私の恋人は〇〇なサンタクロース
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第1話
今朝、空っ風にカタカタ震える窓枠を
十二月二十五日。
この日は俗に
しばし多くの日本人がイエス・キリストの「誕生日」だと思い違いをしているこの日だが、正確には「誕生日」ではなく「降誕」を祝う日だったりする。突き詰めると、実は「太陽の誕生日」を祝う行事がクリスマスの起源だと言われているが……今はさしたる問題ではないと思うから割愛。
まあ要するに、今日と云う一日を掻い摘んで端的に言うと、世界的におめでたい日という認識で間違ってはいないはずだ。
だけど、そんな良き日の私、
「いらっしゃいませ」
今晩もまた、アルバイト先のレストランの入り口から一組のカップルが微笑ましい笑みを浮かべて来店してきた。
「二名様でしょうか?」
努めて明るい営業スマイルを顔に貼り付け、私は
「はい、そうです。確か、二十一時に予約していた佐々木なんですけど」
私の問いに答えてくれたのは、爽やかな笑みを口元に浮かべた二十五歳くらいの男性だ。身長は175センチくらいの堅実そうで優しげな雰囲気。
それから私は怪しまれない程度に視線をちらっと左斜め下に向けた。すると、そこには当然のように連れの女性が立っている。
淡い桃色のコートを纏い、派手すぎず地味すぎない無難な出立ちは、ナチュラルで落ち着いたメイクに合っている。けれど、男性の腕に大きな胸を押し付け腕を組む仕草は全然大人しくなかった。……あれだよ? 別に羨ましいとも思ってないからね。ホントだから。
まあ、私が言いたいのは、二人はどこからどう見ても、誰のフィルターを通して覗いても、どの角度から眺めても、カップル以外の何者でもないということ。腕を組み寄り添う姿も画になる通り、とてもお似合いだと思うし、レストランで働く者としては来店してくれたことに有り難く思う。
けれど、個人としては、その微笑ましい姿に心が少しざわついてしまう。でも、これは仕方がないこと。もはや私を表す一種の属性みたいなものだから。
「佐々木様ですね……はい、確かにご予約を承っております。どうぞこちらへ」
だからと言って、いかせんアルバイトに身を置く私にはそんな感情は必要とされていない。いつも通り淡々と、されど淡白にならずに愛想よく振舞うだけ。ここではひとつの身勝手が店全体に影響してしまう。それは許されない。このレストランで働く従業員は私だけではないのだから。
男性客の名前を認識して、予約リストに目を通した私は、確認もそこそこに二人の予約席である窓際に案内をした。
二人が席についたことを確認してから、マニュアル通りの接客を行なっていく。所作は丁寧に、言葉ははっきりゆっくりと。常に淡い微笑を意識しながら、最後に本日のおすすめメニューの説明行い、私は
「では、ご注文がお決まりになりましたら、またお呼びください」
「はい、ありがとうございます」
最後にもう一度深く頭を下げてから、楽しげに笑い合う二人の席から私は背を向けた。
「あっ、橋本さん」
先ほど来店されたカップルからのオーダーを厨房に伝えたあと、私は店長に声を掛けられた。
「はい、何ですか?」
トレンチを片手に、再びホールの仕事に戻ろうとした私は歩みを止めてその旨を問う。すると、店長は右腕に着けていた腕時計をちらと見やったあとで、軽く店内を見渡す仕草を取った。
「うん、客足もある程度落ち着いてきてるし、橋本さんは先に休憩を」
「わかりました」
その言葉に、私は何の躊躇いもなく同意する。
今日という日は、年一度のクリスマスということもあり、平素と比べて何倍も客足が多かった。大学の講義が三時に終わったあと、すぐシフトに入った私もほぼ休憩なしで馬車馬のように働いていた。だから、このタイミングでの休憩は正直ありがたいかった。その言葉だけで、全身から強張った力が抜けていくような気がする。
そうやって少し気が抜けた私に、頭髪料で固めた髪をさすりながら、店長は申し訳なそうに苦笑した。
「悪いね、橋本さん。クリスマスの今日は橋本さんにも予定があっただろうに、ずっと働きっぱなしにさせちゃって」
「私は大丈夫ですよ。今日は特に予定という予定もありませんでしたから」
同じく苦笑を浮かべて放った私の言葉には、少し自嘲の色が混じっていた。でも、それは虚言でも強がりからくる見栄でもなくて。現にこうして勤労に精を出している私自身が何よりの証拠なのだから。
店長もその辺の内情は察するだけの観察眼を持っているようで、さっと気づかないふりをしてくれた。
「そうかい? そう言ってもらえれば私の心も幾分か楽になるよ。こっちの方も期待しててもらっても構わないからね」
かわりに店長は少し悪戯っぽく笑う。優れた観察眼だけではなく、どうやら私の店長は
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、三十分後にまたよろしくね」
「はい」
去り際にもう一度頭を下げてから、私は厨房の奥にあるスタッフルームに引っ込んだ。
「あっ、もう交代の時間かぁ〜」
女性従業員専用のスタッフルームの扉を開けると、惜しむような声が私を出迎えてくれた。
部屋の中央に設置された長方形型の机の上で両手を前に出し、突っ伏すその人は、私と同じくホール担当スタッフだ。
彼女は、私よりも三十分前に休憩に入っていた従業員で、今回はこの人と立ち代わりで休憩に入ることになっている。
年齢は私よりも十個上で、二児の母でもある彼女は明るく気さくな性格をしている。同じ従業員たちからも慕われており、当然のように私もそのひとりに名を連ねている。当時この店で働くことになった私の教育を受け持ってくれた人でもあるから、慕わない道理もなかったのだ。
「お疲れですね」
「まあねぇ。橋本ちゃんは……まだ馬力はありそうだ」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。実はもうふくらはぎとかぱんぱんなんです」
「あはは、確かに。でも、おばさんはもう体全体に疲労が溜まってる感じだよぉ」
彼女はふはあ〜と大きく息を
「あっ、でも客足はだいぶ落ち着いてきてましたから、これからはそれほど忙しくはならないと思いますよ」
「ほんと?」
私の推測に、彼女の声のトーンがわずかに上がった気がした。臆面もなく気色を表す彼女の気持ちは非常に共感に値する。それくらい、今日は本当に忙しかったのだ。
「はい、私はそう感じました」
「そっか〜、うん、それはいい兆候だね」
私の言葉に勇気づけられるように、彼女はのっそり体を起すと、んっと伸びをして重い腰を上げた。
「まあ、私たちには有難いことですけど、経営者側はなんだかなーって感じですよね」
「ナッハハ、それは言えてるね」
彼女は少し
パタンと扉が閉まる。
ひとりになった私は、個人ロッカーから自分のバックを取り出し、先ほど彼女が座っていて引きっぱなしなっていた椅子に腰を下ろした。
使い慣れた鞄からスマホを取り出すと、LINEの通知が届いていることに気づく。
「真波?」
送信者は、同じ大学に通う友達だった。何の用だろうと画面に指を這わせ、アプリを立ち上げる。時間も時間だし、状況も状況なので念のためにプレビュー画面で覗いてみる。そのあとで、自分の判断は間違っていなかったと思った。
——美咲、お願い、実は相談に乗って欲しいことがあるんだけど。このメッセ見たらできれば早急に返信ちょうだい!
送られてきた文章を脳内で反芻する。気になったワードは、やはり「相談」の二文字と、そのあとに続く早急に連絡を求める催促文。
何やら友人が困っている、それはわかる。緊急を強いられているのも理解した。
「でもなあ……」
私の本文はあくまでも学生だ。しかし、今はこのレストランで働くバイト生。したがって、今の私の身分の重要度の傾きは、学生の私ではなくバイト生の私に向いている。
つまり、最優先すべきは店の業務ということ。だから、いくら休憩中とはいえ、非常時の際には再びホールに繰り出さなければならない立場にある。
要するに、私は遅れているのだ。
彼女からのSOSに応じている最中に、不足の事態が発生した場合、私が優先すべきは業務一択となる。そうなれば、彼女の対応は中途半端になり、それが原因で関係の軋轢に発展しかねないとは言えない。そうなるのなら、初めから返信をしないほうが得策に思えた。
「……」
気づかなかったのなら仕方がない。今日の午前中の講義も、彼女とは一緒だったし。その際にあっちはあっちで私がこの時間帯にアルバイトに身を置いていることはわかってることだろうし……。
「しょうがないよね……」
一応、私は結論には至った。あとはスマホを鞄の中に戻し、見なかったことにすれば万事解決だ。私は悪くない。悪いのはタイミングだ。仮にアルバイトの最中でなかったら、力になれるなれないせよ、一早く彼女の相談に乗っていたことだろうと思う。
「……」
さあ、目を瞑り、スマホの電源を切ろう。すべては見なかったことにして、タイミングの悪さが招いた不幸なすれ違いにしてしまえ。きっと誠心誠意謝れば、彼女だって許してくれるはずだ。
「……はぁ〜」
そう思えたら、私は私の人生こんなにも悩ましい展開になっていないのに……。
私は、手の中から一向に離れてくれないスマホを恨みがましく見つめ、やけに重苦しいため息を吐いた。
そんな私だからこそ、つくづく思うことがある。
それは、我ながら本当に決断力に欠けるというか、周りに流されがちになってしまう傾向があることだ。
昔からそうだった。
周囲の目ばかりを気にして、自分の意見はろくに言えずに気遣って、繕って偽って、体裁ばからを気にして生きてきた。それを周りの人は優しさだとか心が広いとか視野が広いだとか肯定的に捉えてきたけれど、私にはそうポジティブに考えることはできなくて。結局は自分可愛さに、傷つくことを、あるいは傷つけることを恐れて保身的になっているだけなんじゃないかと思ってしまう。
今回の一件なんてまさにそうだ。
このメッセージを無視したら、今後彼女からの印象が悪くなり、嫌われてしまうかもしれないとか、そんな
「だから、恋人の一人もできないんだろうな……」
自分の呟きに自分で納得しながら、結局私は、彼女からのメッセージに返信することを決めたのだった。
——どうしたの?
返信した文章は、たったそれだけの簡素なもの。いつもならもっと親身になって応答するところだが、今は到底そういう気分になれなかった。笑いどころは、これが自分自身へのせめてもの抵抗のつもりだというとこ。ホント、こういうところに自分の小ささを思い知らされる。
送ったばかりのメッセージにはすぐに「既読」の二文字がついた。それから十秒も経たないうちに再びスマホが鳴いた。
——今からそっち行ってもいい?
「……今から?」
唐突の返信内容に驚きつつも、私の指は脊髄反射のようにスマホの上を踊っていく。
——家の方に来るってこと?
そうだと思いながら、返信を待つ。
——ううん、美咲のバイト先のレストランの方
だから、思いがけないメッセージに戸惑いを隠せなかった。
——でも、その頃には閉店間近じゃない?
確か真波の実家は、このレストランがある最寄り駅から七つほど離れていた街にあったはずだ。逆算してみると、彼女が到着する頃には閉店間近なってしまう。いや、例えそうじゃなくても、夜分遅くに女性ひとりが野外を出歩くこと自体危険極まりない行為だと言える。警戒はやりすぎくらいが
だけど、そんな私の警告に真波は食い下がってきた。
——そこをなんとかできない?
「何とかって、言われてもなぁ……」
どう考えても、さすがにそれは厳しいお願いだと思う。私の立場はあくまでも一バイト生。店を借りるにも店長の許可は絶対必要になってくる。それに、一朝一夕のことでは店を借りること自体不可能に近いだろし、相応の理由も必要とされるのは言うまでもない。
けれど、そんな数々の憂いを覚えるより先に、こと、彼女に関して、私にはひとつ解せないものがあって。それを、次の返信が来る前に、私はちゃっちゃか聞いてしまうことにした。
——真波、彼は?
彼とは、真波の彼氏である
彼は、私や真波とは異なり、今は社会人として活躍しているらしい。真波とは高校時代から付き合っており、今日の真波の話ではデートをする予定だったはずだ。いや、そう聞いていたのに……。
そして、彼女から再び通知が届く。
——そう、まさにそのことについて相談しようと思って
送られてきたメッセージを見て、私は思わず顔を
嫌な予感がした。猛烈に。まさか、痴情のもつれではあるまいな? 嫌だよ、そんなの。めんどくさいし。だいたい、彼氏のいない女に対して、よりにもよってそんな話を持ちかけられても反応に困るというか、嫌味にしか聞こえないというか、どういう神経してんだって思う。いくら世間では温厚で有名な私でも怒るときは怒るからね、その辺あしからず。
まあ、だけど、そうは思っていても、それを言葉にするどころか文字にすることすら私には叶わないのだけれど……。
——何かあったの?
逆に、これで何もない方が怖い。いや、一周回ってそれはそれで面白いのかもしれないし、願わくはそうであってほしいと心から思う。今なら「あ、ごっめ〜ん☆ちょっとした悪戯心というか、クリスマスにバイトしているかわいそうな子が寂しくて泣いてると思ったから構ってあげちゃおうかなって思ったの♡」と言われても平気なフリしておいてあげるから。
ぽろんと再びスマホが鳴いた。
真波からの返信だ。
——うん、ちょっと喧嘩しちゃって
……ですよねぇ〜。最初からわかってましたよ、はい。ハナから期待なんてしてませんでしたから。
画面上で私の人差し指がタップダンスを踊る。
——デート中に?
だったら修羅場だな、うん。クリスマスに修羅場……私だったら軽く死ねるね。
——ううん、今日、デート自体できなかった
「……どゆこと」
物静かなスタッフルームに私の疑問に満ちた声が溶けて消えていった。
デートの約束をしていたはずなのに、そのデートすら出来なかったとはどういうことなのか。自分なりに考えてみると、何となく答えがわかった気がした。
——もしかして、キャンセルされちゃった?
——うん、彼、急に仕事が入っちゃったらしくて
「仕事かあ……それはなんというか……ご愁傷様ですっ」
私はスマホに向かって手を合わせる。お気の毒様すぎる……。しかし、これでやっと事件?の全容が明らかになってきた。心なしかテンションも上がってくる。
——つまり、そこから意見の食い違いで喧嘩しちゃったってこと?
——うん、気づいたときには喧嘩になってて
「二重人格なのかな、この子」
まあ、そんな冗談はさておき、ちょっとしたすれ違いから、いささかヒートアップしすぎてしまったのだろう。
まあ、要するにまとめるとこうだ。
真波は私に慰めてほしいのだ。
これあくまでも持論だが、女とはひどく面倒な生き物で、痴情のもつれで負った傷は女同士でしか癒せない。傷の舐め合いとか、いたわり合いともいうが、そもそも私には舐め合う傷がないし、いたわられる
でも、そんなハイパーな私でも、心がざわついてしまうのは避けられなかった。
「ん〜、私は
大学に進級してから私は一人暮らしを始めている。実は寂しがり屋さんでもある私は、当初は実家から通うことに固執していたのだが、大学まで片道三時間以上という厳しいという現実に迫られてしまい、あえなく一人暮らしを強要された悲しい経緯を持つ。ここだけ抜粋して聞くと、私の前世はウサギで間違いない。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、私には彼女の意思がわからないのだ。
恋愛事情とは、一応にして声を大にしてできる話じゃないと私は思う。それが別れ話に近づくにつれて顕著になっていくのが世間一般的な傾向だし、ともすればわざわざ店にまで出向く必要性はないのではないだろうか。や、もっと言わせてもらえればLINE電話でも十分話は聞けるわけだし……。
そう思ってしまう私には、彼女の意見がさっぱりわからなかったのだ。これが世間一般的な女の子としての意見であるかどうかまではわからないけれど……。
そんなことを考えていると、新たなメッセージが送られてきた。
——どう? やっぱりダメかな……?
文面からでも不安げな気持ちが伝わってくる。実際、彼女が抱く恐怖心や苛立ち、焦燥感には理解できるものがある。しかし、理解できるからこそもっと落ち着いた場所でって気持ちが大事だと思う。
——うーん、やっぱり厳しいかも
彼女に悪いが、私用のためにこのレストランを使用するのも、居座り続けるわけにもいかないだろう。それに、こういったときにこそ往々にして問題は起こりやすいのが世の常。一バイト生にそこまでの責任は果たせないし、世知辛い話、そもそも負えるお金も地位も人脈もない。
そうやって、断る結論に至ったとき、ふいに背後の扉がコンコンと二回叩かれた。
一瞬、休憩時間が終わったのだろうかと思ったが、スマホの時計を見れば、約束の三十分まで残り十五分ほどの猶予があった。中に入ってくる気配もしない。
(誰だろ?)
訝しながらも、緊急の用事かもわからない以上出ないわけにもいかない私は、とことこと扉に近づき取手に手を掛けた。
「ごめん、橋本、今大丈夫か?」
「あっ、戸部川さん」
開けた扉の一メートルほど先で立っていたのは、白いコックコートを纏った男性だった。
名前は、
しかし、そんな彼がいったい私に何の用だろうか。
「これ」
「あっ、これって……」
戸部川さんが差し出してきたのは綺麗に盛り付けされたカルボナーラだった。作り立てなのか、私の顔をクリーミーな香りと湯気が包み込んでくる。視界に捉えた瞬間、思わず唇同士を合わせてしまう。せめてもの嗜みに、お腹が鳴るのは意地でも回避した。
それでも、少し太めのスパゲッティーに均等に切られたベーコンが合わさり、黒胡椒とイタリアンパセリで彩られたそれらの魅力には抗えざる得ないものを感じてしまう。
そうやって、人知れず食欲と奮闘する私に、戸部川さんはすっと目を逸らして口を開いた。
「今日、まだ飯食ってないだろ?」
「は、はい」
唐突の質問に思わずどもる。ま、まさかよだれとか出てないよね……。
「っうことは、腹、減ってるよな?」
今度は、どこか確かめるように視線を這わせ、戸部川さんがちらっとこちらを見てくる。どうも照れくさいのだろうか。だが、安心してほしい。戸部川さんがいくら照れくさかろうと、だいたいの見当はついている。このやりとり、今回が初めてってわけじゃないし。
しかし私も乙女の端くれである。多少の嗜みくらいは心得ているつもりだ。大事なのはがっつかないこと。乙女たるもの、いくらお腹が空いていようが謙虚さと慎みは常に心得ておくべきものなのだ!
「そうですね、まあ……すごく空いているってわけでもないですけど、余っているのなら……」
「そうか、別に必要ないか……すまんな、いらん配慮させてしまったようだ」
「すみまんせん嘘ですめっちゃ空いてます! もうお腹空きすぎてどうにかなりそうでした! まじ、あざすっ!」
秒速だった。これでもかというくらいの秒速手のひら返しをお見舞いしてしまった。
……だって仕方がないじゃん。いつも凛として物落ちしないような人が、私の言葉ひとつでしゅんと落ち込んじゃったんだよ? そりゃあ常識的に考えて全力で手のひら返すしかないじゃんかよぉ。
……ほんと、何やってんだろう私……。
「お、おう。それは何より……」
手に持っていたスマホを一瞬でズボンのポケットの中に仕舞い込み、びしっと両手を差し出し、頭を垂れる私の熱すぎる姿勢に戸部川さんは若干引いていた。
しかし、ここでひとつだけ解釈の相違を解いておきたいと思う。
私が知ってほしいのはひとつ。
それは、戸部川さんの料理が美味しすぎることが全ての原因……に繋がっていると言っても過言ではないという点だ。
ほとんどの人間は、何かに熱中するとその他に掛ける判断能力が著しく欠けてしまう生き物だ。したがって、戸部川さんの料理に夢中にされた私のレディーとしての心得はあってないようものだと思う。ついでに、この三ヶ月間で二キロも体重が増えてしまったのも戸部川さんが手掛ける料理が美味しいのが悪い。
うん、我ながら最低最悪な自己弁護だね!
しかし、ここは一度びしっと気持ちを伝えたほうが得策かもしれない。要は相手の解釈次第。戸部川さんだったらポジティブに捉えてくれるだろう……たぶん、恐らくは、きっと。
「……」
「何だ、その目は」
私の理不尽な恨みを込めたジト目に戸部川さんは、意外にもすぐに気がついた。
だが、いかせん人の心情を読み取ることをあまり得意としない彼は、私の内情に渦巻く憎悪(理不尽)に気づかない。
「いえ、特に」
だからと言って、私も馬鹿正直に話すわけがない。考えてみて? 度々賄いを食べさせてもらっている身分の者が、あなたのせいでたくさんのものを失った気がしますなんて言えるわけがないし、体重の増減うんぬんとかもってのほかだろう。それこそろくでなしだ。
だから私は、今日も繰り返すのだ。
呪文のように。さぁみんなも一緒に!
悪いのは私……悪いのは私……悪いのは私……悪いのは私……。
「で、では聞くが、なぜ毎回の如く親の仇を前にした敵キャラ……のような目で俺を見るんだ?」
「大丈夫です。他意はありませんから」
自分で言っていて笑っちゃうね、 逆に他意しかないんだもん。
「そ、そうか? なら、別に、いいのか?」
表情と言葉が合致してないちぐはぐな私の反応に、疑問をいっぱい表情に浮かべながら無理やり納得してくれようとする戸部川さん。まじ、いい人過ぎる……。
だから、不意に思ってしまうことがある。
こんな人が恋人になってくれたらどんな幸せなのだろうか——と。
…………。
………。
……。
…。
うわっ、自分で言っといてめっちゃはずいこと想像してんな私! 何考えちゃってんの! 馬鹿じゃないの? んなことあるわけないじゃん‼
急激に冷静になってしまうと、どれだけイタイ思考をしてしまっていたのか遅れながらに気がついた。
……顔とか気持ち悪いことになってないよね? ねっ!?
ま、まあ、考えるだけなら思想の自由として赦さているのがこのご時世だ。ささやかな願望くらいは勘弁してほしい。ほら、私の前世ウサギだし……。
そんな悶絶羞恥自問自答に苛まれていると、私のズボンの中のスマホが新たなメッセージの通知の到来を告げた。
静寂が訪れた室内には、甲高い電子音がよく響いた。
「……」
「……」
ふむふむふむ、してこれは一体どういう状態なのだろう。
戸部川さん、あなたはなぜこの部屋から出ていかないんでしょうか?
ふと、目も前でそっぽを向いているコックコートのお兄さんの心境が気になった。いや、本当にどういう状況なんですか、これ?
アルカイックスマイル浮かべる私の内心は疑問で荒れに荒れていた。
よくわからない時間が流れている。そんな時間の中でも、せっかく作ってもらったカルボナーラは無情に冷めてしまうし、休憩時間もいたずらに浪費されていく。
だから、意を決し、私は問うことに決めた……その直前、先に質問されたのは私の方だった。
「メッセージ、確認しなくてもいいのか?」
「えっ……、あ、あ〜、そうですね、そうでしたそうでした」
画面に明かりを灯すと、送られてきたばかりのメッセージが自然と目に留まった。
——お願い、美咲、後生の頼みだから!
「後生って……」
あまりに威勢の良い食い下がりっぷりに、さしもの私も鬼気迫るものを感じた。恋って怖いなー。
「ん?」
思わず飛び出した呟きに、戸部川さんが耳ざとく反応してきた。
「あっ、いや、別に。なんでもありません」
女性に無関心そうな戸部川さんを、我々のしがらみに巻き込まないためにもここはスマートにごまかす。まあ、こんな気遣いなど、他人に無頓着そうな彼には無用の長物だろうけれど。
「どうした、なにか困りごとか?」
「え?」
だから、唐突な気遣いの言葉に対して、私はロクな反応を返すことができなかった。
今の私はさぞ間抜けな顔をしていることだろう。口なんてぽけっと開きっぱなしになっちゃってるし。だが、裏を返せばそれくらい自分でも驚愕しているということ。この衝撃は、あのとき以来かもしれない。
あの日は、私が今のレストランで働き始めて一ヶ月経過していたときのこと。
ロビーの仕事も徐々に板につきはじめ、心に余裕ができはじめていた私は、その日、不覚にも弁当箱を忘れてしまったのだ。
丁度そのことに気がついたのが、その日の午前中に大学の講義を終え、バイト先のロッカーで制服に着替えていたとき。
実はその日、私は非常に運が悪かったのだ。
朝から寝坊するわ、突然のスコールに見舞われるわ、電車を乗り間違えるわ、そして、財布も忘れてしまうわと、厄日に厄日を重ね掛けしてしまったような、それはもう笑っちゃうほど見事な不幸っぷりだった。その日の口癖が、「神様ぜってぇ私のこと嫌いだろ!」だったのを覚えてる。我ながら完全なる八つ当たりである。そりゃあ恋人のひとりもできんわな……。
当然、財布のない私はおにぎりのひとつも買えやしない、キャッシュカードもないのでお金も下ろせない。まさに無一文が服を着て歩いているような存在があのときの私だった。
そして、不幸は不運を呼ぶもので、朝から体力を激しく消費してしまった私の体は当然のようにエネルギー、もといカロリーを求めてきた。いや、嘘はやめておこう。私の体は常にカロリー過不足である。しかし、あのときはいつになく空腹だったのだ。
私が叩いたレストランのロビー担当は、お客様に対応することがメインだった。困ったことにレストランでお腹の音は聞かせれられない。その事実に気づいた私は二重の意味で困っていた……まさにそんなとき、私の前に彼が現れたのだ。
ノックを二回。
精も魂も尽き果て朽ちる運命を待つだけだった私は、最後の力を振り絞り扉を開いた。そして、一メートル離れた位置に彼は立っていた。
その手には、黄金色に輝くカルボナーラを携えて。
そして一言。
「これ、食う?」
「食います‼︎」
気づいたときには、食い気味に私はそう言っていた。あのときのカルボナーラほど、美味しかった食べ物は、ショートケーキ以外思いつかない。
そして、あの日からだったと思う。
彼が、あの戸部川さんが、誰にでも無頓着で淡白な戸部川哲さんが、休憩中の私の元に度々賄い料理を持ってくれるようになったのは。
「……橋本?」
「は、はい! 何か!」
今思い返してみても、やはりあれは小っ恥ずかしい思い出だ。出来ることならカルボナーラに絡めて食べてしまいたいくらい。
今顔が熱いのも、心臓がバクバクしているのも、返事が上ずってしまったのも、全部、あの日の自分の慎みのなさを恥じてのこと。これまで生きてきた二十二年間、ずっと誰かのいい人止まりだった私は今さら勘違いなどしない。私のことを一番私が知っている私がそう決めたのだから間違いないはずだ。
「それで? さっきのメッセージの件はもういいのか?」
「あっ、そうでした」
戸部川さんに促されるまま、私は思考を瞬時に切り替える。意識は再びスマホへ。画面は真波からもらった先ほどの様子から変化はなかった。ただ、真波のメッセージを私が既読スルーしている状態は非常に危うい。あの子、焦らしプレー好きだったけ?
「何か悩んでるように見えたが、やはり困りごとか?」
「困りごと……まあ、端的に言えばそんな感じですね」
戸部川さんの問いに、私は具体的なことは口にせず雰囲気だけ伝える。事はプライバシーが絡んでくる。憲法十三条のお世話にはなりたくはない。
「どんなだ?」
しかし、あろうことか戸部川さんは食いついてきてしまった。それはもう入れ食い状態と言っても過言ではない。いや、入れ食い状態って何よ。まあ、そのくらいスピード感溢れる食いつき様だったということで。
そして何よりも、日頃から他人に無頓着なだけに、こんなにも他人に興味を抱く姿は難しかった。
そこまで考えて、私のセンサーが何やら桃色の予感を察知した。
これをみすみす逃す私ではない!
「戸部川さん……もしかして……」
わざと言葉と言葉の隙間に間を開けながら反応を伺うと、戸部川さんは心なしか動揺した……ような気がした。
う、う〜ん。しかしわかりづらいっ!
鎌かけを繰り返す。
「もしかして……す、好きな……」
ほら、わずかに上瞼がぴくりと反応した……ように見えた!
でも、まだ確信が持てない。めげずにもう一度!
「も、もしかして……す、好きなひーとーがー……」
ま、瞬きの回数も多くなった……ような気がする、する!
「……」
「……」
……うん、ちょっと待って、一旦タンマ。ギブですギブ。だから、そんなに私を見つめないでぇぇ……。
戸部川さんに見られながらに私は思った。
まるで女友達から「私、後ろ髪二センチ切ったんだけど、わかる?」と聞かれたときと同等くらいには、彼はわかりづらいんだと。でもあれって、同性でも普通にわからないからね……。
そうこうしている間に、私は聞き出すタイミングを完全に見失ってしまったようだ。
戸部川さんも、なぜかまったく喋らなくなっちゃったし。コックコートを着用しているマネキンとにらめっこしているみたい。だとしたら何ともシュールで結構好きなテイストかもしれない。
興が乗った私の口は軽くなる。だって、目の前にいるのマネキンだし、プライバシーとかないよね? と、このときの私は相当トチ狂った心境だったと、後々になって反省することになる。
私は誰に聞かせるわけでもなく、ゴホンと咳払い。
そして、真波と行ったLINEの内容をそれはもう見事に語り明かした。
この時点で私から言えることはひとつ。
「なるほど、それなら俺がなんとか店長に掛け合ってみよう」
とか言いながら、コックコート着たマネキンさんが、私の前から消え去っていたことだ。
……いや、何にしてのさ、私……。
3
「……」
「……」
「……」
どうしてこうなった。
何度でも言おう。
ど・う・し・て・こ・う・な・っ・た!
時刻は十一時を少し回った時間帯。
私が勤めるレストランの閉店時間が十一時。
つい一時間ほど前まで心地の良い騒めきに満ちていたロビーには、先ほどから随分どっしりとした沈黙が我が物顔で沈殿している。
原因はわかりにわかり切っている。どれくらいわかり切っているかと言われたら、「お金はあったほうがいい」とドヤ顔込みで言われるくらいにはわかり切っていた。
「……」
おっけいです。まずは落ち着こうね私。状況に絶望するなぁ? 今日はクリスマスなんだからさ! きっとサンタさんが何とかしてくれるよね☆
「……」
言ったそばからうっかり現実から全力で逃避していた私。不言実行にも程がある。
気を取り直し、目も前に広がった現実を、私は改めて眺める。
まずは状況を整理することからはじめようと思う。
現実その一、これは夢じゃない。
現実その二、物静かなレストラン内には、私を含めて四人の登場人物が存在している。
現実その三、どうしてこうなった?
疑問に思うこともあるだろうが、ひとつひとつ現実を見ていこう。。
手始めに現実その一——「これは夢じゃない」の件について。
そう、今私が立っている、息を吸えている、瞬きしているこの世界は紛れもないほど現実的な実感で溢れてしまっている。頬もひりひりするほどひっぱり無事?痛みを感じたから間違いない。できれば、夢であってほしかったのはけれど、この痛みは間違いないだろう。
はい、照明終了。
次!
現実その2——いつの間にか登場人物が四人に存在している件について。
「……」
「……」
この重苦しい二連続沈黙で、すでに察してくれている人がいるかもしれないけれど、今、私の前のカウンター席には、ふたりの男女が間に三つ分ほど空席を開けて座っている。
端的に言えば、ふたりは恋人同士だ。多分、それは今も。
とりあえず、紹介します。
まずは私から見て、左手側に座っているお団子ヘアーの女性が、私の友達であり、同じ大学に通い、今回の事件の発端となったお方。
名前は、
今は、暖かそうな毛糸でこしらえられた白い長袖のセーター一枚に、青のジーズンというシンプルな格好だが、ベルを鳴らして入店してきたときは、その上からコートを合わせてご登場していた。
そして、現在進行形の彼女はというと、カウンター席の机に頬杖をつき、ツーンした態度で体ごと左側に向けていらっしゃる。その表情はやはり不満げだった。うん、せっかくの可愛い顔が台無しだぞー。
続いて、そんな彼女から三つ席を空けて座る白いコート纏った男性が一人。
首元には緑色のハイカットを覗かせ、黒のデニムでカジュアルに決めている。
彼の名は、
私たちと同じ年齢ながらに、私たちより早く社会人として世に貢献している彼もまた、今やむっとした表情で、真波とは反対方向にマッシュヘアーの頭を向けていた。なるほど、こっちはこっちで中性的なイケメンフェイスが際立っていらっしゃる……。
そして、三人目はこの私、橋本美咲は、四人目のやらかしコックさんが作ってくれた軽い料理を二人の前に提供するマシーンと化しているのだ。はっはっはっは……はぁ……。
はい終了。
次!
ちゃっちゃかラストの現実目の当たりにしてこうぜ☆
現実その三——「どうしてこうなってた」の件について。
最も気になる点はここだと思う。だからこそ私もあえて言おうと思う。
……どうしてこうなった?
「と、とりあえず、どうぞ……」
久しぶり言葉を発した私は、やらかしコックさんこと、戸部川雄二がカランコロンキッチンで音を鳴らしながら作ってくれたサンドイッチを二人の間に置きながら、ふわふわとした記憶を
まずことの発端は、私から見て左側の席に座り、提供されたサンドイッチに手を伸ばしている真波から入った一本のLINEからこの状況は作り出されるべきして作られた。
しかし、私的にはここまでは問題なかったと思う。実際、彼女からのお願いは断ろうと思えば断れたし、断るつもりだったのだ。多少食い下がられてたが、いや、かなり食い下がってきたが、まあ、あのくらいならば確実にいなせた自信はあった。あのときまでは、確実に私がボールを握っていた……そのはずだったのに。
問題は、その次からだった。
「……」
今思い返せば、やはり私の守秘義務における徹底の甘さが今回の面倒を引き起こしたトリガーだったのかもしれない。思い返せば思い返すほど、あのときの私はトチ狂っていた。だって何? 思考停止した頭で生身の人間をマネキンに自動変換させてしまってたんだぜ?
そのあとは、壊れたラジオのようにベラベラと他人の個人情報まで暴露してしまった。
詰まるところこの状況は、自業自得。完全に私の落ち度が招いてしまった身から出た錆事件だ。
だから、やらかしコックさんは悪くない。
わざわざ新作料理を考案したいとかなんとか理由をつけ、温厚篤実を絵に描いたような店長がそれに快く許可を出し、ご丁寧に会場まで整えてくれただけなのだから。そこに感謝こそあれど恨みなど抱いていい道理はない。
ホント、アリガトウゴザイマス!
頬から今にも流れんとする雫はきっと気のせいだよね!
まあ、起きてしまったものは仕方がない。引き受けてしまった以上、私は精一杯二人の関係性を修復するお膳立てに徹しさせていただくまでだ。
コホンと咳払い。
重苦しい空気を変えるには、最初の一言目の重要になってくる。その辺の処世術を知っている人間が私だ。こう見ても私、実は出来る女なのだ。決して、おバカじゃないからね?
「えーと、こんばんは?」
「……え? うん、こ、こんばんは……」
「……こんばんは」
私の唐突の挨拶に、真波とその彼、田辺くんは戸惑いながらも挨拶を返してくれた。
しかし、第一目的である場の和みの方は見事に失敗。重い空気はベクトルが変わっただけ。以前、和んだ空気感とはほど遠い。早くも前言撤回の機会は回ってきそうだぜ☆
だが、まだ慌てるような時間帯じゃない。
前に出した両手を持ち上げ軽く首を振りながら、そうやって私は私自身を落ち着かせる。
そして私は、再度私自身に言い聞かせるのだった。
(こういう展開でこそ、ワタシは燃えるやつだったはずだ……‼︎)
重要なのは、気の利いた言葉をいかに均等に、かつナチュラルに投げかけ、二人の間に生じた摩擦をなくし、これまで通りの関係を維持させる潤滑油になれるかどうか。
そう、必要なのは、気の利いた言葉。たった一言で互いの過ちを認めさせ、未来に繋げる最高の言葉。
その結論に至ったとき、私の脳裏には様々な言葉が浮かんでは消えていった。そこには気の利いたセリフや、未来に繋げるセリフも、過ちを認めさせるセリフもあった。けれど、その全部を兼ね備えた言葉となると、そう簡単にはいかなかった。
こうしている間にも沈黙は重くなるばかり、私の焦りも強くなるばかり。いいことなんてひとつもない。だいたい、なんで恋人のいない私が恋人の世話を焼かなきゃならんのだ。前提が間違っている。相談する相手の選定が。年齢イコール彼氏いない歴の私なめんな!
ふつふつと怒りだけがこみ上げてくる。
もう、諦めてしまおうか……。
そう思ったとき、私に天啓が降りた。
そしてその言葉は、今の私にも、目の前の破滅寸前のカップルにも
だからなのか、喉に引っ掛かりも覚えず、そのセリフは自然と口からこぼれ出したのだった。
「諦めたらそこで試合終了だよ……?」
「……?」
「……?」
「……ごめん、真波、やっぱり私には荷が重かったみたいだ……」
今ここに前言撤回を宣言します。
たった二言三言で私の豆腐メンタルは
だいたい、なんで私がこんな辛い目に……。
どちらにせよ、もう今日は上手く笑える気がしない。最悪、このままの私では険悪なところに油を注ぎ込み、あまつさえ剣呑を食わしそうになってしまう。
これは逃げではない。戦略的撤退なのだ。そう自分に言い聞かせて、無責任にも私が踵を返した、まさにそんなときだった。
キッチンの方からやらかしコックが姿を現した。
その手には、カルボナーラではなく、ホールドケーキを携えていた。美味しそうなショートケーキだった。
「これ、差し入れなんだけど……」
何食わぬ顔でやってきたやらかしコック、もとい戸部川さんは私たちの間に流れる空気をも読まずにマイペースでやってきた。と思ったら、今度はすぐにキッチンに引っ込み、また出てきた。変わったのは、その手にナイフとホークと皿を携えていたことくらい。
そして、それらを全部、私に押し付けてくる。
「橋本、頼む」
「あっ……」
「ちょっ……」
背後から真波と田辺くんの息を殺した声が聞こえてきた。戸部川さんは先ほどまでの私たちの間に流れる空気の重さを知らない。いや、たぶん、知っててもこの人は表情ひとつ変えずに、お構いなくその役目を私に押し付けてきただろう。
私が知っている戸部川雄二という人間はそういう人だから。
「わかりました」
「うそっ」
「まじ?」
だから私も素直にその役目を全うすることに決めた。
後から何やらひそひそ声が聞こえるが、今は一旦無視を決め込む。
この人の前では冷静な自分でいたかったから。かっこ悪い私なんて見せたくなかったから。
「じゃあ、あとはよろしくな」
「はい、美味しそうなケーキありがとうございます」
「……あ、ああ」
「?」
素直に礼を述べると、戸部川さんは珍しくどもった。けれど、すぐにいつもの冷静な戸部川さんが顔を出す。
「まあその……なんだ……」
でも、どことなくその表情は少し強張っているような気がした。
「……よろしく」
結局、その意味に私は気付けず、戸部川さんは最後にそう言い残すと、厨房の方へと消えていったのだった。
エビローグ
全身を純白の生クリームに包まれたショートケーキ。
元々はイギリスの料理本に記録されたそれは、時を経て、世界中で親しまれる洋菓子となった。元祖イギリス式は、スポンジケーキだけではなくビスケット生地も使用していたらしい。果実も、今やショートケーキの代名詞となっているイチゴだけではなく、リンゴやオレンジ・ブルーベリーなど多岐に渡って使われていたらしい。
そして、ショートケーキの「short」とは、直訳通り「短い」という意味ではなく、「もろい」「サクサクした」に由来しているらしい。
それだけではなく——
「それだけじゃないぞ。「ショートケーキ」の「short」には他にも由来があってだな? 「アメリカの「ショートケーキ」と呼ばれるお菓子をヒントに作られたとか、イギリスの「ショートブレッド」にイチゴとクリームを挟んだお菓子からはじまったとか、短い時間で作れるからとか、逆に日持ちしないからってものまで、まあ、多岐にわたってあるんだ」
過去に何気なく気になったショートケーキの「short」の由来。
いつも寡黙なあの人なら知っているだろうかと、アルバイト先である四つ年上のコックさんに尋ねてみようと、当時の私は不思議とそう思ったことがあった。
時間の合間を見つけて、さり気なく聞いてみると、彼、戸部川さんは快く知っている知識を披露してくれた。
そのときは、わりと多くの由来があって驚いたのを今でも覚えている。あとは……少し嬉しそうに笑っていたあの横顔も……。
「ショートケーキ、好きなのか?」
「え? まあ、まあ……ケーキ系の中では一番好きですね。実家では、誰かの特別や、祝事には必ず登場してました」
「そうか」
こんな短く、どこを取り立てても端に先にも掛からないように会話を交わしたことも、ちゃんと私は覚えている。
だから、今、彼から手渡されたこの純白のケーキを前にして、私は少し舞い上がっている。
当然、そこには大好きなショートケーキが食べれるからいう気持ちもある。実家にいる頃にもクリスマスの日には、やはりショートケーキを食べていたくらいだ。
でも、今回はそれだけじゃない。
もっと深く、体の奥の方から感じる暖かな気持ちが、私の胸の内を少し大胆にさせてくれる。
それは、今年で二十二歳になる私が感じる初めての感情だった。
漫画や小説、映画やドラマで往々にして主軸とされるその感情の名を、私は知っている。今までは知ってるだけで、特定の誰かに抱いたことのなかった私だけれど、今は確かにこの胸の中で強く、高らかに主張している。
もう、子供じゃないから。その感情が示す何かを私は自覚している。自覚できている。思い返してみると、たぶん、この感情は二日、三日で抱いた想いではなかった。
じゃあ、いつからだろう……そう考えてみると、もっと以前から、でも正確な日にちまでは思い出せない。
でも、一つだけその感情を深く自覚した瞬間は、なんとなく思い出せる。
今日も、いや、今日だけじゃなく、もっと前から度々繰り返しされてきた似たような場面はあって。だけど、今、弾かれたようにその感情を自覚したのは、蓄積された感情が私を追い越していったから。ときを刻む秒針より先にいきたいと、そう願ったから。
「美咲?」
その声に、私の思考は現実の世界へと引き戻された。
名前が呼ばれたほうへ顔を向けると、どこかニヤついた笑みを浮かべた友人が私のことを見ていた。
「なに?」
一瞬だけ視線が合わせ、嫌な予感を感じた私は、すぐに手元のショートケーキに視点を戻す。持て余したこの感情を、なんだか見透かされていそうな気がしてドキドキした。それに感化されているのか、顔にも仄かな熱が灯っていく。それをごまかすように、私は先ほど手渡されたショートケーキをまな板の上に置いた。包丁を手に取ると、視線でショートケーキを四等分に切り裂く。
「美咲さ、なんだか、嬉しそうだね?」
「そ、そう? 普通じゃない?」
「ううん、今、すごくいい顔してるよ。なんだか、恋する乙女って感じ」
「えっ? ちょっ、ちょっとなにそれ真波、冗談きついってぇ」
彼女の言葉を、私は冗談まじり笑い飛ばす。視線も合わせなかった。絶対、緩んだ口元だけは隠したかったから。
そんな私からこれ以上の成果は望めないと判断したのか、彼女、笹生寺真波は私の預かり知らぬところから突いてくる。
「ねぇ、哲もそう思わない?」
「ん? まあ、声のトーンはさっきよりも高いかもな」
ぶっきらぼうながらに、ここで田辺くんのまさかの援護射撃。
「そ、そんなことないって」
不意を突かれた私は少し動揺してしまう。。外堀から埋められてきてる気がするのは気のせいだろうか。
「え〜、絶対そうだって。自覚していないだけでさあ〜」
「だから、勘違いだって」
そう、勘違い。それでいい……今は。今だけは、気づいてしまいたくない。
「そうかな〜」
「そうなんだよ」
探るような真波の視線から逃げるように、ケーキに包丁を入れていく。そんな私の素っ気なさに観念したのか、「そっかぁ、勘違いかぁ〜」と真波波の残念そうな声が届く。
「てか、あなたたちの問題はどうなったのよ?」
これ以上踏み込まれたくない話題だったから、私は話の矛先を本来あるべきところに戻しにかかる。
だいたい、今は私のことよりも二人の関係修復の方が早急に解決すべき事案だと思う。別かれてしまっては元も子もないないだろうに……。
けれど、そんな私の懸念を、当事者である真波がフランクな口調と声音で笑い飛ばした。
「私たち? あ〜、いいのいいの、もうこっちは解決しちゃたからさ」
「は?」
この真波の発言には、さしも私も驚きを隠せず顔を上げてしまう。
「ちょと待って、どういうことよそれ?」
というか、全然状況が把握できていないような気がする。色々と噛み合っていないような違和感がすごく気持ち悪い。
ついさっきまで二人の間に流れていた険悪ムードは一体どこにいってしまったのか。ここにきて、なんだかわからないことだらけ。そして何より、作為的な何かを感じるのは私の杞憂だろうか。
果たして、そんな私の杞憂は、
「んー、まあ、それはねぇ……」
と、おもむろに席から立ち上がり、三つ分空いた席をどこか跳ねるような足取りで横切る彼女と、
「実は……」
その先で私と同様に真波の言動に気を取られていた彼、田辺くんの顔が重なったその瞬間、見事に晴れることになった。
「はい、こういうことです」
田辺くんから離れた真波が照れ臭そうに笑みを浮かべている。その顔は淡く紅色に染まっていて、でも、本当に幸せそうで嬉しそうな表情をしていた。
一方、そんなふたりの様子を見ていた私のほうが、人知れずドキドキ状態だった。
せめて一声くらいあってもよかったと思う。
恋愛ビギナーには、キスってかなり刺激強めなんだからさあ……。
いや、まあ、数年ぐるみで色々と経験済みな恋人さんたちにとってはキスのハードルは低いかもしれないけど……とか何とか思いながら、もう片方の恋人さんに視線を向けると、
「なっ、なななっ!? お、おおおおおおいっ、い、いいいいいいいきなりなにすんだよっ!」
めちゃくちゃ動揺していた。
普段クールで中性的なイケメンさんが顔を真っ赤にしてあわあわしていらっしゃった。
……なんか、いい。すごくグッとくるものがありました。
「真波っ、お、お前はいつもいつも唐突すぎるんだよ!」
椅子から立ち上がった田辺くんは、真波の軽率なスキンシップにお怒りモード。お気持ちお察しします。
「ほ、ほら、思い出してみろ。あのときだってそうだったろ? あのときの公園でって——おい、どこに連れて行く気だ!?」
すっかり説教モードに移行した田辺くんだったが、その途中で半ば強制的に止められ、そのまま真波に腕を取られる形で店外へとフェードアウトさせられていった。
その張本人さんとは言うと、田辺くんの説教など一切聞かずに、
「じゃあ、美咲、私たちはここまでだから! その、頑張ってね! 私、応援してるから!」
とか、捲し立てるように一方的に言葉を投げつけては、隣でガミガミ噛み付いてくる恋人を引きずって帰っていってしまった。
まさに、台風のように現れ、台風のように去っていった。
「……」
必然的に、ひとり取り残された店には、思い出したような沈黙が流れ始める。
おもむろに手元を見ると、切掛けのショートケーキがあって。誘うように甘い匂いを漂わせていた。
「頑張ってって、なにをよ……応援される意味もわかんないし……」
それは、つい今し方真波に言われた言葉。
頑張って——。
なにを?
応援してるから——。
誰を?
「……」
いや、そんなの、決まってる。
決まっているからこそ、ひとりになった空間に漏れ出る私の本音。
「そんな勇気、あるわけないじゃん……」
自分の弱さを押し付けるように、スポンジ生地に恨みがましく包丁を差し入れていく。吸い付くような柔らかさを誇るスポンジ生地を包丁の刃が容赦無く切り裂いて——。
それはまるで、私の心に宿った淡い感情を切り裂いていくよう。
「ん?」
けれど、その途中、何か引っかかる感触を包丁ずてに私は感じた。
それは、柔らかなスポンジの生地には絶対にあるはずがない引っかかりのようなもの。
導かれるままにその違和感の正体を確かめるため、その部分だけ切り分けると、キの中には円柱状の空間が形成されていた。
そして、その中には、透明な小さな袋がひとつ。
「これって……」
小さな袋だけをきれいに取り出すと、中には一様の紙きれが入っていた。
とくん……とくん……とくん……とくん……。
鼓動の律動に急かされるように、丁寧な手つきで中の紙を取り出す。
そんなとき、ふと、私は思い出した。
今日は、俗に云うクリスマス。
キリストの降誕を祝う世界的にもめでたい一日。
そんな良き日の私の心は、少し荒んでいたことに。
でも、どうだろう。
今は、こんなにも高揚してしまっている。ワクワクに身を委ねてしまっている。
たぶん、この気持ちは、サンタさんがくれたプレゼント。
こんな小さな紙切れ一枚が、今の私をこんなもドキドキさせくれているのだから。
言葉には頼らない彼らしいサプライズ。
——伝えたいことがある。これ見たら厨房に来てくれ
だから、たぶん。
私の恋人はちょっと寡黙なサンタクロース……になるのだろう。
「……」
なってくれるよね? ね!?
私の恋人は〇〇なサンタクロース Next @Takahiro19
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