異世界ドイツ帝国 総集編 ~”もしも”ドイツ帝国が第一次世界大戦で勝利していたら?~

皆さんこんにちは、というかお久しぶりです。ヴィクトルです。

今回は総集編となっております。つまり最終回です。

前回かいつか忘れましたがなんか「人物の考察したい」と

堂々と宣言していたわけですがあれから時間が無くて誰一人

として考察することができなかったのでもうおしまいという事

にしたいと思います。皆様のおかげで一時歴史・時代・伝奇の

週間ランキングの7位まで上がることができました。

非常にありがとうございます。また諸事情により誠に勝手ながら

打ち切らさせてもらうこと、誠に申し訳なく思います。


それではまた次の機会がございましたらお会いしましょう!




みなさんはこんなことを考えたことはないですか?

「"もしも"第二次世界大戦で日本が勝っていたら...ナチスドイツが勝っていたら...」

まあこんなことを考えるのは一部の歴史好きだけでしょうが

そういう人たちでもあまり深く考えたことのない

「"もしも"ドイツ帝国が第一次世界大戦で勝っていたら...」

これを少し考えていきたいと思います


ドイツ帝国とは?

ドイツ帝国は1871年に成立し1918年に滅亡した帝国です

もともとドイツはドイツ帝国成立前は小さな王国が乱立する地域でした

そこで一番力を持っていたのがオーストリア帝国とプロイセン王国です

この2か国はドイツでの勢力圏を巡って2回ほど大きな戦争をしました

結果プロイセン王国が成立し1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」

でドイツ諸侯に推戴される形で当時のプロイセン王であるヴィルヘルム1世が

ドイツ帝国の初代皇帝となります。この「ドイツ統一」には外交面では

ビスマルクが、戦争面では近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる大モルトケ元帥が

協力しこの「ドイツ統一」を成し遂げました


第一次世界大戦とドイツ

ようやく本題に近づいてきましたね!といってもまだもうちょっとだけ

喋るので本題は次回になりそうです...


さて第一次世界大戦前のドイツ帝国はまさに「列強」そのものでした

建国からドイツ帝国崩壊までの47年の間にの間にドイツの産業、技術

、科学は世界でもトップクラスであり、当時世界で最も多くのノーベル賞を

獲得し世界第二位の経済力がありました。

さらには外交でも「ビスマルク外交」と呼ばれる巧みな外交術で戦争を回避

していました。しかしそんなドイツにも大変革の時期訪れます。

ヴィルヘルム1世の死です。


彼の跡を継いだのはフリードリヒ3世でしたが彼は3か月後には死去してし

まいます。このことから彼は「百日皇帝」とあだ名されています

フリードリヒ3世の跡を継ぐのは彼の息子であるヴィルヘルム2世です

29歳でドイツ皇帝、プロイセン王に即位すると最初にやったことは祖父の

時代から宰相を務めるビスマルクの解任でした。

最初こそ彼はビスマルクを尊敬していましたが時がたつにつれて次第に

意見が対立しビスマルクを解任し自らが政治を行うようになりました

要するに皇帝が独裁を始めました

しかし彼は失言が非常に多く

イギリスに味方するといった次に日にはロシアに味方する的なこと繰り返し

ていました。これだけでなくビスマルクの解任によって他国との外交がうま

くいかず、気が付けばドイツはほぼ全方位に敵を作っていました。


1914年6月28日にサラエボを訪れたオーストリア=ハンガリー二重帝国の

皇太子がセルビア人青年に暗殺されるとドイツは二重帝国を脅して

「セルビアに宣戦布告しない場合はドイツは二重帝国との同盟を切る」

的なこと言い。この当時頼れる頼れる列強がドイツぐらいしかなかった

二重帝国はこの要求を受諾してセルビアに宣戦布告します。

ですがこの当時のサラエボ事件はオーストリア人の間では反応が薄く、

ほぼ無関心に近い状態だったそうでウィーンの大衆はまるで何も起こら

なかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりしていましたが帝位継

承者の暗殺という事件は政治には大きな影響があり夫婦とは個人的には

親密ではなかった当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は衝撃を受けてうろ

たえたと言われています。


しかしここで疑問点があります

なぜドイツは二重帝国にセルビアに対して宣戦布告するよう求めたの

でしょうか?わざわざバルカン半島に介入してもドイツには何の利益もあ

りませんし何よりセルビアの後ろにはロシア帝国がおり、戦争となれば

ロシアからセルビアへの軍事援助が予想されます。理由はいくつかあり

まずは「ドイツ軍のロシア軍に対するする軍事的優位の消滅」ということと

「二重帝国を確実にドイツ側に繋ぎとめておかなければならない」という事です。

まずは「軍事的優位の消滅」という事ですがこれは軍部全体で「1916年か1917年

にはドイツ軍のロシア軍に対する軍事的優位が消滅する」という考えが広まり焦り

が軍部で広まった結果、皇帝であるヴィルヘルム2世はじめ政治指導者も焦り始め

たことです。参謀総長の小モルトケが「戦争は早ければ早いほどドイツに有利である」と述べている事からこの考えはかなり広まっていたことが伺えます

そして「二重帝国を確実にドイツ側に繋ぎとめておかなければならない」

という事ですがこれは二重帝国がドイツに残された最後の同盟国であり、同盟国の動揺はドイツに

とって死活問題であるためであり確実にドイツ側に繋ぎとめておかなければならなく

さらにはロシアが3B政策の妨害をしてこないよう抑えつけておきたかったというのもあります。


ちなみに3B政策と言うのはヴィルヘルム2世によって提唱されベルリン

(Berlin) ・ビザンティウム (Byzantium、イスタンブールの旧名) ・バグダッド

(Baghdad) を鉄道で結ぶという19世紀末からのドイツ帝国の長期戦略の事を指しますがもっともこれは後世になって一種の語呂合わせ的な言葉として生まれた言葉だそうです。


ドイツはこの政策が原因でイギリスとの関係を悪化させています。いったいどうやったらほぼ全方位に敵を作ることになるのでしょうか...


それはともかくドイツは開戦初期は快進撃を続けましたが「シュリーフェンプラン」に基づいてドイツ軍は西部戦線を主戦場としてベルギーを通過して北フランスに進撃を試みますがロシア軍に対処するため二個軍団を西部戦線から引き抜いて東部戦線へ送った結果「シュリーフェンプラン」が求める西部戦線の右翼の強化がうまくいかなくなり連合軍の反撃においてドイツ軍の侵攻は完全に停止します。これによりドイツに迅速な勝利を約束するはずだった「シュリーフェンプラン」は早々に挫折しヴィルヘルム2世は小モルトケを更迭し代わりの参謀総長を任命します。



さてここから歴史の分岐点を考えていきたいと思います

まず「シュリーフェンプラン」が成功するかどうかですが不可能に近いと思います

そもそもこの計画自体無理がありました。「周回運動の外周部にあたる第1軍の進軍はおよそ1日あたり40km程度必要であったのに対し歩兵の進撃速度は最大で25km程度」「予想外に早かった東部戦線でのロシア軍の攻勢」「量的優位性の消失」「ベルギー軍による予想外の抵抗」など上げ始めると切りがありません。つまりここでの勝利は不可能です。次のターニングポイントは「無限潜水艦作戦」です


無限潜水艦作戦

1914年の開戦当初、強力な水上艦戦力をもたないドイツ海軍は通商破壊を水上艦では行えず敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦がこの任に最適だと考え。Uボートが作られます。しかし開戦時期のUボートの評価はそれほど高いものではなく、あくまでも補助艦艇という位置づけでしたがそれを一変させる出来事が起きます。オットー・ヴェディゲン大尉が指揮するU9がイギリス海軍の装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈。さらにオットー・ヘルジンク大尉が指揮するU21がイギリス海軍の戦艦2隻を撃沈し各国海軍を驚愕させました。これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、1915年2月にイギリス周辺の海域を交戦海域に指定しイギリスに向かう商船に対して攻撃する無制限潜水艦作戦が始まりました。

しかしその3か月後に英国船籍の豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈し1,198人の犠牲者を出すとわずか半年で中止されましたが1917年1月には再び再開されています



ここでまた分岐点が出てきます

もしもこの時無限潜水艦作戦を再開していなかった

実際、当時の皇帝ヴィルヘルム2世と宰相は「アメリカの参戦でドイツにとって不利になる」としてこの作戦に消極的でしたが軍部首脳陣がアメリカを過小評価していたことによりそれらの慎重な意見を押し切って無制限潜水艦作戦を再び実行に移しましたがこれがあだとなってアメリカが連合国側で参戦する一因となります。もしも再開しなかったらアメリカは参戦せず。ドイツはアメリカからの増援を気にせずじっくりと英仏を相手することができたでしょう


西部戦線はパリの手前で攻勢が止まったドイツ軍ですが東部戦線(ロシアとの戦線)ではわり快調に進撃していました。


一方無限潜水艦作戦の停止が1916年1月になってまた再開しました。どうも軍は5ヶ月近くヴィルヘルム2世を説得し続けたみたいですなかなか気合が入ってますね...1915年に入ると西部戦線は地獄と化します。


なんと人類で初めて毒ガスが使われたのです。1915年4月22日の攻勢でドイツ軍が

毒ガスが使いました。この攻撃による死者は毒ガスだけで死者約1,200人、負傷者約3千人と言われています。この時の毒ガスを作ったのはフリッツ・ハーバーというドイツの化学者で彼は空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で有名です。のちにこのハーバー・ボッシュ法でノーベル化学賞を受賞します。



一方で東部戦線ですが

ここにも毒ガスが使われましたが、西部戦線よりもロシア軍の被害が大きかったようです原因としては、ロシアの工業化が大きく遅れていたことです。英仏はすぐにガスマスクを制作し、前線に配りましたが。工業力の低いロシアでは工業力の高い英仏のようなことはできず。ただただ蹂躙されていきました。国内で不満がたまった結果、十月革命が発生しロシアとは最終的には1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約を締結しました条約によってロシアは第一次世界大戦から正式に離脱しさらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハンカルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄し、トルコとの国境地域を除くそれらの地域の大部分は事実上ドイツ帝国に割譲されました。ドイツ軍の影響下に入った地域では、次々と独立国家が誕生しました。


ブレスト=リトフスク条約を締結したことでドイツは一つの戦線に兵力を集中できるようになりました。西部戦線のドイツ軍は147個師団から191個師団に増強、一方連合国軍は178個師団しか配備されていませんでした。1918年3月21日の早朝、ドイツの春季攻勢が開始されました。またの名を「皇帝の戦い」とも言います。ちなみにヴィルヘルム2世はこの3月24日を休日とすると宣言しています。ドイツ軍はこの攻勢に合わせて史上初の短機関銃として開発された「MP18」約10,000挺とドイツ軍初の戦車であるA7V 20輌、列車砲のパリ砲 などの新兵器を準備しました。さらに新戦術として浸透戦術が用意されました。これは「注意深く調整されているが短く強烈な砲撃により敵を混乱させ防御システムを無力化させそこに攻撃の先鋒を務める突撃大隊を投入する」という物ですがザックリ言ってしまうと戦車のない電撃戦です。


攻勢初期は快進撃を遂げたドイツ軍ですが戦線が膠着化しは再び消耗戦の様相を呈してきたところに総勢210万人のアメリカ軍の到着し、ドイツの勝機はここで一気に失われてしまいますA7V戦車も、撃破されたり、行動不能で放棄されてしまい、運用されたのは50日あまりだったそうです。連合国軍側が合計で6,000輌あまりの戦車を投入可能であったのに対してドイツ側は20輌のA7Vと併せて鹵獲戦車部隊100輌弱程度しか投入できずこれでは大きく戦局を転換させることはできませんでした。


しかし勝機がなかったわけではありません。

もしも無限潜水艦作戦を中止させてアメリカが参戦してこなかった場合。この戦力差は少しは縮まるはずです。さらに指揮系統がバラバラだったらこの作戦でドイツ軍は勝利を収めることができたかもしれません。


ただこれら問題を解決できても解決できない問題がこの作戦時にあります

主に

・進撃速度に補給線が追いつかなかった

・バラバラだった指揮系統の統一に英仏両軍が合意し戦線が再構築された

・作戦のかなめである突撃歩兵の補充が利かない事(訓練が厳しく限られた人数しか用意できないため)

・戦車の台数が圧倒的に少ない点

などがあげられます

3つ目の突撃歩兵の補充と指揮の統一以外はどうにかできそうな問題ですね

もしこれらの問題すべてが解決されてドイツ側にとって最高の状態だったら...

確実にフランスは降伏したでしょう。


しかしフランスが降伏しても問題は残るイギリスです

ドイツ帝国はここ数年。ヴィルヘルム2世の指示で海軍を強化してきました

それでも世界中に植民地を持ち「日の沈まない帝国」とまで言われたイギリスの

ロイヤルネイビーを撃破できるほどの戦力はありません

さらに両国とも長い戦争で疲弊しているでしょう。


そうなれば両国がとる行動は大体予想できます。

講和交渉です。

最初は数日間停戦する程度でしょうがそのうち講和会議がまとまり

ドイツ帝国は勝利するでしょう

英仏は植民地の一部を失い。不満がたまり共産主義革命が発生するでしょう

恐らくドイツ軍もこの反乱の鎮圧に協力するでしょうから今後は共産主義革命が

起こることはないでしょう


さてロシアですがこちらも英仏と同様に革命鎮圧にドイツ軍が全面協力するでしょうから革命は鎮圧されるでしょうが帝政は廃止されるでしょう。

しかし当面の間、英仏露3か国の政治は不安定化するでしょう

経済面でも不安定化し国民の生活レベルは低下するでしょう。とくにフランスでは

工業地帯が戦争に巻き込まれ廃墟と化すでしょうからロシアとフランスは国民の

生活レベルはかなり下がるでしょう。


この3か国の中で唯一、経済が回復に向かうのはイギリスでしょう

腐っても大国なので植民地やスエズ運河でもうけられます

さらに仏露は工業地帯がボロボロですがイギリスは海を挟んでいるので本土での戦いは上空のみで飛行船が襲来していただけなので大した被害はないので回復傾向になるでしょう


さらにおいしい思いをするのが日本とアメリカです

この2か国はドイツから遠いので大戦の戦火が及ばずヨーロッパから必要な物資の注文が相次ぎ好景気となることでしょう。


英仏露の3か国では恐らく軍事的にドイツへの復讐を目的とした過激的な組織

が誕生するでしょう。おおよそナチスみたいな組織です。史実の背後の一突き論のような根もはもないことがささやかれるでしょう。ですので第2次世界大戦は確実に起こるでしょうこの場合ドイツはまた2正面作戦を強いられることとなり前大戦より苦戦を強いられることになるでしょう。



さてドイツ帝国の同盟国

まとめて言えば「中央同盟国」ですが...

・ドイツ帝国

・オーストリア・ハンガリー二重帝国

・オスマン帝国

・ブルガリア王国

この4か国しか参加していません

しかもブルガリア王国以外は敗戦後数年のうちに政府が崩壊しています。


ところで本来ならこの4か国以外にもう1か国が同盟国に参加していません





どこか全く見当がつかない人もいるでしょうが答えはイタリア王国です

なぜ同盟国になるはずだったかは「独墺伊同盟」と言う同盟を結んでい

たからなんですが...これをイタリアは破棄して連合国側につきます。

この行動は「未回収のイタリア」と呼ばれる地域の奪還が目的でした

これら地域は二重帝国が持っており、この同盟締結前もこの地域の事で

二重帝国とたびたびもめていました。

このことが原因で連合国側に寝返りました。しかし大戦後の講和会議で

密約で保証されていたイタリアの植民地拡大はほとんど認められずさらに

フィウーメ(現在のスロヴェニアのリエカ)の併合問題も保留とされたた

め、イタリアは「講和での敗戦国」と呼ばれることになってしまいました

イタリア国民の多くは講和内容に不満をもち、「損なわれた勝利」という

感情がひろまり、のちにファシズムが誕生するっきっけにもなります



それではオーストリア・ハンガリー二重帝国のその後を考察していきましょう

まず二重帝国ですがかなりの多民族国家です

公用語は主にドイツ語、ハンガリー語ですが話されていた言語としては他に、

チェコ語、ポーランド語、ルテニア語、ルーマニア語、スロヴェニア語、

ボスニア語、クロアチア語、セルビア語、イタリア語など数多くの言語が

使われていたことがうかがえます。


さらにかなりの不幸体質とも言えます

戦争に負けるわ大国との関係は悪化するわ皇帝一族の不幸が続くわで

さんざんです。さらに自治獲得の動き激しくなりました

しかしこの時点ではどの民族も帝国からの「独立」は望んでいませんでした

理由としてはドイツ帝国やロシア帝国、イタリア王国などの列強に挟まれた

土地であるバルカン半島で独立すれば生き残ることはできません

あくまで帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦

国家を望んでいました。



ところがシベリアでチェコスロヴァキア軍団(チェコ軍団)の活躍が活躍し

ているのが連合国の耳に入るとチェコ人指導者であるトマーシュ・マサリクは

、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけて連合国は彼の

「チェコスロヴァキア国民会議」を臨時政府として承認しました。

これが発端となって帝国内の諸民族は次々と独立を宣言し、その流れで

650年間続いた二重帝国はあっさりと崩壊し第2世界大戦ではかつての帝国諸民族

の血みどろの抗争が繰り広げられソビエト連邦の衛星国として東西冷戦の最前線

となりました。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・

東欧で、無理やり「民族自決」が適用しようとした結果さらなる混乱が生まれ

てしまいました。



さてドイツ帝国が第1次世界大戦で勝利していたこの世界ではどうでしょう

恐らく帝国は崩壊しなかったでしょうがやはり自治政府は作られたでしょうが

二重帝国自体は安定したでしょう。


かのナポレオンはウィーン占領後にフランス外相にこういう手紙を送られています


「ハプスブルク帝国を崩壊させるのはご自由ですが、これは多民族を統治する

モデル国家であり、一度こわしたら二度ともとに戻ることはないでしょう。

後には混乱が残るだけです。そのことをお忘れなく」と



またドイツの歴史学者ゴーロ・マンと言う人物はこう語っています


「オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊しなかったらよかったのにと心から思う。

あれは多民族国家がうまく機能する最上の解決策だった」と


二重帝国は世界で最も他民族をまとめることに成功した国家と言えます

あの昔から東ローマ帝国、大ハンガリー、モンゴル帝国、オスマン帝国でさえ統治

に苦戦した地域における秩序確立を緩やかな統合によって成し遂げたという事だけ

でも帝国の存在意義は十分にあると言えます


それでは次はオスマン帝国を考察していきましょう


このころのオスマン帝国は「やばい」の一言です

まず小国相手に戦争で敗北しています

さらに国内の政治もやばかったので「ヨーロッパの瀕死の病人」

と呼ばれる惨状でした。


しかし西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制

による政治の停滞に危機感を強めて青年トルコ人運動に参加し

憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開します

その後の1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を

中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功

させ憲政を復活させました(青年トルコ革命)


さらにバルカン戦争中の1913年になると、ついに統一派は

クーデターを起こして大宰相を暗殺し中核指導者である

タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする政権

を確立しましたがバルカン戦争事態には敗北しています


この戦争の敗北でヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、

統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していく

ことになります。サロニカを含むマケドニアとアルバニアが、

1911年には伊土戦争によりリビアが帝国から失われ、バルカン

を喪失した統一派政権はスラヴ民族の連帯と統一を目指す思想

運動の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し

1914年に第一次世界大戦には同盟国側で参戦することとなりました


しかしガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛戦では勝利

を収めたものの劣勢は覆すこと自体はできずに休戦し講和会議が

開始され、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって

占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、

ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接

する地域はギリシャ統治下となりオスマン帝国領は事実上、

アナトリアの中央部分のみとなりました


敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に

皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による

帝国各地の占拠を許容しますがこの帝国分割の危機に対し、

アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いて

いた大戦中の英雄ムスタファ・ケマルパシャを指導者としてして

保全を求める運動が起こりました。


ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に

勝利し翌年にはイズミルを奪還しギリシャとの間に休戦協定を締結し

これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約

(ローザンヌ条約)の交渉を通告し講和会議が再び開かれます

ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目としてパーディシャー

(スルタン)とカリフの分離とともに、帝政の廃止を大国民議会に決議

させオスマン帝国政府は名実共に滅亡しました


さてドイツ帝国が第1次世界大戦で勝利していたこの世界ではどうでしょう

当然ながら各所に問題は多く残りますが一応は存続しそうです

ただ瀕死のままなのでいつかは崩壊すると思います

得られる領土はあってもそれでまた問題になるので死に一歩近づくこと

になりそうです...


それではお次はブルガリア王国を考察していきましょう


ブルガリア王国の前身であるブルガリア公国は列強の思惑で領土を

削られ、自治権は得たものの国内には不満が残りました

そんな中1908年に宗主国オスマン帝国で青年トルコ人革命が勃発する

とオーストリア=ハンガリー二重帝国の助力を得てブルガリアは独立

1909年4月19日にオスマン帝国はロシア帝国との戦争の賠償を肩代わり

するという条件でブルガリア政府と議定書を交わしブルガリアは名実

共に独立国となりました。


その後、ロシア帝国を後ろ盾としたバルカン諸国とオスマン帝国との

対立が激化。ブルガリア王国はセルビア王国、ギリシャ王国、

モンテネグロ王国とバルカン同盟を締結します

そしてモンテネグロ王国が1912年10月8日にオスマン帝国に対し宣戦布告

を行い第1次バルカン戦争が勃発するとブルガリアはこれに参戦して勝利

し領土を拡大しますがマケドニアの領有をめぐって同盟を結んでいた

セルビア王国、ギリシャ王国と対立してしまいます。


結果、こうした戦後処理の不満が原因となり1913年に2次バルカン戦争が

勃発、同盟は破綻しバルカン半島で再び戦争発生します。さらにこの戦争

でブルガリアは敗北し、マケドニア、ドブロジャ地方、東トラキアを失う

ことになります


1915年10月に第二次バルカン戦争でセルビア王国に奪われた失地の回復を

目標にに中央同盟国のドイツ、オーストリアとともに連合国のセルビア

王国へ攻撃しましたが敗戦を喫することになります

ヌイイ条約でエーゲ海沿岸を同じく連合国の一員だったギリシャに割譲し

敗戦後はブルガリアの政局が混迷したためボリス3世による親政が行われました



さてドイツ帝国が第1次世界大戦で勝利していたこの世界ではどうでしょう?

ブルガリア王国は中央同盟国にブルガリアにマケドニア、ドブロジャ、

東トラキアの獲得を約束していました。ただオスマン帝国との関係は悪化した

でしょう。



余談ですが...

ボリス3世の息子であるシメオン2世は

ブルガリア共和国の首相にでもありブルガリア王国最後の皇帝でもあります


ご愛読いただきありがとうございました。次回作にこうご期待!(打ち切り漫画風)

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