親子そのものであった。お互いの仕事をこなしながらひっそりと暮らし、時折こうして人目をかいくぐりながら親子を逸脱する。さすがに家の近所では慎むものの、先生は基本的に人前で触れ合うことにも抵抗のない人だった。


 思えば野枝実が就職先を決めたことを先生に報告したときにも、彼は人目もはばからずに野枝実を思いきり抱きしめた。

 仕事を終えた先生と落ち合ったとき、駅前の喫煙所で内定が出たことを伝えた。お、やったじゃん、などと言って煙草を吸いながらあっさりと野枝実を祝福した先生はしばらくすると煙草を消して外へと手招きし、駅前の広場で野枝実を両脇を軽々と抱きかかえると、高い高いをするみたいに頭上へと持ち上げた。

 空に向かって放り投げられた野枝実は一瞬宙に浮いた。リクルートスーツのスカートの中に入り込む夜風。小さく上げた悲鳴で、眼下の通行人が何人か振り向く様子を野枝実は曖昧にとらえた。

「よっしゃー!」よく通る先生の声に再びの注目が集まった。降ってきた野枝実を抱きとめた彼は嬉しくて仕方ないといった様子だった。


 痛々しいくらいに擦れていなさすぎるところが彼にはある。そのような彼が何度もあらゆるものを手放して一人きりになったという過去に思いを馳せるたびに、野枝実はその大きな背中を全身で抱きとめたい気持ちが起こる。

 劇薬のようなセックスで飽和しきっていたころは、そのような彼の姿は果たしてどれほど本物なのだろうと思っていた。

 先生の大きな体によじのぼって、一番上から底をのぞいてみたら何があるのだろう。純度百パーセントの美しい天然水が蓄えられているのだろうか。顔をそむけたくなるような悪臭を放つ腐敗した水が溜まっているのだろうか。読めない言葉で書かれた計り知れない地図のようなものが広がっているのだろうか。

 しかし程なくして、そこには意外と何もないということがわかった。変なこだわりやせせこましい自我を持たない先生は自分というものがなく、彼の大きな体が丸ごと空っぽの井戸のようであった。


 空っぽの大きな井戸。ただ、そこははじめから空っぽだったというわけではなくて、時間をかけて枯渇して透明になっていったような感じがした。


 それはきっと先生がこれまでの人生で、あらゆる局面で手放すということを選択してきたからだろうと野枝実は思う。自我とか自分を意識した途端にそれまでの自分というものを見失ってしまうから、何事にも入り込まずに器用にこなすことに徹してきたのだろう。その結果、長い時間をかけて空っぽになっていったのだろう。

 そのようにふわふわと、何か大きなものに流されるように、あるいはせき止められるように生きているという点で野枝実は先生と似たもの同士、合わせ鏡のようだと思っていた。


 また、これは野枝実自身は無自覚なところだったが、生きること選択すること決断することに対する態度についても二人は似ていた。人生のある重要な部分を初めから優しく放棄しているような、生まれつきの投げやりな態度においても二人は似たもの同士だった。野枝実が手を伸ばせば彼も手を伸ばし、すぐに届きそうで、その指先同士は決して触れ合うことができない合わせ鏡であった。

 そして、そのような負の部分で二人がぴったりと共鳴していることにも野枝実は気づいていなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る