4-2. 女子会

「ぶっちゃけ、めちゃくちゃやってるでしょ先生と」

「うん、めちゃくちゃやってる」

 缶ビールを片手に即答した野枝実をアイリは「やっぱりね」と豪快に笑い飛ばした。野枝実は最初の一年で自分は四キロ、先生は七キロ体重が落ちたことを話し、アイリをもうひと笑いさせた。


 激流のような日々の中で何を食べていたか、朝から晩までどうやって生活していたか、ぽっかりと穴が開いたように抜け落ちてしまっている。色とりどりの絵の具の飛沫のような、目まぐるしい色彩だけがそこにあった。

 顔を見るなり言葉を交わすのももどかしくセックスし、終わったら裸のまま適当なものを食べ、食欲を満たしたらすぐさまもう一度セックスする。直前に食べたものの断片や臭いが唾液とともにお互いの口の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。汗をかいたらシャワーを浴び、水分補給をしたらもう一度セックスする。疲れたら眠り、起きてまたセックスする。そのように動物的な日々の中に人間的な生活や喜怒哀楽がすっぽりと収まった。


 休日にカーテンを閉めきって一日中動物的なセックスに明け暮れていると、その後に服を着たり化粧をしたり食事を作ったりという人間的なことを行うほうが気恥ずかしくなる。コップ一つ洗うのも体が動かず、紙コップと紙皿で食器をまかなっていたこともあった。小綺麗だった彼の部屋は動物園の檻のように荒廃し、動物として燃え尽きてゆくうちに次第に元に戻った。

 どこまでも堕落してゆく生活の中でも心のほうは不思議と荒廃せず、ぴんと張りつめて気力に満ちていた。特に先生の気力と体力は底なしで、四十代も後半に差し掛かった彼のどこにそんなものが眠っていたのかと思うほどであった。制御不能となった情欲が抑圧の反動だとするならば、と今まで彼が自らに課していた足枷の重さを思った。


 野枝実の体はあらゆる部分が引き締まり、胸は先生の手にちょうどいい大きさに少し膨らみ、先生だけが知る落とし穴の一番奥は彼の形になった。もとからあどけなさの残る顔立ちには何かを想像させるような女の陰影が生まれ、程よい成熟を身にまとった。

 一方、先生は瞳の奥に常に低温の炎が灯ったようになり、そこから軍人のような精悍な雰囲気が生まれ、円熟と頽廃と再燃する生命力との間で不思議な色気をまとった人になった。


 そうなるまでの経緯など聞くのは野暮だとばかりに、アイリはいきなり核心を突いてくる。そのような彼女のことが改めて好きだと野枝実は思う。

「ねえ、湊先生ってバックでするの好きでしょ」

「好きだよ、なんでわかるの?」

「今までの話とか、昔の先生の様子とか思い出して推理した。この推理力は体位ゲームで鍛えられたんだよ」

「なにそれ」

 三つの質問からその人が好きな体位を当てるのだとアイリは言う。その質問事項はよくできた心理テストのように思いのほか高度であり、見事に言い当てられた野枝実は大きく笑って一缶目のビールをぐいっと傾けて飲み干した。

「飲み会のゲームみたいなくだらないやつかと思ったら、意外と本格的で笑っちゃった。どこで知ったの、それ」

「私が考えた」

 天才じゃん、と野枝実がまた大きく笑うと、アイリも歯を見せて満足そうに笑う。それがにわかにかわいらしくて野枝実はまた笑う。


「じゃあさ、これはゲームじゃなくてただの質問。今までどんなのやったことある?」

「どんなの、って?」

「一番恥ずかしかったやつとか」

「うーん……」

 正対して抱き合っていたとき、先生が野枝実の腰を支えつつ繋がったままひょいと立ち上がったこと。彼の背中にしがみつきながら一気に高くなった目線と、傍から見たときのその様子を想像して笑ってしまったこと。その通称を知らない野枝実は身振り手振りを交えてアイリに説明した。

「野枝実ちゃんそれはね、駅弁っていうんですよ」

 はっ、駅弁。ほろ酔いの頭が電光石火のようにものすごい勢いで閃き、その閃きの鋭さに自分で驚き、驚いたときのあまりの衝撃に爆笑した。その一部始終を見ていたアイリは後ろに倒れて笑い転げていた。


「湊先生、元気だねえ。なんかいいね、優しそうだしね」

「うん優しい、すごい優しいよ」

「喧嘩とかするの? 怒ってるところとか想像つかないんだけど」

「喧嘩したことないよ。全然怒らないし、」

 言ってから野枝実は一度だけ例外があったことを思い出した。喧嘩したことはないが一度だけ怒られたことはある。養子縁組について母に黙っていたことを先生に知られたときのことだった。


 それはだめだろ、と緊迫した声色で先生は言った。彼の真剣な顔つきに野枝実も無断で母の戸籍を抜けたことの重大さを認識しかけたが、そもそも思いきり性的関係にある湊先生と親子関係であるということが倫理的に抵触しているように思った。先生はどうしてその点を度外視して母に対して筋を通したがっているのか理解できず、野枝実は胸がもやついたが、どうにかその場をなだめすかし、結局うやむやのまま今に至る。先生もそれきりその話はしなくなった。

 しかしそれ以外の部分で、先生は野枝実のことを完全に甘やかしていた。子煩悩なお父さんが小さな我が子を可愛がるように、先生は野枝実の言うことを何でも聞いてくれるのだった。そのような先生が初めて野枝実に自らの希望を伝えたのが、養子縁組の一件であった。


「なんか不思議な関係性だねえ。結婚じゃなくて養子縁組っていうのも、湊先生なりの考えがあったのかねえ」

 結婚しようか、と言われたことは一度ある。結婚して子どもを設けて、夫婦として暮らそうかと提案されたことがあるが、野枝実はそれを断った。野枝実にとっての夫婦とは、いつか片方が突然不在になるというものである。父と母のようにはなりたくないと思った。

 たしかに、野枝実は将来結婚したい人ができるかもしれないからなあ、と言ったきり先生は一切結婚の話はしてこない。彼自身もそこまで執着がないことなのかもしれなかった。


 その後先生から提案された親子関係を受け入れた。それはすなわち諸問題に蓋をして都合のいいところをつまみ食いするように享受するという後ろめたさを伴うということに気づいていたが、野枝実はその気づきそのものに蓋をした。

「でも、もしずっと一緒にいることになったとしても野枝実に迷惑はかけないから。一人だと金の使い道もなくて貯まる一方なんだよ。だから、これも嫌になったらやめていいからね」

 区役所の記入台で書類の最終確認をしながら、世間話をするような口調で先生は言うと、二人の署名が揃った養子縁組届をひらひらさせた。湊正臣、荒木野枝実、二つの異なる筆跡が揺れた。向かいの台に立つ若い夫婦が聞き耳を立てている気配がした。


 先生から結婚や養子縁組の話を持ちかけられたとき、先生は一種のけじめをつけようとしているのだと野枝実は理解していた。野枝実の若い身体と時間を引き受けた彼なりの身の納め方のような。

 しかし話を聞いているうちに、そうでもないかもしれないと思い始めた。というのも彼はことあるごとに野枝実に、やめたくなったらいつでもやめていいと言い、親子になった今も変わらず野枝実を抱き続けているからで、本当にただ野枝実と親子関係になりたかったから、ただそうしたいからそうしただけだということがわかったのだった。寡黙で物静かな普段の姿とは裏腹に、意外と直線的な欲求や衝動に正直な人なのかもしれない、と野枝実は思った。それは、時に我を忘れたようになって貪るように野枝実を抱く彼の姿を見るにつけてもそうだった。

 だから、先生が野枝実にやめたくなったらやめていいと言うように、先生が野枝実ををやめたくなったらすぐにこの関係は終わるものなのだろうと思った。


 手続きのために取得した野枝実の戸籍謄本を見ると、父の欄は空欄であった。母の名前の隣でぽっかりと空いた長方形と同じように、野枝実の心もまた空洞であった。野枝実は父の名前すらまだ知ることができていない。

 湊正臣の父の部分もまた空欄だった。ついでに昔のやつも取ってみたと言って見せてくれた縦書きの除籍謄本には、湊朋子という養母が筆頭者となって、その隣には二人の姉の名前があり、先生を含む全員の名前に大きなバツ印がついていた。先生一人が婚姻によってその籍を抜けて、他はいずれもその戸籍で死亡していた。先生に姉が二人いたこと、生みの親もすでに亡くなったという先生にはもう身寄りがないということを、野枝実はそのとき初めて知った。

「バツイチのバツって、これが由来になってるんだってね」

 先生はそんなことを言ってあくまでもあっけらかんとしていた。


 へえー、とアイリが深いため息を漏らす。

「なかなか複雑な生い立ちなんだねえ。若い頃の先生ってどんな人だったんだろう」

 アイリはスミノフアイスの瓶に口をつけながら、興味深そうに野枝実の話を聞いてくれる。

 酔いが回り、すでに空き缶だらけになったテーブルを見渡してぼんやりしながら野枝実はかつて先生から聞いた様々のことを思い出し、それらはすぐさま言葉になって口をついて出た。アイリに伝えたいと強く思いながら、地に足のつかないふわふわした酔い心地の自分を野枝実はどこか遠くから見ていた。

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