〈九〉



 めり、と悲鳴のような軋みがやがて大きな破裂音となって門扉は破れた。振り返って確認し、史進はよし、と呟く。


 埋州の北、然濤ぜんとうと四泉の国境の関門はすでに国軍の手がまわって閉じられていたが、守護の郡兵を蹴散らして力づくでこじ開けた。この門を過ぎてしばらく行くと街道は国境の霧界へと続き、一日もしないうちに四泉へ逃れられる。兵たちはそこで散開させることにしていた。

 また再び――史進は曇天の空を見上げる。二泉の水が澄み渡らないかぎり、自分は泉主の正当性を認めない。それまで何度でも刃向かって誤謬まちがいを指摘してやる。そう思いながら、街道に歩を進めていると後ろの隊列で叫び声があがった。

 振り返れば大きく蛇行する川の上流からやって来る船団が目視できた。


「――――万騎だ‼」


 怒号に史進は勢いよく野牛を鞭打つ。

「逃げろ!四泉へ入れば手出しは出来ん!必ず生き延びろ‼」

 しかし言っているうちに矢が飛んでくる。史進は思わず牛から下りた。おそらく馬より高さがあって狙いやすいのだ。奴ら、自分たちの騎馬をみすみす失わせるつもりか。


 馬と野牛を交換したのは万騎を埋州軍に見紛みまがえさせる為もあった。それで少しでも混乱を大きくし、鹿射に目が向いている隙に逃げられれば――そう思っていたがそう上手くはいかなかったらしい。


 破竹の勢いで万騎が追いついてきた。騎馬が鍛え上げられた禁軍のものであるのを知って史進は無意識に蟀谷こめかみから汗を垂らす。容赦なく後続が狩られていく。音律を刻むが如く首が飛ぶ。血がはしる。

 絶叫と悲鳴は恐怖を駆り立てる。史進ら先頭は我先にと街道を走り出した。しかし足と騎馬では比べるべくもないはした距離はみるみる縮まってゆく。

 ついにすぐ後ろの兵が刺されたのをみとめ、剣を構えて向き直った。ちらちらと鬱陶しい粉雪が視界を阻む。うっすらと白い荒地に鮮血を滴らせた武器を手にし、玲瓏れいろうとした女が無表情に史進の前に立った。頬にわずかに散った返り血だけが彼女の静かに燃える怒りを表しているようだった。


「――あんたは、瓊勾か。そんな顔をしてたんだな」


 沈黙に耐えきれずに呼び掛けると女の眉だけが動き、禍々まがまがしい水で染まった見慣れない槍を突き出してみせた。

「万騎を敵に回して無事で済むと思ったか」

 声までも別人のように硬い。史進は笑った。

「計画は失敗したみたいだな」

「子どもを舐めるからこういう目に遭う」

 あいつか、と大きく息を吐いた。白くけぶったそれを流し見る。

「やはり殺さないのは失敗だったか。大したことない奴だと思っていたんだが」

「崙を見逃したとはいえ、私の仲間を殺した代償は貴様の血肉であがなってもらう。苦しませはしないゆえ有難く思え」


 言うやいなや突き出された刃先を史進はほぼ反射で思いきり跳ね上げた。なんて速さだ、と頬をかすめたものを飛び避けてさらに笑う。目が追いつかない。人間業じゃない。

 小柄な女は身丈と同じほどもあろうかという細槍を自在に操る。標的の髪を削ぎ落とし、脇腹やすねに数条の線を走らせ、執拗に首を狙ってくる。刃先の形状をよく活かしていた。史進は俊敏さについていけず、とうとう油断して襟を引っ掛けた。おかげで背がばっくりと裂けて肌が晒される。瓊勾は一拍動きを止めた。

「九つの龍…………」

「知ってるのか」

「大層なものを背負っているな。龍とは泉国では神のことだろう。九頭なら貴様の背にあるのはこの寰宇せかいか」

 史進は噴き出した。

「確かにそう考えられるかもな。そこまで深く思って刺したものでもないが。そうだな、寰宇を背負える俺であれば二泉主を倒すのもわけないことか」

 瓊勾はわずかに得物を下げた。

「何故そうまでして王に刃向かおうと躍起になる」

「豊かな地下水脈を持つお前らには分からんだろう!ひとりの人間によって生きるための水が失くなるかもしれないという理不尽がどれほど恐ろしいことか。信じられるか?泉の澄明とは泉主ひとりにかかってるんだぞ。馬鹿げた世の中だ。まるで神の失敗作だ‼‼」

 そうは思わないか、と史進はどこか壊れたように笑った。引きった頬が戻せないとでもいうのか、手でこねた。

「二泉の水は濾さずに飲むと腹を下すほど汚くなってる。俺の妹は、焦げつく飢饉の夏にたった一杯の水が買えなくて死んだ。その時に俺は泉主に復讐しようと誓った。水を腐らせる王なんか、誰が求める。民というのは、本当は王などいなくても生きていける。水さえ自由になれば、牙族のように」

「くだらない」

 温度のない声に史進の顔から笑みが引いた。

「お前の私憤の為に罪のない民を死なせたのか。怨みがあるなら人を巻き込まず一人で泉主を襲えば良かったんだ。なのに、小心をこじらせ位に溺れ事を大袈裟にして。徐楽どのをたきつけたのも実のところ貴様だろうが」

「小心、だと……夷狄の小娘が、無関係の下民ごときが偉そうに!」


 剣を振りかぶった。瓊勾は鼻から息を吸って止める。柄を斜めに、刃先の円弧を地に近いほうへ。踏み出した一瞬、ふっと息を吐いてぐるりと回転させた腕の動きに伴い、月鎌は遠心力で跳ね上がってそのまま男の首を掛けね、空に放り飛ばした。


 構えを解いて脱力した瓊勾は膝をつき、虚ろに色のない空を見上げる。やがて、力なく体を引きずり、白い雪の上に鮮やかなものを散らして埋まった首を掻き出した。転がった胴から布を割いてきて包み、槍に提げた。





 牙族は潰走した埋州軍をことごとく狩り尽くし、協力した民を捕らえ鹿射へと戻った。すでに四泉国へ入り込んだ少数には手配をまわし、四泉側の許可を取って禁軍が捜索する。目立つ野牛に乗って逃れることは困難だから、捕縛されるのは時間の問題だろう。


 徐楽の刑は日を置かず鹿射で行われた。彼は静かな最期を迎えられることに満足し、愛した埋州で生を終えた。禁軍と桂州軍も凱旋の日取りが決まり、静けさが戻ってきた春先に、ようやく万騎も領地に帰る手筈が整った。





「親父さん、減刑になったって?良かったな」

 鹿射に万騎が戻って来てから兵舎に入り浸り、共に寝起きするようになった崙に瓊勾がそう言えば、彼は、うん、と上の空で答えた。

「もう刺史ではないし、降格になって閑職に追いやられたんだけど。やしきも没収で下女と下男もほとんど解雇して皆ばらばらになった。でも禁錮が解けたらとにかく鹿射へは帰ってくるって」

「それでも良かったじゃないか。また会えるんだ」

 うん、と崙は再び答えたがぼんやりと瓊勾たちが荷造りするのを眺めている。

「……本当に、帰っちゃうの?」

「ああ。仕事は終わりだ」

「……また会えるよね?二泉は戦が多いもの」

 いいや、と瓊勾は笑って首を振った。

「これは私の最後の遠征だったんだ」

 え、と頬杖を外して彼女を見る。横で大きな包袱ふろしきを抱えた驤之が頷いた。

「全く、最後まで肝が冷えっぱなしだった」

「そう言うな」

「なんで⁉」

 勢い込んで尋ねたのに頬を掻いた。

「実は、婚儀が控えていてな」

「こんぎ……?けっ、結婚するの?」

「驚いたことにな」

 瓊勾はまるで他人事に言った。「これからは領地での仕事が増える。だから万騎は引退だ。もう二泉に来ることもないだろう」

 それから少し寂しげに笑う。

「私は泉地が好きだから、もう来られないのは悲しいが。最後の任務でお前に会えて良かったよ、崙。いろいろ世話になったな」

 崙は呆然と頭を撫でられるままになっていた。

「もう、会えない……の?文は?文は書いてもいい?」

「残念だが族民ぞくみんでも間諜でもない者と親しくすることは禁じられている」

 そんな、と俯いた。では、瓊勾との繋がりは全く絶たれてしまうということだ。それはひどく崙の心をざわつかせた。

「嫌だな……」

 心に浮かんだ気持ちをそのまま言えば、ふわりと抱き締められた。

「私も寂しい。お前は聡くて素直で良い子だ。どうかこれからもそのままでいてくれ」

 じんわりと体が火照ほてってくる。

「ぼく、瓊勾のこと好きなのに、もう一生会えないの……?」

 瓊勾は涙を零した異国の少年にまなじりを下げた。

「私もお前が好きだ。でもな、私たちはお互いに、本来は関わり合うことのない者だったんだ」

 だから諦めろと、忘れろと瓊勾は言外にそう伝えてきた。崙はしばらく泣いていたが、あまり困らせて帰郷の準備を邪魔しては悪いとそのまま辞してから、自分の房室でずっと落ち込んでいた。



 ではな、と瓊勾は狻猊さんげいに跨って手を挙げた。最後にもう一度祇盾ぎじゅんに触らせてもらい、崙は関門からはみ出しそうになるきわまで万騎を見送った。異形の獣に乗った姿はまさしく異民族、彼女の言うように、本来なら自分にとっては一生関わりのない外の世界の人間たち。関門のすぐ外は濃い紫の濃霧で強兵たちの影はすぐに、まるで何者もいなかったかのように掻き消えた。


 きびすを返した崙は俯き加減で深沈しんちんの街をそぞろ歩く。坂道を登り、鹿射へと戻る乗り合い馬車を待ちながら、丘の上から壁の向こうに思いを馳せて視界いっぱいを眺め渡した。そうして、この冬に起きた様々な出来事を思い返した。


 切ない――馬車の中で蹲り、心に刃を突き立てられたかのような痛みにもだえた。寂しくて胸が張り裂けそうとはこのことだ。耐えられない。到底、こんな思いを抱えたままこれで今生の別れだなんて信じたくなかった。同時に、こんなに辛いのはきっと自分だけなんだと心の中で瓊勾をなじった。彼女は領地に帰ってから結婚する。自分を忘れて。

 瓊勾が今よりもっと幸せになるなら嬉しい。けれど、忘れ去られるのは耐え難い苦痛だった。連絡も取れないならそれすら確認することも出来ない。ただ遠い空の下で彼女が健在であることを祈ればいいのか。しかし、崙はそんな自己満足に浸って日々を過ごせるほどまだ大人おとなではなかった。それほど瓊勾ら牙族との出会いは彼にとって衝撃的で、憧憬どうけいおぼえるのに十分魅力的だった。




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