ぼんやりとした視界に、ちりり、となにかが揺れる。それが女の両耳に着けられた白い羽飾りだと気がつき、崙は目を瞬かせた。

「……ああ、起きたか。気分はどうだ?」

 瓊勾は言ったとおり、いてくれた。それに安堵して手を掲げる。震えを抑えようと噛んだ傷には布が巻かれて、肌の青みも幾らか薄らいでいた。再び目を戻す。

「……そんな耳飾り、つけてたかな?」

「これか。戦いに行く時は仕舞っている。失くしたら嫌だからな」

「大事なものなんだね」

 花顔は少し照れたように頷いた。歳相応の自然な笑顔に、崙は不思議な気分で見上げる。瓊勾にはよそいきの顔とそうではない顔があるのか、と理解し、そうではないほうを見せられて確実に嬉しい自分がいた。


 体調には波があり、崙は数日間昏睡と覚醒を繰り返した。ほんの束の間目覚めると、瓊勾はいつも傍にいて世話を焼いてくれた。目覚めている時間が延びるにつれて、話し足りなかった色んなことを話した。二泉の国の仕組み、慣習、童話や逸話。しかし、彼女のほうは自分の一族に関する深いことは一切話さず、こちらも核心に触れる話題は避けた。しかし言葉を交わすたびに、やはり自分の内に芽生えて育っていた考えはますます膨らんで、どうあっても諦められないのだと自覚した。



「……あのね、瓊勾」

 すっかり起き上がれるようになってから、ついに意を決して口を開いた。

「どうした?」

 瓊勾は自分で言うように細かいことが苦手らしく、刺繍しながら何度も針で指を刺していた。また浅く掠めて痛、と顔をしかめた。


「ぼくを、牙族に入れてくれない?」


 痛みを忘れた顔がぽかんと見てきて崙は息を詰めて見返す。

「ぼくは、牙族になりたいんだ」

「なにを言い出すかと思えば……」

 瓊勾はやりかけの縫い物を脇に追いやった。

「あのな、崙。牙族はふつうの泉外一族とはちがう。幼い頃から訓練を積んでやっと一人前になれるんだ」

「牙族は各国に間者をひそませているじゃないか。もとは二泉民もいるのでしょう?」

「長く泉地に住んで馴染んでいる、ほんとうにごく一部の者たちだ」

「ではその例外にして」

 瓊勾は困った。「それを頼みに来たのか?」

「いいや。はじめはどうしてもあなたに会いたくて、ただそれだけだった。でもぼくは、これで牙族と関わりがなくなるのが嫌だったんだ。泉民とは友だちになれないのなら、ぼくを牙族に加えて」

「私は今でも、お前を友だと思っているよ」

「お互いに生きているのに二度と会えず、連絡も取れない、そんなのは友じゃない。ただの記憶のなかの死者と変わりない!」

 たかぶって握った拳を瓊勾はなだめるように叩いた。牀褥ねどこに腰掛ける。

「なあ、崙。お前には立派な家があるだろう。お父上ももと刺史ししだ。左遷されたが処刑は免れたのなら、お前の官吏になるという道も閉ざされていない。これからいくらでもなりたい者になれる。それをわざわざ夷狄の間者に成り下がることはない」

「父上のように二泉主の走狗いぬになっても嬉しくない。泉を濁らせる王なんて、ぼくの主じゃない……」

 俯いた。「今だって、こうして家出しても父上も娟媚けんびも心配なんてしない。ぼくは、要らないのだもの。泉地では居場所がないんだ。息苦しくてたまらない」

「そんなことはない。父上も母上もきっと今頃心配している」

「瓊勾には分からない。父上にとって、ぼくは昇級の為の道具でしかない。それに、娟媚は本当の母上じゃないもの。弟のほうが可愛いに決まってる」

 瓊勾は瞬いた。

「それは全てお前の憶測だろう。親ときちんと話したことはないのか。なぜ母上がお前を嫌っていると言い切れる。本当の母ではないというのはお前を嫌う理由にはならない」

「どうして?血が繋がってないんだ」

「血の繋がりだけが親子のえにしではないと私は思う。現に、私には四人の子がいるが私が産んだわけじゃない」

 今度は崙が呆気にとられた。「どういうこと?」

 正確には、と頬を掻く。

「それぞれに産みの母はいる。彼らはもうすぐ私のつまとなる奴の子供たちでな。皆まだ幼い。特に一番下は生まれる前から世話している。確かに赤子のときから育てていれば愛着もひとしおだが、それでも歳上の兄たちが劣るということではない」

「逆にさ、瓊勾は自分で産んだ子どもがいないからそう言えるんじゃないの」

「うん、また自分で産めば新しい見方も出来ようが、それでも皆可愛い私の子だという気持ちは変わらないと思う。優劣をつけられはしない。話を聞くにお前は母上と腹を割って話したこともないのだろう。向こうも自分が嫌われていると思っているのやもしれないぞ。私も最初不安だったからな」

 大人おとなだって元は子どもだ、と頷く。

「崙は自分の居場所が無いから私たちにそれを求めているが、自分から歩み寄って居場所をつくるのも大事なことだ」

「……ぼくは、泉地の家族のなかではなくて、牙族に居場所が欲しいんだ。だからこうして来た。もし父上も母上も優しくてぼくを認めてくれて、弟と仲が良かったとしても、この思いは満たされなかったよ。全く考えたこともない生き方があるのだと、初めて知った。やっと、むなしさがなくなる方法が分かった気がするんだ。それをもたらしたのは瓊勾だ。牙族として生きられるなら、ぼくはもっと自分の生に執着できる」

「間諜はただ盗み聞きをしたり暗躍するだけじゃない。敵がいれば殺すし弱ければ殺される。お前には無理だ」

 それでも首を振った。おっとりと優しげな女の影が脳裡に浮かぶ。

「ぼくは、もう人殺しだ」

「崙……」

「ぼくが鹿射城から逃げたから世話役の芳麗ほうれいは死んだ。この手はもう血で染まった。瓊勾たちと同じだ。芳麗の死はもう買い戻せたりしない。その罪はこれから先ずっとぼくを縛る。それなら、少しでも自分がなにかの役に立っていると思えるような生き方をしたい。踏みつけにした死者の上に立つなら、なおさら」

「その方法が、間諜だというのか?父と母を欺き、国を裏切ることが?」

「国が常に正しいとは限らない。少なくとも二泉の王は正義なんかじゃない。今思えば、徐楽さまの言うことは正しかった。そうじゃなきゃあれだけの民が従うもんか。荒くれの史進が力になるもんか。でも罪人として死んでしまった。……ううん、ぼくは善悪の問答がしたいわけじゃない。ただ、ぼくは、ぼくの誇れることがしたい。それは今の二泉の中にいては出来なくて、牙族にあると思った。ただそれだけだ」

 瓊勾は眉間に皺を寄せた。黙って腕を組む。

「私たちはただ、自分たちが生き残る為にこうやって生きている。牙領がりょうに泉はない。あるのはいつ涸れるともしれない、どこから湧いているのかも定かではない地下水だけだ。泉国では泉主がいれば水が失くなることはない。恵まれた泉地での約束された暮らしを捨てて、露見すれば後ろ指を差され石を投げられて処刑されるような将来を望むのか」

「何が幸せかの杓子定規は自分のものを持ってる。ぼくにとってなにが恵まれている生き方なのかは自分で決める」


 迷いのない答えに異民族の彼女は深く息を吐いた。沈痛な面持ちで一度顔を伏せ、苦悶する時が満ち、崙が無言で見守るなか、だいぶん経って天幕の外を向いた。


「どう思う」


 崙は驚いた。まったく物音などしなかったのに垂れ幕をめくって人が入ってきた。

「ただの思いつきではないのは分かったが、一時の気の迷いともとれる」


 目だけしかあらわになっていない、とびきり背の高い男だった。くぐもった声は感情の色を打ち消す。ただ闇のような双眸がこちらを睨んでいる。


「しかし、お前と関わりすぎた。手駒として置くならかえって安全やもしれない」

 崙は気圧けおされてその男を見上げた。

「だ、だれ……?」

「私が誰であるかは今は関係がない」

 ぴしゃりと静かに言われ怯えて首を竦めた。

小鬼こおに。お前の言は本心か」

「……本気です」

「歳は幾つだ」

「十三……」

「ここでお前の望みをねつければ、お前はどうする」

 崙は男を睨み返した。

「ここまでの道はもう覚えた。認めてくれるまで通うし、今度は矢を刺されても門を叩き続けてやる」

 瓊勾が呆れて両手を挙げ、男はさらに目を細めた。

「なんと言われても我々にくみしたいと?その真意はなんだ」

 真意と問われても、としばらく考える。やがて、再び見上げた。



「牙族に、惚れた」



 しん、と沈黙で満たされる。崙は急に自信を喪失しておどおどと男女を交互に見た。二人は二人で目を見交わし、やがて我慢の糸が切れた瓊勾が大笑いした。

「我々に惚れたと。とんだ大物じゃないか。どうしたものか」

 男のほうはぴくりとも表情を変えなかったが、思案するように上向いた。

「…………我々の革新にはこういう存在も必要になってくるのやもしれん。賭けてみるのも一興か……。しかし、十三か。大きすぎる」

 もう一度観察してきて、崙が息を詰めて窺うあいだ、しばし黙する。それからおもむろに、いいだろう、と頷いた。


「四十だ。四十になるまで言を違えず我々の指図通りに間諜としての仕事を全うしてみせろ。そうすれば、お前を正式に一族に迎えてやる」


 四十、という数字に崙は想像つかず思考が追いつかない。男は小馬鹿にしたように袖の中で腕を組んだ。

「無理か?やはりその程度の覚悟だったか?使命を全うすればお前から続く家系を牙族の間諜一家として認めてやる。しかし、生粋の泉人で一族の間諜にはそうそうなれるものではない。ことに二泉は危険多く道半ばで命を落とす者も多い。露見すれば凌遅りょうちによる苦しみ抜いた末の死が待つ。それでもやるか?お前ごときに成しうるか?」

 出来ないだろう、という言外のあざけりを含んだ居丈高な物言いは明らかにこちらを試していた。崙は唾を飲み込み、ゆっくりと息を吸った。


「……やります」


 宣言に、瓊勾は微笑みながらも悲しげにした。隣で男が再び頷いた。

「では証明してみせろ。裏切れば命はない。たった今、お前は父や母をも裏切って我らの手先になった。夷狄に魂を売り渡した。せいぜい足掻いてみせろ。四十になって私に感謝され頭を下げられるくらいにな」

 言い捨て、次いで瓊勾に向き直った。

ヒョウで送ってやれ。お前にとっては本当に最後の泉地だ。しっかり見納めてこい」

 そうして衣をはためかせて天幕を出て行く。崙は高鳴る心臓の音を抱き込んだ。今この瞬間から、崙は国にとっても泉民にとっても叛逆者になった。それで、いい。瓊勾に微笑んだ。唇を噛み締めた彼女に頭を抱かれる。

「たとえお前が我が一族に与するとしても、もう言葉を交わすことは叶わない。それでも、私は友としてお前を心の中で慕い続ける。それで許してくれるか?」

 いいよ、と抱き返す。

「一族と繋がったんだ。瓊勾とも会えなくても繋がってる。ぼくたちは同じ立場で、同じ気持ちでお互いを想い合える。……それに、ぼくが四十になってお許しが出ればもしかしたらまた会えるかも。それを楽しみにして頑張る」

「そうだな。……しかし、たとえ牙族の手先でも、父上と母上には恩に報いてやれ?」

「うん。娟媚とも話してみる。瓊勾のおかげで希望が持てた。ありがとう。あなたはぼくの命の恩人で、いちばん大好きな人だ。――言い忘れてたけど、結婚おめでとう。できたら、この道の先であなたの子供たちとも会えたら嬉しい」


 頬に銀の雫が散った。瓊勾の長い睫毛に溜まったものが弾けて落ちてくる。

「私もずっと大好きだよ、崙」

 囁いた声は切なく、そして今まででいちばんあたたかかった。




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故人万里 合澤臣 @omimimi

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