4-3. 先生の物語
うちには両親がいない、と先生は唐突に口にした。
親子となって一か月ほどが経った三が日の深夜、近所にある神社へ初詣に出かけた帰り道のことであった。
そういえば親父もおふくろも、結局顔もわかんないまま死んじゃったなあ、と彼は言った。そういえばこないだ温泉に行って楽しかったなあ、くらいに飄々とした口調だった。
静まり返った真夜中の住宅街を歩きながら、そこから彼はぽつぽつと彼自身のことを話し始めた。元から口数は多くない上に自分のことなど滅多に語る人ではないから、放たれる言葉一つ一つが自ずと重量を持つ。野枝実は慎重に相槌を打ちながら彼の物語を促した。
もともと家族は父と母と姉二人がいたこと。彼らとは物心がつく前に離れ離れになったこと。引き取られた遠い親戚の家に家族というものはなかったこと。その家ではお世辞にも大切にしてもらったとは言えず、家族らしい思い出もないこと。東京の大学に進学して新しい生活を始めたとき、その後結婚することになる彼女と出会ったこと。ぶつぶつと断片的な思い出だけが放たれる、大雑把で不親切な物語であった。
育ちがよくて穏やかな人。先生から発せられる最低限の言葉を拾い集めながら、野枝実は顔も知らない彼女のことをそのように解釈した。育ちのいい人の持つ寛容さでもって、彼女はそのままの先生をそのままに受け入れて心から愛したのだろうと思う。そして彼女のような人が先生のような人に惹かれる気持ちもよくわかった。
彼の物語は続く。大学院を卒業し、研究所のエンジニアとして働き始めた矢先に彼女が妊娠したこと。その仕事を辞めて教員になったのは同じく教員である彼女の希望によるものだったこと。結婚した矢先には姉が二人、続けざまに亡くなったこと。生まれつき体の弱かった上の姉は病気で亡くなり、二番目の姉は自死であったこと。一人目の姉の葬儀のときに生みの両親もすでに死亡していることを知ったこと。その死が直接自分には知らされなかったことを知ったこと。
姉の葬儀で身寄りがなくなったことを知ったときの彼の背中が、喪服を着た彼の黒い背中が野枝実の目の裏に浮かんだ。
生活が否応なく続いていた。陽当たりのいい部屋に住みたい、という彼の希望は奥さんとぴったり合致した。彼が子どものころに姉とともに与えられていた物置部屋には窓がなく息苦しい思いをしたからだった。休日を使って物件を回り、更にその合間を縫って子どもに必要なものを買いそろえたが、結局その子どもにも、数年にわたる不妊治療の末にようやく授かった二人目の子どもにも出会えなかった。死産であった。彼女のほうから離婚を切り出され、教師もやめた。
それで今に至る、みたいな。訥々と語っていると先生はそう言って突然沈黙し、ダウンジャケットのジッパーを一番上まで引き上げるとそこに顎を埋めた。
吐き出された二つの白い息が立ちのぼっては消えてゆく。彼の言葉の端々に、不妊治療によって夫婦ともにじわじわと気力を蝕まれた虫喰いのような影が見えた。
「そういえば最初の子が生きてたら、ちょうど野枝実と同じくらいの歳になってるよ」
先生はそのような言葉で物語を締めくくった。最初の子というのは、先生と奥さんの間に産まれてくるはずだった一人目の子どもであった。
その物語を最後まで聞いた野枝実は一つのことに気づいた。彼は結局のところ家族に、特に子どもに執着し続けている。
一通りの話を黙って聞いていたアイリは、少しの沈黙の後にさっぱりと言い放った。
「ごめん、なんて言ったらいいかわかんないや」
そうだよね、と噛みしめるように言って野枝実はアイリの煙草を一本もらった。先生がいつも吸っているラッキーストライクよりもずっと軽い心地で、チョコレートのような甘い後味が舌の上に残った。アイリは体育座りをした格好で膝小僧の上に顎を乗せて眠たそうにしている。
怒涛のおしゃべりの熱が下がり、心地よい疲れが訪れていた。野枝実はベッドサイドに寄りかかって頭だけベッドの上に乗せ、煙を吐き出しながら天井を見上げた。マットレスからは柔軟剤のつんとした匂いがして、天井では木目がぐるぐると目が回るような輪を広げていて、今の頭の中のようだった。壁にかかった時計はすでに午前四時を回り、新聞配達のオートバイが近くを通り過ぎていく音が聞こえた。
でもさあ、とアイリが目を閉じたまま口を開いた。
「野枝実ちゃんが納得してるなら別にいいと思う」
納得。寝言のような彼女の口ぶりに野枝実も眠気を誘われた。目を閉じるとまぶたの裏側に、暗く落ちくぼんだ先生のまなざしが浮かんだ。二人きりになって見つめ合うとき、彼の目の奥には豆電球だけをつけた部屋のような淫靡な薄暗さがわだかまっているのだった。
先生に愛されているのとは少し違うということはわかっている。また、野枝実も先生を愛しているのとは少し違うかもしれないということもわかっている。突き詰めて考えてみれば矛盾だらけの関係性だということもわかる。あまり未来がない日々を重ねていることもわかっている。
でも、と野枝実は思う。でも、こうして出会ってしまった以上、どう考えてもこうするしかなかったと思う。先生も私も、こうする他に選択肢はなかったと思う。
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