4-4. 夜明けの渋谷区円山町

 半開きのカーテンの向こうから朝の気配がし始めたころ、二人は外の空気を吸いに部屋を出た。


 円山町のホテル街は、街じゅうの退廃を煮詰めたようなやりきれない空気に満ちていた。深呼吸などしても仕方ないと思うような、どっしりと蒸し暑い朝だった。早朝の空は異様に高く、にょきにょきとそびえ立つラブホテルのてっぺんよりもずっと遠くにある。


 ラブホテルとラブホテルの間に小さな公園があり、あらゆる種類のごみであふれ返ったごみ箱とそこからこぼれ落ちた雑多なごみの数々に朝陽が差していた。その先の区画にあるラブホテルの入口前は、一日中陽が当たらない場所なのか黒い水たまりができていた。淀んだ水たまりは健やかな空を黒色に映し出していて、そのすぐそばにぐしゃぐしゃに割れたプラスチック容器が落ちていた。弁当の空き容器らしきそれを、一匹のカラスが黙々とつついていた。

 むき出しになった側溝に沿って濁った汚水が流れてゆく。二人はなんとなく手を繋ぎながらその上流から下流に向かって、時折すれ違うカップルたちの無遠慮な視線を受けながら並んで歩いていた。


「私、今の彼氏と絶対結婚したいんだ」

 朝陽を浴びながら、潔い口調でアイリが言った。

「いいなあ、結婚式呼んでね」

「式はしなーい。お金もったいないし、お互いに親との関係が最悪だから仲いい友達だけで集まりたーいって彼氏とも言ってる。そのときには野枝実ちゃんと湊先生も呼ぶからね」

「えっ、いいの?」

 当たり前じゃーん、とアイリは軽やかに言い放つ。

 でもそのときには、と言いかけて野枝実は言葉に詰まった。でもそのときには、まだ先生と一緒にいるかわかんないよ。

「……じゃあなるべく早く結婚して!」


 そんな話をしているうちに向こうから一人の男がやってくるのが見えた。遠目に見ても素面ではない様子だった。覚束ない足取りでふらふらと近づいてくるスキンヘッドの男は明らかに異様で、半開きになった口元からは涎が垂れてナメクジが這ったようにぬらぬらと光っている。

 ゆらゆらと焦点の定まらない視線が二人を捉えそうになったとき、野枝実がその気配に気づきそうになったとき、アイリは何も言わずに野枝実の手を引いて全速力で走り出した。動物的な俊敏さだった。


 二人は手をつないだまま全力でホテル街を走り抜けた。言葉も出ず、野枝実はアイリに追いつこうともつれる足を必死に動かすばかりだった。

 アイリは走りながら次第にくすくす笑い出し、やがていつもの軽やかな笑い声を上げた。その声に安心して野枝実も笑い、いつしか何が面白いのかわからなくなりますます笑った。息を切らして笑いながらアイリは時折かすれた叫び声を上げる。もはや意思とは無関係に走り続け、髪を振り乱しながら大笑いするアイリのほうが狂人のようで、どうしようもなくかわいく、愛らしく、野枝実もますます大声で笑った。向こうの角から手を繋ぎながら歩いてきた若いカップルがぎょっとした顔で二人を見ているのがわかった。


 のえ、み、ちゃん。顔を上気させながらアイリが振り返って言う。ようやく立ち止まり、「さっきの人やばかったね」などと言い合いながら繋いでいた手をほどくと、お互いの手汗が混じり合った手のひらがびっしょりと濡れて光っていた。

「なんかこの汗いいね、青春って感じだね」

「ぜんっぜん、よくない!」

 手に膝をついて背を丸め、ぜえぜえ喉を鳴らしながら野枝実は叫ぶ。

 自分でもびっくりするくらいの大きな声が出て、それがおかしく、二人でまた笑った。


 息を整えながら帰路につきかけた二人だったが、近くに銭湯があると言うアイリに案内されてそこで汗を流していくことにした。

 住宅街の中に小さな暖簾がかかっていた。明け方から営業している小さな銭湯は、古い造りながら小綺麗なたたずまいであった。木彫りの看板は複雑な模様の彫刻が施され、周囲の瀟洒な住宅街に不思議と馴染んでいる。すりガラスの引き戸を開けるとすぐに古風な番台があり、小綺麗なおばさんが眠たそうな顔をして座っていた。


「ひゃー、めっちゃ汗かいてる。Tシャツ絞れそうだよ」

 脱衣場でアイリはどこかからハンガーを持ち出してTシャツを掛け、半裸のまま壁際のポールハンガーへ掛けに行っている。目の前では大きな扇風機が鈍い動きで回っており、ポールハンガーはその風がちょうど当たる位置にあった。

 野枝実ちゃんのも干してあげる、とアイリに言われるがままに野枝実もその場で服を脱ぎ、びっしょりと濡れたTシャツを手渡した。

「ブラはさすがに干せないよね」

「干せる干せる。誰も来ないけど一応こうやって、Tシャツの中に入れて隠れるようにして……」

 そんなことを言いながら二人で扇風機の前で裸になり、もうもうと湯気のこもる大浴場へと入り込んだ。


 大浴場は貸し切り状態だった。年季の入ったタイルの洗い場に若者向けのシャンプーやメイク落としが何種類も備え付けられているのはさすが渋谷区の銭湯といった光景で、その充実した品揃えに野枝実は圧倒されながら、

「これ全部使っていいの?」

「もちろん。あ、こっちにもいろいろあるよ、使いたいのある?」

 奥のシャンプーに手を伸ばすアイリの裸体がふと目に入る。夜通しあんなに赤裸々な話をしていたというのに、彼女の裸は生々しさがそぎ落とされて、相変わらずいやらしさがまるでない。西洋画の裸婦のような官能が立ちのぼるのを見て、野枝実は不思議な落ち着きを覚えた。

「なんか、こうやって友達とお風呂に入るのって修学旅行ぶりかも」

「野枝実ちゃんはいつも湊先生とお風呂入るんだもんね」

「もー、その話はいいってば」

「でも私も友達とここに来るのは初めてだなー。そうだ、ねえ、今度一泊して温泉行こうよ」


 番台の隣に薄暗い階段が伸びていた。急な段差を上っていくと開けた畳の間が広がっていた。湯上がりの休憩スペースであるそこは、元は宴会場のようだった。仕切りの襖が開け放たれ、二間にわたって座卓や座布団が点々と配置され、バルコニーに続く窓辺には大きな革張りのソファが置かれ、そこに一人のおばあさんが体を預けて眠っていた。

 陽の差さない休憩所は薄暗く、畳が裸足にひんやりとして、ところどころ毛羽立った部分がちくちくと足裏を刺した。二人は座卓の一つに腰を下ろし、座布団を半分に折って枕がわりにすると並んで横になった。


 畳に直に寝転ぶと、座卓の裏側を通して窓辺の緑が揺れているのが見えた。桜の木であった。窓いっぱいに広がる葉の一つ一つが生き生きと動いて、春先にこの畳の間で、この座卓いっぱいに料理や酒を並べて、この座布団に腰を下ろして、湯上がりに花見を楽しむ客たちの背中が目に浮かぶようだった。

「グリーンカーテンだね」

 緑に目を奪われたまま野枝実がつぶやくと、隣で寝転ぶアイリから、ちょっと違うと思う、と笑いを含んだ声が返ってきた。

 開け放った窓から入り込んでくる街の涼やかな風が湯上がりの体をちょうどよく冷ましてゆく。高い天井にうっすらと浮かぶ木目を眺めるうち、野枝実は次第にとろんとした眠気に包まれた。


 なんとなく、アイリとはしばらく会えないような気がしている。今まで話せなかったことをすべて話して、話し尽くして、燃え尽きた実感があった。夢中でお互いの物語に食らいつく熱、その熱が体の下の方でまだくすぶっているのがわかる。今後はこの熱の余韻でしばらくやっていかなければならないし、きっとしばらく消えることはないように思う。二日酔いの朝のように、楽しい思い出は遠くのほうで手を振って、生々しい感じと、得体の知れない後悔が体に残存する。それらが体内を渦巻いている限りは会えないような気がした。

 更紗と三人でなんとなく、誰が企画するでもなく集まっている年に一度の忘年会も、そうしてだんだん忘れられていくのかもしれない。数少ない縁が、なんとなく薄れていくような予感があった。


「次はいつ会えるかなあ」

 高い天井を見上げながら、野枝実はふと口にする。

「いつでもいいよ、暇だから」

 アイリはさっぱりと答えた。そのさっぱりとした調子を覚えておかなければいけない、胸に刻み込まなければいけないと野枝実は強く思った。眠って起きたらお別れだと思うと、いつもよりなんだか寂しい。

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