4-5. グラデーションと水しぶき[2]

 暑さにうたれた怠惰な交わりだった。太陽が傾いてゆく部屋で、背中に西陽をじりじりと浴びながら正対で強く抱き合ってお互いに果てた。

 納得。その言葉が後を引いていた。程なくしてそれこそが強烈にむきになっているものの正体だと気づいた。出会ってはいけない者同士が出会ってしまったような背徳と恍惚の隙間に、野枝実は所在不明の情欲をまやかした。

 ちょっと待っ、あっ。半ば暴発に近い形で先生は果てた。苦悶と恍惚の間にいるような表情と声にとどめを刺されて野枝実も彼の上で果てた。先生が息を切らしながら野枝実を抱きすくめ、汗でべとべとになった胸と胸が合わさったとき、野枝実はものすごい速さで波打つ彼の心臓の音を胸で聴いた。合わさった胸にも彼の背中にも汗の滴る感触があり、お互いのこめかみから次々と汗が流れていた。

「俺もシャワー浴びなきゃいけなくなったじゃん」

 かすれた声でそう言った先生は野枝実の首筋に吸いつき、諫めるようにその薄い皮膚の見えないところに噛みついた。

「このシーツも洗濯だな」魂が抜けたような顔をして湿ったシーツを撫でた先生は呆れているように見えた。


 ビールジョッキを卓に置いて一息つくと、向かいのテーブルを拭いていた熊さんと目が合った。

「何か飲みますか」

「あ、えっと……じゃあもう一杯ビールを、」

 野枝実の遠慮がちな声は店内に響く長渕剛の歌声にかき消される。熊さんは台拭きを握りしめたままつかつかとこちらへやって来たかと思うと、卓にしゃがみ込んでぐいっと野枝実に顔を近づけた。

「お湯割り?」

「いえ、もう一杯ビールを、」

「お湯割り苦手? だったら果物のお酒とかもあるよ」

「あの、その前に、」野枝実は必死で食い下がる。

「正臣さんから私たちの証人になってくださったと聞きまして、その節はありがとうございました。私、実はお二人がどんな間柄なのか知らなくて、」

「湊さんから何も聞いてないの? ほんとにしょうがないねあの人は」


 昔から言葉が足りないんだよね、とぶつぶつ呟きながら熊さんは厨房に引っ込んだが、すぐにグラスを持って戻ってきた。

「はい、お湯割り。これサービスにしてあげる」

「あ、ありがとうございます」

「いっぱい甘えなよ。いい男だからね」

 いい男。熊さんはそう言って野枝実の肩を叩くと消えていった。重量を持った手のひらがちょうどひりひりする部分に当たったが、清々しいほどの大雑把さに野枝実は背をこごめたまま笑う。言葉が足りない先生と早とちりの熊さんは、波長の合う組み合わせかもしれなかった。


 とはいえ結局熊さんからは何も教えてもらえなかった。渋々お湯割りを飲みつつ、これはこれで悪くないと思っていると先生が戻ってきて、

「あれ、もうおかわりしたの」

「熊さんからもらったんだ、サービスだって」

「熊さん?」

 あっ、と野枝実が思わず口を覆うと、野枝実のあだ名の意味を理解したのか先生は表情を緩めて笑う。野枝実はすかさず続けた。

「ねえねえ、熊さんとは何つながりのお友達なの」

「うん、まあ昔のね、」

「そうそう、昔からの友達なんだよー」厨房に引っ込んだと思った熊さんが飛び出してきて声を上げる。

「湊さんはよくうちの店使ってくれてるんだよ。湊さんの会社の飲み会とかね、社員さんを呼んで一年に一度はね」

「正臣さんの会社?」

「あんた、それも聞いてないの? この人の悪い癖だね。ぜんっぜん話さないの。何でも相談してくれって言ってるんだけど、一人で抱え込むタイプっていうのかねえ、昔からそうだよねえ。いきなり中学校の先生になったなんて事後報告されたときなんて、そりゃもうびっくりしてねえ」


 熊さんはもはや止まらない。熊さんに相槌を打ちながら滅多に口にすることはない仕事の近況を彼がぽつぽつと話すのを、野枝実は新鮮な心持ちで眺めていた。

 学生時代の、あるいはそれよりも昔の先生の姿が見えてきそうでやはり見えてこない。深く聞き入らないようにしつつ食べ物と飲み物に交互に口をつけていると、

「まあ、こういう大人もいるからねっ野枝実ちゃん! 大丈夫よ!」

 突然くわっと熊さんが野枝実のほうを向き、それから唐突に我に返る。

「ごめんごめん、親子水入らずにするつもりだったのについつい喋りすぎちゃった」

 親子水入らずというよりデートか、と先生の肩を小突く熊さんに先生はぽつりと、デートだね、と返す。熊さんはその背中をばしばし叩き、豪快に笑いながら厨房へと消えていった。

 嵐のように熊さんが去ると、二人の間は突然静かになった。先生は黙ってロックグラスをしばらくくるくると回した後、昔からあんな感じなんだ、とぽつりと呟いて笑った。人懐っこい笑顔だった。


 熊さんはもしかしたらこの顔を見たいのかもしれない。いたずらを仕掛けた子どものような、熊さんの去り際の満足げな表情を思い出しながら野枝実はお湯割りを口に運んでぼんやりした。

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