〈十一〉
風の強さは増していた。途中で何度も挫けそうになりながら、崙は二日めもさらに崖を
濃霧がひどくて谷底まであとどのくらいあるのか分からなかった。水も食べ物ももうほとんど切らしている。また手先が痙攣し始めていていらいらと噛んだ。そうして出来た傷からは血が滲んでいたが、そんなことももうどうでもよく、とにかく谷底に辿り着きたい一心でふらつく足をまた一歩狭い岩場に降ろす。
なぜこんなにも瓊勾に会うことに執着しているのか。たしかに彼女には憧れが詰まっている。格好良く、清廉で強い。しかし、はたして自分が瓊勾自体と会いたいのかは定かでなかった。いま牙族に会えるなら、驤之や他の万騎兵でも誰でも良くなっていたから。
なにかに執着したことがなく、つまらないと感じる日々に亀裂を入れてくれたのは確実に牙族だった。それまで崙は物に対してだけでなく、人にも固執したことがなかった。誰かを特別だと思ったりずっと共にいたいと感じた初めての相手が瓊勾と万騎だった。だからあんなに寂しくて苦しかったのだろうか、と自問する。万騎と別れた後の日々は心に穴が空いたようで何も手につかず、それはひどい虚無感で、崙はさらに父にも義母にも義弟にも、もはや
父は息子がそんなふうになったのは自分のせいだと思ったのか厳しく叱ることがなくなった。父もまた一連の事件の心労がたたったせいか、再会した時には髪が一気に白くなっていてすっかり老け込み激変していた。
見えない枷が…………。ふいに鹿射城で嵌められた
(…………そうか…………)
自分の心を悟った。内面の気持ちをさらに咀嚼しようと黙想しながら上の空で手綱を次の岩に引っ掛け、踏み出した。しかし、そこに岩場は無く、足先に当たるはずの感触はすっと消え失せて浮遊感に慌てて綱に縋る。しかしその綱も張られることなく引力にしたがい難なくたぐり寄せられた。
なんで、と愕然と掛けたはずの手綱の先を見る。掛かっていなかったのか。驚いた顔のまま宙に投げ出されていた。落ちるということも把握できず、胃を突き上げるような奇妙な感触のなか、どうしようもない一瞬にただ紫の霧だけが瞳に映った。
固い地面に叩きつけられる覚悟もなく浮いた体は直後、想定外の柔らかな弾力に当たって、ああ、と息を吐いた。死ぬ時は痛みが無いといいと願っていたけれど、こんなにも楽だなんて。目を閉じたままそう思っていれば、おい、といきなり頬を叩かれ吃驚して瞼を開いた。
「――――平気か?」
笑んで問いかけてきたのは会いたいと焦がれていたまさにその人物。
「…………瓊勾…………?」
夢じゃなかろうか。ついに幻覚まで?崙はぼんやりとあたりを見る。瓊勾に横抱きにかかえられた下にはごわごわとした毛並みがある。跳躍した灰茶の
「まったく、なんて無謀なことをするんだ。死ぬところだったぞ」
軽く頭を小突かれ、本当に現実なのだとやっとじわじわと実感した。驚き顔のまま、感極まって涙が頬をつたう。
「瓊勾……ぼく……」
瓊勾は崙の背を撫でて頷いた。
「ひとまず上がるぞ。ひどい顔色だ。体も冷たい」
崙を狻猊に括り落ちないように固定すると、自分は覆い被さるように脚を締めてしっかりと跨り、ほぼ垂直の崖を上昇していく。
崙が二日かけても下りきれなかった長大な崖を狻猊はものの数刻で登りきった。獣の背から解放され立てない崙を、瓊勾は今度は自分の背に負ぶう。
「どうして……ぼくが、あそこにいるってわかったの?」
声が掠れて上手く出せず、囁きに相手は変わらず朗らかな声で答える。
「裸馬が主を心配してうろついていたし、崖の上に鞍があったからな。下りたとすぐに分かった」
「そっか……」
閑地まで戻ると簡易の天幕が張られ、害獣避けか不思議なにおいのする
「とにかく体を休めなければ。薬をもらったから飲んで寝るんだ」
崙は今更になって自分の腕や手を検分した。
「なんか、青い……」
「由霧の中毒症状だ。顔もそのままの意味で青いぞ。それが紫になって黒く炭のようになれば枯れ木と同じく崩れて朽ちる。毒を吸いすぎたんだ」
瓊勾は崙を天幕のなかの
「本当は門の中に入れてやりたいが、すまないな。許しが出なかった」
崙は億劫そうに頷いた。
「出て行けと言われたのにまだいるのだもの。怒って当然だ」
「いや、主は私にたいそうご立腹なんだ。任務で泉地に降りたのに泉人の子どもに懐かれて押しかけられるとは何事かとね」
あまり美味しくはなさそうな薬湯を飲む。案の定苦味に辟易しながら朦朧として見つめた。
「ぼくのせいで、瓊勾も怒られたの?」
「それよりも、子どもに矢を射掛けるとはあんまりだと怒り返してやったよ」
「……助けてくれてありがとう。二回目だ」
「お互い様だろ?もう寝ろ」
崙は離れようとした裾を握った。「眠ったら、あなたがいなくなる気がして怖い」
瓊勾は眉を上げ、再び近づくと爪まで青い指を両手で包んだ。
「いるさ。大丈夫だ。動けるようになれば必ず二泉まで送り届けてやるから、今は安心して眠りなさい」
それでやっと意識を手放した。
瓊勾は黒く浮いた隈を労わるように撫で、しばらくその寝顔を見ていたが天幕の外に気配を感じて立ち上がった。静かに出ると己の主が祇盾に凭れて立っていた。
「……やりすぎだ」
くぐもった声は感情が分からない。
「関わりすぎだ。そいつは殺すべきだ」
「お前も崙が間者だと?」
「そうでなくてもいずれ利用され敵になる可能性がある。懸念の種は摘んでおけ」
「断る」
主は不快げに
「私も崙に救われたんだよ。知っているだろう?お前まで皆と同じことを言わないでくれ。それに私がこの子を殺せないことは、お前がいちばんよく分かっているはずだ」
「このことを誰かに洩らして伝え聞いた敵がお前を暗殺するかもしれない」
「心配しなくとももう私の遠征はない。これからはずっとお前の傍にいると。まだ信じられないのか」
言い募ればやっと目許を和らげ、
「…………疑ってなどいない」
と呟き睫毛を伏せた。
「……子どもは」
「いまは寝ている」
「婚儀の前に厄介事を持ち込むとは思いもよらなんだ。もう噂になっていて止められん」
「どんな噂」
「……お前が泉人の情夫を呼び寄せたと」
な、と呆れて慌てる。
「そこはただの子どもだと訂正しておいてくれ」
「知るか。もとはといえばお前の蒔いた種だ」
いじけたような声を出した主に一転思わずにやけた。
「すまない。悪かった、婚礼に傷がつかないよう精一杯訂正してまわるよ」
「笑い事じゃないぞ、ほんにお前は……」
嘆息し、やがて背を向けた。肩越しに
「なんにせよ、要らぬ波風は立てたくない。早く出て行かせてくれ」
それだけ言うと巨狼の背に跨り、門を抜けて去って行った。
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