第四章
4-1. 事情聴取
人混みを器用にすり抜けるアイリの後ろを野枝実はついていく。すれ違う人、人、人、香水、体臭、脂の臭い、シャンプーと汗が混じった臭い、排気ガス、下水、熱射する太陽、その熱射をため込んだコンクリート。真夏のスクランブル交差点はあらゆる匂いが混ざり合って混沌としている。
雑多な臭いと熱気に包まれながら、野枝実は今年、夏を初めて穏やかな季節だと思った。
「それにしてもびっくりしたよ。久しぶりに野枝実ちゃんに連絡してみたら今湊先生の家にいるとか返ってきて、びっくりしすぎて電話しちゃったよ」
「ごめん、何も報告してなくて。何から説明していいのかわからなくて」
「私も未だに野枝実ちゃんの話、情報量が多すぎてよくわかんなーい。つまり今は先生がお父さんになって一緒に住んでるってこと?」
「ううん、三か月くらい一緒に住んでたときもあったんだけど、今は休みの日に泊まりに行ってる。平日は自分の家から会社行って、金曜の夜から日曜まで先生んちに泊まるみたいな」
「へー、半同棲みたいな感じかあ」アイリは振り返って相槌を打つ。目の前を歩く大柄な黒人男性を、後ろを向いたままひょいと避けた。
アイリは待ち合わせ場所に現れるなり、開口一番に「ねえ、どういうこと」と野枝実に詰め寄った。透き通るような大声がハチ公前に響き渡ったが、その声は次の瞬間には軽やかな笑い声に変わり、さりげなく注がれた周囲の視線は何事もなかったかのようにふいと逸れていく。そこから早速怒涛のおしゃべりが始まり、スクランブル交差点で信号待ちをする間に、野枝実はあらかたの経緯を説明し終えてしまっていた。
「いいなー同棲とかうらやましいなー。私も早く彼氏と一緒に住みたいよー」
「アイリの部屋広いからすぐにでも一緒に住めそうじゃない?」
「んー、向こうが今スーパー銭湯に住んでるから無理かな」
なにそれ。そう言おうとしたら野枝実たちの前をスマホに目を落とした若い女がふらふらと横切っていき、会話が途切れてしまった。
雑踏の中を抜け、背後の喧騒もすっかり消えたころ、閑静な住宅街に唐突にカクヤスが現れた。薄暗い店内には野枝実たちと同じように宅飲みをするのであろう若者のグループが一組、ざっくばらんな格好で店内をうろうろしていた。
「野枝実ちゃんと二人で飲むなんて久しぶりだね」
言いながらアイリは冷蔵棚の前にしゃがみこみ、缶ビールにチューハイ、ウォッカの瓶などを次々と籠に放り込んでいく。
「最後に二人で会ったのいつだっけ?」
「だいぶ前だよ。高校卒業した直後の春休みに二人で遊んで、それが最初で最後のサシ飲みだよ。それ以降は更紗も誘うようになったからさー」
アイリに言われてようやく記憶が繋がった。そうだ、アイリが野枝実に提案してきた数々の中で、大学受験が終わったら一緒にお酒を飲むという計画だけは実現したのだった。
「最初うちで飲む予定だったんだけどさ、たまたまキャッチの人に声かけられて居酒屋に行けちゃったんだよ」
「思い出した。確か新宿のスイパラ行った後だったよね」
おねーさん居酒屋いかがすか。ごちゃごちゃと無秩序な往来を流されるように歩いていたとき、突然二人の目の前に客引きの若い男が立ちはだかった。
アイリはその声に立ち止まり、堂々と飲み放題料金の交渉を始めた。何が起こっているのかすら理解できなかった野枝実は二人のやりとりを右に左に首を動かしながらただ眺めるばかりで、気がついたら年齢確認を逃れて居酒屋に入り込んでいたのだった。
通行人を睥睨しながら、肩で風を切るようにして歩く男の後ろについて店まで案内されていたとき、ラッキー、とアイリが野枝実にこっそりと笑いかけピースサインを作ったことを覚えている。その仕草がにわかに頼もしく、とはいえどんな危ない店に連れて行かれるのかと気が気でなかったが、たどり着いたのはいたって平穏な土間土間であった。
そのとき、湊先生の件で傷心していた野枝実は、甘ったるい白桃サワーを飲んでほろ酔いになりつつ涙ながらにすべてを打ち明けた。
「押しが足りなかったね」
黙って聞いていたアイリは一連のできごとを極めてシンプルに総括した。千々にちぎれそうだった痛みがその一言で片付いてしまったことに野枝実は驚きながら、突然胸がすくように軽くなり、アイリと話すうちに少しずつその痛みが薄らいでいくのを感じたのだった。
ずっしりと重いレジ袋の中で酒瓶ががちゃがちゃと音を立てていた。カクヤスから更に十分弱歩くと蔦の絡まった木造アパートが見えてくる。二階の真ん中がアイリの部屋である。時代錯誤なアパートは瀟洒な建物に囲まれてひときわ目立っている。
「アイリは今の仕事どう?」
「なかなかいい感じ。前の職場と違ってロッカーあるし快適なの」
美大を中退したアイリはアルバイトや派遣の仕事を転々としている。小さな画廊でアルバイトをしていたかと思えばガールズバーで働き始め、その傍らで昼間は派遣の事務として勤め、休日には美大や美術予備校に出向いてヌードモデルの仕事をこなすという、野枝実には考えられないような濃密な日々を送るアイリだが、とはいえ職場に自分用のロッカーがあるだけで満足する彼女がなんだか素朴でかわいらしい。
忙しいと余計なこと考えなくて済むんだ、と部屋の鍵を回しながらアイリは言う。部屋に入り込み、後ろ手に玄関の鍵をかけた彼女は途端に真剣な顔つきになった。
「そんなことより野枝実ちゃん、今日は事情聴取だからね。今まであったこと全部聞かせてもらうからね」
「いいよ、夜通しやろうよ。私も話したいことがたくさんあるんだよ」
薄暗い玄関口にアイリの軽やかな笑い声が響く。そこから始まったのは、かつて野枝実が美術室の片隅で聞き耳を立てていたときと同じ、めくるめくピンク色の話であった。
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