4-5. グラデーションと水しぶき[1]

「今日の夜、外で飯にしない? 一緒に行きたい店があるんだ」

 シャワーを浴び、野枝実が洗面所で化粧水をはたいているとおもむろに先生が入ってきた。台所で水を飲んできたのであろう、濡れた声だった。裸の彼は同じく裸の野枝実を一瞥し、手にしていたシーツを洗濯機に押し込む。

「いいよ、どこのお店?」

「うん、まあちょっと」

 釈然としない答えを残して、先生は入れ替わりに浴室へ消えてゆく。

 先生と交わす言葉は年々減っているように思う。お互いに言葉足らずなのだ。野枝実の言葉の足りなさは内気さ故だが、先生は寡黙な上に自己主張をしないという性質の無口である。我を通さないというか、通す自我を元から持たない人であった。


 あれからアイリと銭湯でしばらく眠った後、センター街のサイゼリヤで遅めの朝ごはんを食べながら、明るい店内にふさわしい他愛ない話をして駅前で別れた。そこから先生宅の最寄駅へ移動して彼と待ち合わせをする、そのわずかな移動中にかいた汗を洗い流したくなり、洗い流す前に抱き合いたくなり、久しぶりに野枝実から先生を抱いた。アイリと夜通し生々しい話をしていたのでむらむらと欲求が煮えていたのかもしれない。しかし、それよりも野枝実は得体の知れない何かに対して強烈にむきになっていた。


 汗で湿った服を着直して再び家を出たときには陽が西に傾き始めていた。昼間からカーテンを閉めきって抱き合っていたというのもあるけれど、お盆休みに入った今週はますます時間の感覚が曖昧になっている。

 ホームに滑り込んできた京浜東北線の車内はたくさんの人の頭で薄暗く見える。二人で肩をすぼめて車内を移動しながら、中ほどのつり革に並んでつかまった。


 昼間の熱気をたっぷりと蓄えた夕刻の空だった。暮れるにつれて少しずつ低くなってゆくその空に、同じく熱気を残した色の雲がまばらにもくもくしていた。時折目の前を流れてゆく電柱と電線が逆光で黒く暗く、すぐに通り過ぎてゆく民家やマンションの窓からは青白い生活の光が漏れているところもあった。

 昼から夜へと色合いを変える夏の空のように、毎日はグラデーションのようにゆっくりと移り変わっていったように思う。毎日とにかく先生とのセックスに没頭しているうちに野枝実の頭上でいつの間にか、あまりにも自然な色合いで変化していた。先生は野枝実の一部となり、野枝実もまた先生の一部となった。


「そういえば、お盆の間もそのお店やってるの?」

 やってる、と素っ気なく答えた先生は続けた。

「あなたがシャワー浴びてる間に電話で確認した」

 先生は車窓の外を眺めながらぼそぼそと言う。目の前のロングシートに座るサラリーマンが、スマホからちらりと視線を上げた。

「七時から開店だからその時間に着くように行くって言ったら、十分前くらいから準備はできてるから早めに来てもいいよって」

「よく行くお店なんだ」

「うん、友達の店だから。あれだよ、養子縁組したとき証人になってくれた人だよ」

「え、うそ」

「あれ、言ったことなかったっけ」

 野枝実を一瞥しながら先生はスマホを取り出して時間を確認すると、時間ちょうどよさそうだよ、と遠慮がちに丸めた肩で野枝実を小突く。あまりに淡々としているというか、どこまでも言葉の足りない人だと野枝実は思う。


 到着した夕刻の大井町駅前は、お盆休みだからか心なしか閑散としていた。

 中華、焼き鳥、牛タン、ラーメン、立ち飲み、ガールズバー、雑多な食べ物と人間の匂いが暑さで溶け合ってむわむわするする路地を歩き、一つ角を曲がったところで先生は立ち止まった。「くまもとや」と看板が出た小さな居酒屋であった。

 こんばんは、とまだ準備中の札が提げてある引き戸を静かに開けると、顔じゅう毛むくじゃらの男性が戸の先に立っていて威勢のいい声で二人を出迎える。店の名前が入った帆前掛けをした彼は見るからにこの店の大将という出で立ちであった。


「ようやく野枝実ちゃん連れてきたね。ずっと出し惜しみするからどんな子なのかと思ったら、なに、かわいい子じゃないの」

 いらっしゃい、の第一声と同じ声量で彼はまくし立てる。したたかに据わった大きな目の奥には旧友を心から喜ぶあたたかさが確かにあり、毛むくじゃらで真ん丸な顔、毛深い眉毛の奥の真っ黒な瞳まで熊そっくりな人であった。ざっくばらんな店内の一番奥のテーブルへと案内されながら野枝実は、くまもとやの熊さん、と頭の中でこっそりあだ名をつけた。


 席に着くなり凍ったビールジョッキが二つ、どんと卓に置かれたかと思うとまだ何も注文していない先から、薬味がたっぷりと乗った冷奴と海鮮サラダ、馬刺しと串焼きが次々と運ばれてきた。

「すごい、コース料理みたい」野枝実が興奮すると先生は初めて嬉しそうに笑った。

「今コロッケ揚げてるから、もうちょっと待っててね」

 熊さんはそう言いながらせわしなく厨房へ消えてゆく。その背中に小さくありがとう、と言った先生の声は聞こえなかったようだった。同時にトイレに立った先生の背中を眺めつつ、野枝実はビールを流し込んだ。先ほどから聞きたいことがたくさんあったが、早速逃げられてしまった。


 染み渡っていくアルコールで、先ほど酷使した太腿がずんと重くむくむのを感じる。続けてもう一口飲んだとき、ブラジャーの肩ひもが当たるあたりがひりひりと痛んだ。先ほど、ここに来る前に先生に噛みつかれたところだった。

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