〈十〉



 家族と再会して新居に移り、しばらく経っても崙の心は晴れなかった。それでついに思い立った。父が家を空ける隙を見計らい、金庫のものいくつかと馬を拝借した。丈夫で従順な馬だ。これなら耐えられるだろう。

 すでに暗記した深沈までの道のりを辿り、商人たちで賑わう露店で旅支度を整え、とんとん拍子に翌日の昼にはついに関門を越えてしまった。初めて見る外界に崙は思わず後ろを振り返り、向き直るとじけた心を叱咤して手綱を振る。濃霧のなかには街道とは名ばかりのわだち道が続いていた。



 霧界とは不可思議な人外の場所であるというのは聞いてはいたが、崙はその意味を身をもって体験した。馬は毒の影響を受けないらしく人のように薬水を飲まなくても平気らしかった。近場は霧で自分の足許も見えないくらいなのに、太陽の位置は分かった。夜、星を読めた。それに気がつき、移動するのは夜のほうが方角と位置が分かって良いと思ったので昼は休んで夜進むようにした。西へと向かう街道は途中で北寄りに曲がっており、続く先を信じて良いのか迷ったが、牙領には仕事を依頼しに泉国の者も行くというのだから道が分からなければおかしいと言い聞かせ進んだ。それに少し外れると二度と戻って来られないような気がした。


 新緑の季節でも由霧ゆうむで覆われた外界はどこもかしこもじっとりと湿り気を帯びてうろ暗く鬱蒼とした森と山ばかり。方向感覚がおかしくなりそうだった。道が無ければ完全に迷っているところだ。三日も経たないうちに崢嶸そうこうたる奇岩群に入った。道はその峡谷のなかに細々と続いており、土砂崩れなどあったら一瞬で埋まってしまうだろうと想像して身震いした。


 たとえ薬水を飲んではいても効果はおおよそ十日からひと月ほどだと聞いた。それも人によって効き目が異なるので一概には言えず、ともかくそれまでを目安に霧の出口まで辿り着かなければならないのだった。深沈で運良く旅人に牙領までの日数を訊くことができ、それによれば馬で半月ほどかかるということだ。崙は外界に出たのが初めてで自分がどれほど毒霧に耐性があるのか定かでなかった。しかし、なにか薬の効きが切れる前兆のようなものをわずか七日めにして感じてしまった。

 夕方目覚めてから汗が止まらず悪寒がひどい。喉が渇いたが濾過の途中の水は飲めず、荒い息を吐きながら胸を押さえつつ馬を進めた。翌日にはさらに体が重い。霧の中はひんやりしているはずなのに、今は上着一枚でも暑かった。



 十日めに雨が降った。黒い水滴が霧雨になってあたりを撫でて濡らすのを岩棚の下で見守っていた。喉になにか詰まったみたいに息が苦しく、なぜか指先が細かく痙攣けいれんして忌々しい。そして、とたっぷり溜まった水囊すいとうを持ち上げる。あれほど水を飲みたいと思っていたのにその欲が失せた。さらには腹も空かなくなった。


 それにしても街道は人の姿が全く無い。こういうものなんだろうか、と厚雲の垂れこめた暗い空を見上げる。誰かが前から来たら牙領がどんなふうだったか聞けたらいいと思っていたのだ。


 粘つくように気怠けだるく、日を数えるのも億劫になった。おおよそ半月ほど経ったはずだ。その夜も落ちたら命のない崖を細心の注意を払って渡り、明け方にねぐらを探して木の葉のしとねに身を投げ出したところで、崙は自分の足先の感覚がないことに思い至った。

 緩慢な動きで靴を取ると青黒く変色した足指があらわになる。驚いてさすっても麻痺して感触がない。指はまだ動いたが、凍傷になったように変色は徐々に広がってきているようだった。さすがに心配になってきて一睡も出来なかった。万一の時のため家には書き置きしてきたが、人知れず霧の中で死んだらどうしようと目をつむれなかった。このまま辿り着けなかったら。瓊勾に会わないまま死んだら、自分はなんのために。

 焦燥と不安は睡眠不足でさらに悪化した。鞍上で常に脚を動かしていないと腐り落ちるのではと気が気ではなかった。落ち着かない主に馬が不満そうにいなないても無視して、とにかく先を急いだ。



 そしてようやく、前方が急に開け、木立の間に呆れるほど広い草原を臨んだ。毒霧に侵されていない正常に青いくさむらが見え、その先にこれまた呆気に取られるほど壮大な黒い城が見えた。

 これが牙族の領地なのか、と崙は馬を止めてその光景に見入った。街道は草原を回り込んでまだ続いていたので、城を横目に進む。ふと、胸に手を当てた。気がつけば呼吸がましになっており、あたりを見回す。霧が少し薄くなっているのだ。

 ではやはり辿り着いたのか、と半信半疑でり拓かれた閑地に到着した。完全に澄んだ山の空気に夢中で深呼吸する。中ほどまで進むと古びた木柱が二本立つ門が現れた。


「着いた……」


 崩れるように馬から下りた。実際へなへなとしゃがみ込んだ。嬉しさで快哉を叫びたい気持ちだったが、長らく使っていなかった頬筋がぎしりと鳴っただけだった。

 しかし、門の周囲には何者の姿もない。ひっそりと無人の門前にどうしたものかと首を捻る。中へ入って人を探したほうが良いのだろうか。ここで待っていても誰も来ない気がしたから、決心して馬を連れ門のむこうへと足を踏み出す。おどろげな彫刻の柱を抜け、少しばかりぬかるんだ一本道を行けば、いくらもしないうちに左右を岩山で挟まれた規格外な鉄門扉が登場した。箭楼やぐらが見える。たしかに人が作ったものだった。とにかく誰かに会いたくていて歩を進める。しかし、風切り音が耳に届き、立て続けに飛んできた矢が数本、崙の行く少し先にきれいに整列して刺さった。


 度肝を抜かして思わず尻餅をつけば、さらに近づいて一本、ことさら太いのが地面に突き刺さる。矢羽にくくられた紙片が目に入り慌ててそれを解いた。

 即刻立ち去る旨の短い命令が書いてあり見回す。人の姿はどこにもないのに。

 ここまで来て瓊勾に会わずに帰れるわけがない。ふらつく足で立ち上がると紙を握り締めたまま、見上げれば首が痛くなるほどの門扉にさらに近づいた。瞬間、頬を掠めて矢が飛んでくる。


「――お願いします!どうか話を聞いてください!」


 谷間に自分の声がこだました。


「ぼくは――私は、二泉国から来ました!恩人にどうしても会いたくて!どうか一目だけでも会わせて下さい!」


 叫んでひざまずいたが、問答無用で左右にも矢が刺さる。体は恐怖で震え出した。膝すれすれのところにも泥を散らして立ち、崙は座り込んだまま、ずるずると後退あとじさる。飛んできた束の矢に硬直した。ぎゅっと目を閉じて衝撃に耐える。矢束は四肢のあいだを精確に狙って射止めるかのごとく地面に突き立った。


「去れ」


 冷たく鋭い一声が箭楼の上から響いた。仮面を被っていて男女の区別もつかず、人はそれだけ言うと姿を消した。


 その一言だけで望みは完全に打ち砕かれた。しばらく放心していたが門扉は一毫いちごうも動くことなく、どっしりと閉ざされたまま。崙はゆっくりと起き上がり、とぼとぼと馬のもとへと戻った。拒絶されてこれ以上どうすれば良いのか分からなかった。閑地まで戻りながら静かに涙を流した。ここまで来て、彼女に会えなかった。きっとあの大扉の内側にいるはずなのに。

 門柱の下で蹲ってだいぶん泣いた。半日くらいそうしていたと思う。やがて腹が減っていたことに思い至り、ともかくも黙々と口を動かし、やっと少し冷静になれた。



 閑地のまわりを検分してふと思い出す。はじめ見えた草原には門や柱の類はなかった。それなら、あそこを突っ切って城まで行けないのだろうか。だが、しかし、と矢の攻撃を思い出して首を振った。草原にも射手がいるはず。許可なく侵入すれば今度こそ当てられ、確実に殺される。

 すべなく、しかし到底帰ろうという気にもなれず、広い閑地をうろうろと歩き回った。埒があかないので再び薬水を飲んで周囲の霧界を散策する。それで気がついた。閑地をしばらく行った西端には崖があって、どうやらそれは黒い城のほうまで延びているらしかったのだ。崖は途中であの鉄門扉を挟んだ岩山の並びに行き着く。だとすれば一度谷に下りてから岩山を過ぎ、また登れば良いのではなかろうか。まさか谷まで監視されていることはないだろう。


 そう思い崖上から谷を見下ろし、思わずひゅっと喉が鳴った。どれくらい深いのか分からないほどの峡谷は下から霧とともに風が吹き上がり、ただ黒い大口をぽっかりと開けて崙を招いていた。

 今は――明け方だから、と自分を慰め、意を決して荷を解く。馬の手綱とはみ、鞍その他全てを取り外し、礼を言うとしりを叩いて解放してやった。要るものだけを身に帯び、風鳴りのする谷を再び覗き込む。崖肌は所々突き出たり木が生えていたり、つたっていけばなんとか下りられそうな具合だった。身を括った手綱を一歩踏み出すごとに岩に引っ掛けながら、慎重に、ゆっくりと広大な壁を下へ下へと進んでいった。







 どう、と声をかけられて瓊勾は苦笑した。

「どうと言われても。服はもうこれで決まったのだろう?」

「召し物はこれでいいとしても、帯の色も飾りもまだなんにも決まってないのよ」

 肩を竦めた友に瓊勾は乾いた笑いを洩らした。ずっと立たされていて脚が棒のようになっている。

「婚礼衣装がこんなに重かったなんて」

「良く似合ってるわ」

菊佳きっかが決めたものなら文句はないよ」

 だめ、と菊佳はめつける。

「一生に一度のことよ。丸投げでどうするの」


 首の折れそうな重さの玉を頭に取り付けられたところで、入室を請う声が外から響いたので鷹揚に許可する。現れたのは下僕しもべだった。彼は主の姿を見て一瞬言葉に詰まる。

「……お嬢、城から呼び出しです」

「城から?なにか変事か」

 それが、と男は腕を組んだ。「門外に妙な客が来たとか」

「客?」

「ええ。なんでも小童こわっぱひとりで、二泉から来たとかなんとか。追い返してもまだうろついているようです。このあいだあちらに遠征したばかりですからね、お嬢がなにか知っているかと」

 そういう口実で呼びつけたいのだろう、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。婚儀を前に当人の相手を揶揄やゆするのは差し支える。瓊勾はそんなことには気がつかず動きを止め、まさかという思いで急いで衣装を脱いだ。菊佳が、ああ、と残念そうに声を上げる。すかさず目を逸らした下僕が気を利かせて広げた上着に腕を通し、帯を締めながら命じた。

「悪いが馬を用意してくれ」

「俺も伴を」

「いや、大丈夫だ」

 得物を取ったのを剣呑に思い菊佳と男は顔を見合わせる。

「その子、知り合いなの?」

「二泉から来たと言ったのだろう?」

「のようですが。二泉から単騎で領地に来る者などおりますか」

 虚偽ではと言う疑念に含み笑った。

「本当なら、ひとりだけ心当たりがあるな」

 なおも不思議そうな二人に瓊勾は手を振った。




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