江渡ヵ島の殺人

砂塔ろうか

江渡ヵ島の殺人

 異世界移動というのは大量の書類が必要となる。それがたとえ帰省のためであったとしても。

 わたし、東根ひがしね暁乃あけのはうんざりしていた。もう何もかも放り出してその辺を駆け回りたいくらいにうんざりしていた。

「……身元確認書類、日本政府への申告書、公国への誓約書、聖堂議会への無罪証明書、魔術事故に関する同意書、異世界保険の契約書、持ち込み物品の申請書、思想テロリズム防止のための思考検閲同意書…………ただ家に帰るだけだっていうのに、どうしてこんなに書類がいるんだか」

 ――いや、まあ仕方ない。今のわたしは「日本人」なのだから。いくら出生が向こうの世界とはいえ、戸籍上はこちらの世界の人間という扱い。他の地球世界人たちと同じだけの証明書類を要求されるのは当然だ。

 とはいえ、帰依さえしてなければ――つまり私がまだ戸籍上、あちらの世界の人間のままであったならば、ここまで多くの書類を書くこともなかっただろう。基本的に、異世界旅行法令という奴はあちらの世界の人間が有利なようにできているのだ。


 わたしのいるカフェのテラス席はこの島で一、二を争う大きな街道に面している。そこを歩くのは、大半があちらの人間である。それも、平民身分ではない。華美な衣装に身を包み複数の従者を引き連れて歩く彼らはそう、貴族。

 日本列島から遥か南にある絶海の孤島、江渡ヵえどがしまは今や異世界の貴族たちが愛好するリゾート地である。

 なんでも十年前、この土地の霊脈が揺らぎに揺らぎまくった結果、逆に安定した異世界への門が出来てしまったらしい。そのことに気付いた異世界の諸貴族はその門を通り、こぞってこちらの世界へ来るようになった。

 あちらの世界の貴族は基本的に殺伐としている。二十四時間毎日ずっと命を狙われ続けていると思え――子供にそう言い聞かせるのが常態化してる程度には。

 そんな彼らにとってこの、魔術が満足に行使できない異世界は安寧の地となっていた。魔術が満足に行使できないとは、それだけ魔術的トラップへの警戒度を下げられるということを意味するからだ。

 そのせいか、この島を歩く貴族たちはみな、どこか緩んだ顔をしている。


 わたしがこの時出会った少女、レイノイもまたその一人だった。名門貴族エルファンテ家の令嬢。金髪のツインテールが美しい、高貴ながらも溌剌とした印象の女の子だ。

「もし。なにを書いていますの?」

 気品ある言葉遣いとは裏腹に、好奇心旺盛な碧の瞳がこちらを覗き込んでいた。

「異世界移動についての申請書」

「この紙束ぜんぶが?」

「そう。この世界の人間がそっちに行くのは簡単なことじゃないみたいでね」

「……あら。でもあなた、随分と流暢な公国語ですわね」

「生まれは向こうなんだ。でも、こっちの世界のが楽しそうだったから日本に帰依した。だから戸籍上はこっちの人間になってる」

 私の言葉がいささか衝撃的だったのだろう。少女はしばし絶句した。

「まあでも、年に一度は帰って来いって言われててさ。これから顔見せに行くところ」

「…………貴女。わたくしには想像もできない世界を生きてますのね」

 わたしが今は「日本人」であることを斟酌してか、彼女は日本語でそう言った。今度はこちらが随分と流暢な……と感心させられる。

 だからわたしも日本語で返答する。

「それは、まあ。お互い様じゃないかな」

「ふふ。少し興味が湧きましたわ。お友達になって下さる? わたくしはエルファンテ・ケイ・ヴァジュラ・レイノイ」

「わたしは東根暁乃。今はそう名乗ってる。職業は探偵助手。よろしくね」

 ――それが、わたしたちの出会いだった。

 少しだけ特別で、だけど所詮は退屈しのぎで終わるはずだった交流。わたしの忙しない日々にいつしか埋もれてしまう一刹那……のはずだった。

 それがまさか、あんな事件に繋がることになろうとはこの時は思いもしなかった。


◆◆◆


 長いようで短かった帰省が終わり、地球世界側へ行く時の必要書類の少なさに苦笑いしつつ門をくぐる。こうしてわたしはこの魔力欠乏気味の世界に戻ってきた。

 ゲートセンターを出ると、南国情緒と異世界情緒の入り交じった少し奇妙な街並みが出迎えてくれる。鞄の中から取り出した麦藁帽を被り、大通りを歩く。

 休暇が終わるまで、まだ数日ある。せっかくだから今日は江渡ヵ島を見て回ろうか――そんなことを考えていたら、思いがけず金のツインテールを見付けた。

 レイノイだ。彼女は黒髪の従者を引き連れて、ちょうどこちらの方へ歩いてくるところだった。

「あら」

 どうやら向こうも気付いたらしい。私に向けて手を振ってくる。

「存外、短い帰省でしたのね」

「まあ。長居しても居心地悪いだけだし」

 なにせ地球人はあちらの世界にいる限り、常時思考検閲を受け続けることになるのだ。頭の中を覗かれていい気がする者などいるわけがない。

「して、久しぶりの故郷はいかがでした?」

「相変わらずかなぁ……進歩も発展もない感じで」

「へえ。それでは、そうですわね……立ち話もなんです。あちらのレストランで詳しくお話を伺いましょう。ちょうど、頃合いですし」

 レイノイは近くのファミレスを指差す。(異世界の食を味わいたいという貴族たちの要望により設けられたものだろう)

 時刻は12時を少し過ぎた頃。昼食にはちょうど良い。


 帰郷した感想について、多少はオブラートに包みつつも、わたしは本音でぶちまけた。

 わたしの一族は百年前の戦争で功績を立てて権力を得ただけの、成り上がりの下級貴族だ。そんな、歴史の浅い家系の存在意義とは伝統に縛られすぎず、変革をもたらし続けることであろう。なのに、現当主にこの地球世界から何かを学ぼうという気概はどうやら微塵もないらしく、むしろ懐古主義を極めるという有様だった。

 わたしに年に一度は顔を見せろと云うのも、どうやら「今の自分がどれだけ伝統に準じているか」を落伍者のわたしに見せつけたいだけであるらしい。

 正直、これが当主のやることかと失望した。

「……なるほど。それは、心中御察しいたしますわ」

 意外なことに、私の話にレイノイは同意してくれた。それも心底嘆かわしいと言わんばかりの態度で。

「あら。エルファンテ家のような古い家柄の娘がこのようなことを言うとは思いませんでした?」

「正直。耳を疑いました。ええ、ハイ」

「ふふ。あなたの認識も少々時代遅れのようですわね」

「お嬢様」

 諫めるように、黒髪の従者が口を挟む。

「よろしいのですか? それは旦那様が――」

「構いませんわ。お父様はたしかに隠したがっておられるようですが、おそらく皆がやっていることでしょうし、いわゆる公然の秘密というものではなくて?」

「…………」

 従者は黙り込む。ため息をついて、レイノイの代わりに事情を説明してくれる。

「近年では、こちらの世界の魔術的特性に着目して新たな魔道の可能性を探る動きが活発化しているのです。そうですね……東野様、とおっしゃいましたか」

です」

 よく間違えられる。

「失礼。東根様。あなたはこの世界とあちらの世界の魔術の違いについて、どの程度ご存知でしょうか」

「基礎的なことだったら一通りは。向こうの世界は、言わずもがな魔力に満ちている。空気中に魔力が潤沢に存在していて、動植物の中には魔力をエネルギー源として利用するものも珍しくない。

 逆に、こちらの世界は魔力がほとんど利用できない。空気は純粋な窒素と二酸化炭素と酸素などの混合ガスで、無論、動植物に魔力を利用するものもない。けれど、それは魔術が使えないことまでは意味しない。霊脈があれば、魔術が行使できる」

 しかし、魔術を使える場所、条件に大きな制約がある。ゆえにあちらの世界に比べ、こちらの世界では魔術がほとんど発展しなかった。魔術師の数も非常に少ないし、およそまともな職業と認知されていない。

「博識なのですね。ええ、その見解で問題ありません。あちらは魔力ベースの魔術が、こちらは霊脈ベースの魔術が発展した――そうとも言い換えることができるでしょう。今まで、我々は魔力欠乏気味のこの世界では魔術が満足に使用できないと言い続けてきました。なにせ、魔力ベースの魔術を基本とする我々にとってここは宇宙空間のような場所ですから。しかし、だからこそ見えてくるものもある。さながら、宇宙ステーションにおける科学実験のように」

「なるほど。極限環境ならではの実験ができるということですか」

 レイノイが得意げに髪をかき上げる。

「ええ。そして実のところ、それに一早く目をつけたのが、我々エルファンテ家なのですわ。私のお父様は婿入りで来た歴史の浅い貴族家の者なのですが、それゆえと言うのでしょうか中々頭の柔らかい人でして」

 早口でまくしたてるように話すレイノイはどこか自慢気だ。

「好きなんだ、お父様のこと」

 わたしがそう言うと、レイノイは顔を綻ばせる。

「――! ええ、自慢のお父様ですわ!」

 レイノイの煌めくような笑みは、見てるこっちの心まで温かくしてくれる。見れば、彼女の隣に座る従者もまた、穏やかな笑みでレイノイを見ていた。

「『あつあつミートソースハンバーグドリアとろとろチーズだく盛り』ご注文のお客様ー」

「あっ! はいはい! わたくし! 私ですわ!」

 注文したものが来ると、レイノイは幼気いたいけな子供のようなはしゃぎようで挙手した。瞬く間に食事の準備を済ませ、

「暁乃。話の続きは食事が済んでからですわ。せっかくの『あつあつ』がこのままでは『ひえひえ』になってぴえんですわ」

「お嬢様、どこでそのような言葉を――、いや、じゃなくて少し冷まさないとまた火傷――」

「――――っ! み、水! 水を下さいまし!」

 ……言わんこっちゃない、といった様子で呆れつつも黒髪の従者はお冷やをレイノイに渡す。

 そんな騒がしい一幕の最中、わたしは「レイノイって本当に日本語が上手なんだなあ」などとどうでも良いことを考えていた。


 それからわたしたちは一日中街を見て回った。それどころか、日が暮れても行動を共にしていた。

 というのも、どうやらレイノイには観たい映画があったようなのだ。しかし、「格式と伝統あるエルファンテ家の令嬢が映画などという娯楽にうつつを抜かすのはいかがなものか」という思いがあったらしく、今日まで観ることができなかったのだと言う。

(ファミレスでの醜態は気にしてないのだろうか)

 ともあれ、そういうわけでわたし達は夜、映画を観ることになった。

「いいかしら。あくまでも、この映画は貴女が観たいというから観るのですわ。あくまでも、そういうことでお願いくださいまし」

「はいはい」

「……申し訳ありません」

「気にしないで下さい。こういうの、嫌いじゃないですし」

 本心からの言葉だった。今日のことはなんだか、自分に妹ができたみたいでとても楽しかったのだ。

 黒髪の従者は苦笑しながら私に頭を下げて、それからポップコーン選びに夢中になっているレイノイを見る。

「お嬢様は本音で語り合える友達が欲しかったのでしょう。立場上、あのように無邪気な姿はそうそう余人に見せられるものではありませんから」

「……それほどまでに大変なんですね。【黄昏の十八血族】の末裔であるということは」

「次期当主と目されるお方でもあります。軽率な行動を控えなくては方々に付け入る隙を自ら作ることにもなる」

「……じゃあ、今みたいな状況はあまり快く思っていない?」

「従者としては。ですが、」

 そこで言葉を切って、彼は目を細めた。

「赤ん坊の頃から見守ってきたお方が、ああもはしゃぐ姿を否定することなどできませんよ」


 映画を見て、存分に感想戦を楽しんで、突然の雨に慌てながら東部の別荘街へと続く三叉路の前で別れた。彼女らはこれからエルファンテ家所有の別荘へと帰るのだろう。私も、雨で風邪を引かぬよう、駆け足で事前に予約しておいたホテルへ向かうことにする。

 ……けれど、この時。もう既に事件は始まっていたのだ。

 翌朝の新聞『江渡ヵ島日報』朝刊で私はそのことを知ることとなる。

 新聞の一面には、確かにこう記されていたのだ。


 ――エルファンテ邸の惨劇。当主レスパーネ氏死す。


◆◆◆


 当主エルファンテ・ケイ・ノウストラス・レスパーネの死体が見つかったのは午後10時ごろのことだった。彼は厳重に結界が張られていたはずの、屋敷の中、当主の執務室で見つかったのだ。

 この江渡ヵ島では満足に魔術が行使できないのは周知の通りであるが、それはあくまで使の話である。なにも、この世界ではまったく魔術が使えないという話ではないことは、この世界に僅かながらいる魔術師たちの存在が証明している。

 ゆえにこそ、最低限の警備としてこの島に別荘を持つ貴族たちはそれぞれのやり方で結界術式を組んでいる。「招かれざる客を侵入させない結界」などはおそらくどこの邸宅でも用いられていることだろう。

 当然、エルファンテ邸でも。

 しかし、レスパーネは殺された。無惨に。惨忍に。これでもかという程にむごたらしく。

 第一発見者の証言によると、後頭部の頭蓋骨は砕け、脳がその辺に飛び散っていたらしい。背中の骨は何かとても強い力で踏みつけにされ、粉々に砕けていたのだとか。

 だがそれも、エルファンテ家執事トードヴェル・カミイユのそれよりは幾分かマシと言えよう。

 カミイユの場合は髪の毛が頭の肉片ごと千切られていた。しかも顔の皮膚がずたぼろに剥かれた上で、頭を潰されていたようだ。その上上半身と下半身は千切れ、こぼれ出た内臓はぐちゃぐちゃに踏み潰されていた。

 人相がほとんど分からないから、消去法で断定するよりほかになかったという有様であったとか。

 念のため、魔術的個人同定法(DNA鑑定のようなものらしい)により現在確認中とのことであるらしい。


「……それで、なんでそんな話を私のところに?」

「探偵助手と仰ったではありませんか」


 第一発見者こと、エルファンテ・ケイ・ヴァジュラ・レイノイは目を赤く腫れ上がらせた顔で毅然と告げた。


「まあ、確かに言った。でもだからって、わざわざわたしの泊まってるホテルの部屋を調べて来るとは思わなかったよ」

「……部屋を調べることは簡単でしたわ。だってこのホテル、エルファンテ家の所有ですもの」

「…………なるほどね。でも、だからってわたしに頼られてもなあ……」

 あくまでも、探偵助手である。依頼を請けることはできない。

「お願いします」

 頭を下げたのは、レイノイの隣に座る黒髪の従者だ。彼はそのほっそりとした中性的な顔を上げて、わたしに訴えかける。

「ここが江渡ヵ島でなかったのなら、警察の捜査に任せるのが筋というものでしょう。しかし、ここは江渡ヵ島。この島で起きるいかなる事件についても、日本政府の介入は望めない。異世界の貴族たちの倫理観と品格と『ここが隠遁所であり続けてほしい』という願いによって辛うじて治安が維持されているに過ぎない、事実上の無法地帯なのです。……事件の捜査もまた、我々自身でするほかない」

「請けたいのは山々だけど……残念ながら、わたしに依頼を請けることはできないんだ。師匠――わたしが師事してる探偵に禁じられててさ」

「――それは、個人的な理由で調査するぶんには、構わないと受け取ってもよろしくて?」

 レイノイは意外に頭が回る。わたしは応とも否とも言わず、言葉の続きを待った。

「であるならば、わたくしが貴女に理由を差し上げましょう。この事件を調査する理由を」

 従者の男性は首を傾げてレイノイを見ている。おそらくこの発言は彼女の独断なのだろう。

「ねえ、東根暁乃。貴女、元の名をイストルート・イェラ・アルケイノと申すのではなくて?」

「――――なぜ、それを?」

「これですわ」

 レイノイはテーブルの上に幾枚かの手紙を置いた。その筆跡に、私は見覚えがある。

「……事件後は部屋の中がめちゃくちゃな有様でしたから、何か盗まれたものはないかと執務室中を引っくり返しましたわ。すると、貴女の名前――ヒガシネ・アケノ――が記された手紙が、お父様の机の抽斗ひきだしの中から出てきましたの」

 間違いない。これは私が出した手紙だ。それもつい最近、あちらの世界へ帰省する前に。

「イストルート・イェラ・アルケイノ――東根暁乃。貴女に兄殺しの仇討ちをさせて差し上げます。帰依したとはいえ、仮にも貴族。であるならば、名誉のためにこれは必要なことでしょう?」

「……たしかに、イストルート・イェラ・アルケイノにはその義務がある。下級とはいえ、貴族だ。身内が死んだ事件について、討てる仇を討たず、明かせる真実を明かそうとしない……それは恥ずべきことだ。でも、わたしはもう違う」

「? 年に一度は顔を見せに来るよう言われているのでしょう。ならばまだ――」

「そっかまだ言ってなかったっけ。つい先日、勘当されてきたよ。だからもう、わたしは名実ともにイストルートの人間じゃあないってワケ」

 この世界に帰ってくるな、とさえ言われた。

「だから、このわたしにそんな義務はない。いや、背負うべきじゃない、と言うべきか……だけど、個人的な理由としては充分だ」

「へ?」

「依頼でもなく義務でもなく、あくまで個人的な感情として、一人の妹として、兄の死の真相を知りたい――そう思うことを誰にも止められるはずはないからね。ぜひとも、協力させてほしい」

 しばし考え込む仕草を見せてから、レイノイは長いため息をついた。

「…………貴女って、存外面倒な方ですのね」

「いやあ、実力もないのに依頼を請けたとあっては、師匠にドヤされるからね。勘当されたのに貴族のルールに則るのもおかしな話だし。……ああでも、一応わたしの方から師匠に依頼はしておく。あの人の手にかかれば事件は確実に解決するから、期待しておいて」

「それは頼もしい限りですが……でも」

 レイノイは拳をぎゅっと握り、ティーカップに映る自分の顔を睨みつけた。

「できることなら、私自身の手で決着を付けたいと、そう、願ってしまいますわね」

「じゃあ競争だ。どちらが、仇を討てるかの」

「負けませんわよ、義叔母おば様」

「……その呼び方は勘弁してほしいかなあ」

「日本語ではそう呼ぶのでしょう?」

「まあ、そうなんだけどね……」

 かくして、わたしたちはこの残虐な事件の調査を開始することになった。


◆◆◆


 わたしたちが最初に話を聞いたのはエルファンテ家別荘の管理人、管野かんのおさむ氏だった。

「いやあ、あれはなんだったんですかねえ。なんだかとても恐ろしい雄叫びのような声を聞きましたよ。耳障りで、人の声とはとても思えなかった。……その少し後でしたかね。執務室の方でドタドタとなにやら騒がしい音がして。ああ、あと『旦那様!』という悲鳴が、公国語で発されたのを聞きました。そのあと窓がバリンバリン割れて、聞いてるだけで足が竦んじまいましたよ。それが、午後9時半過ぎだったと記憶しています。

 ……え? 様子を見には行かなかったのかって? そりゃもちろん行きましたとも。でもねぇ、管理人とはいえ、それは主不在の間の話ってことなんでしょうね。

私は結界に弾かれちまってだめでした。招かれざる客入るべからずってね。私は招かれざる客扱いってわけでさ。

 そうこうしてるうちに、レイノイ様がお帰りなすって……あとは、ご存知の通りです」


 たった一人の証言では心許ない状態ではあったが、周囲は無人の別荘ばかり。別荘の離れで暮らしていた管野氏以外の証言は望めそうになかった。


「では、現場検証といきましょう」

 わたしたちは死体が発見された執務室へと向かった。

 元は質素ながらも気品に満ちていたのであろう執務室の有様は酸鼻を極めるものだった。

 窓ガラスは一つ残らず割れ、机は天板が割れており、壁もずたぼろに破壊されている。それになんといっても目を引くのが、白を基調とした室内を赤く、赤く、赤く、赤く――不気味に彩る血飛沫である。

 鼻をつく厭な匂いも、まだ抜け切っていないらしく――あるいは、もう永遠に抜け切ることはないのかもしれない――吐き気を催させる。

 だが、ここでわたしが吐くわけにはいかない。

「……………………っ」

 顔を真っ青にしながらも、この光景を直視する少女がわたしの隣にいる。込み上げてくるものを嚥下して、改めて部屋を見る。

 その時、レイノイの従者がわたしに耳打ちした。

「……遺体は、回収できる分はすべて私が地下室へ運びました」

 だから心置きなく、調査してほしいということだろう。わたしは従者に「あとで遺体も確認させてください」と返して部屋に入った。

 それから休憩を挟みつつ3時間ほど、わたしたちは執務室の調査をした。

 結果、いくつかの事実が判明し――さらにもう一つ。

「……なんだろ、この毛」

 犯人の手掛かりと思しきものを発見した。


◆◆◆


 昼食はエルファンテ邸の食堂でとることになった。管理人の管野さんがわたしたちのために料理を作ってくれたのだ。

 テーブルの上には麻婆豆腐、担々麺、餃子……といった中華料理が並ぶ。なんでも管野さんの得意料理らしい。だが、これらの料理をレイノイは今日初めて目にする様子であったことを鑑みるに、「料理をきっかけに父親との楽しかった思い出を思い出させてはいけない」という管野さんの気遣いの結果であったようにも思える……のだが。

「……なんだか、この赤いスープを見てるとあの現場を思い出してしまいますわね」

 レイノイの何気ない一言に愕然とする管野さんがそこにはいた。

 正直わたしも、今は赤いものは食べたくない気分だ。レイノイの言葉にうなずいて同意する。

 さりとて、料理の味そのものは絶品だった。食欲減退気味だったはずであるのに、思わずご飯のおかわりを要求してしまった程度には。

 ちなみにレイノイは麻婆豆腐を食べながら、「……ホテルのモーニングに良いかもしれませんわね」などと呟いていた。せめてディナーにしてほしい。

「さて、それでは事件の情報を整理すると致しましょうか」

 なんだかんだで用意された料理をきっちり完食したわたしたちは再び頭を働かせ始める。

「まず、基本的なこととして事件当夜の時系列を確認したい」

 わたしの言葉に、レイノイも彼女の従者も、うなずいてくれた。

「昨夜、わたしたちは映画を観た。それはこの半券が示す通り、午後7時15分~午後9時20分のこと。それから、わたしたちはあの三叉路で別れた」

「我々が別れたのが、午後9時45分ごろだったかと記憶しています」

 黒髪の従者が捕捉する。どうやら彼は腕時計で時刻を確認する癖があるらしい。

 確かに、映画館からあの三叉路までの道のりを考えれば、そのくらいが妥当なところだろう。

「管野さんの証言から考えると、事件が起きたのが午後9時30分前後」

わたくしが浮かれて映画など観に行かなければ……あるいは……」

 レイノイが表情を曇らせる。その気持ちは理解できるが、

「その場合、死体が四つになっていたかもしれない。そういうことは考えないことにしよう」

「そう、ですわね」

 話を戻す。

「さっき、わたしは遺体を確認してきた。発見後すぐ、冷えた地下室に運び込まれたことを加味しても、死亡推定時刻は半日前、午後9時30分ごろと見て良いと思う」

 もっとも、両名とも死体の損壊が激しかった。管野さんの証言がなければ死亡推定時刻をこうもはっきり断言できたか、怪しいところだ。

「そして、レイノイが遺体を発見したのが午後10時ごろ……だったね」

「我々が帰宅したのは、午後9時57分だったと記憶しております。ちょうどその時、一階ホールの柱時計の鐘の音が鳴るのは聞きました。あれは本来、10時になるものなのですが、少し壊れておりまして、三分進んでいるのです」

「私は管野さんのお話を伺って、すぐさま父の執務室へ向かいましたわ。そして……父を」

「ということは、犯人は午後9時30分~午後9時57分の間に執務室から脱出したということになるね」

「結界は去る者を引き止めるようにはできてませんわ。窓も全て割れていましたし、周囲には足場となるような建物もいくつかある。脱出は容易だったことでしょう。……それも、犯人が人間であるなら、ですが」

「……この島では犯人が人間とは限らない」

 たとえば、術式を込めた殺戮人形などは魔術によるテロで最もポピュラーな手段の一つだ。あるいは、使い魔という可能性もある。

「「とはいえ、執務室の窓の下側の地面にはわずかに血痕――おそらくは犯人が浴びた返り血――が見られましたわ。ですから、実行犯が実体を持つ存在であり、窓から執務室の外へ出て行ったことは確かでしょう」

 ちなみに、その血痕を追っていくことはできなかった。昨晩、突発的に降り出した雨によりほとんどが洗い流されてしまったのだ。地面にシミのように残る赤色を見つけるのがやっとの状態だった。

「……そこまではいいとして、一体どうやって我が家の結界を掻い潜ったのかが不明瞭ですわね」

「……念のため確認したいんだけど結界に『客』と認識されない人間は、」

「お父様と私、それと執事トードヴェルとこの我が家の専属魔術師トクガワだけですわね。他の家人は所用によりこちらの世界に来ておりませんので、除外して良いはずですわ」

「なるほど。……ん? トクガワ?」

「ええ。私の御目付け役でもある、彼、トクガワ・シナノノクニ・ブッダですわ」

 黒髪の従者がうなずく。

「………………んん?」

 なんなんだろう、その奇妙奇天烈な名前は。ていうかブッダって。シナノノクニって。トクガワって。

「……偽名かなにか?」

「私も驚きましたわ。まさかうちの専属魔術師の名が、この世界の偉人とこの世界の地名(?)とこの世界の神の名をごちゃまぜにしたようなものになっていたとは。世の中には不思議な偶然もあったものですわね」

 ブッダは厳密に言えば神様じゃないのだが……まあそれは置いておこう。

「そんな偶然ってある?」

 訝るわたしに、黒髪の従者――トクガワさんは平然とした口調で告げる。

「我々は生物学上、同じホモサピエンスと見做されるようですし、文化もまた似通っています。ならば、同じような音の組み合わせが生まれるということもありましょう」

「……まあ確かに、向こうでも『マリア』とかこっちの世界と同じような名前はあるし……そう考えれば…………不自然では………………な、い?」

「それはさておき」

 レイノイが言う。

「我が家の結界は家人が招いた者であれば問題なく受け容れるタイプのものですわ。つまり、お父様、私、トードヴェル、トクガワ……この四名が招けば――入ることを許可すれば、結界には弾かれません」

「それで、わたしも管野さんも今、この屋敷の中にいられるわけだからね。ちなみに、仮に今ここでわたしがレイノイに『出てけ』って言われたらどうなる?」

「どうもなりませんわ。本家の邸宅でしたら、不思議な力で家の外に追い出される――なんてこともあるでしょうが、この別荘の結界にそこまでの機能はありません」

「行使可能な術式があちらの世界ほど豊富ではありませんからね。限られた手段、限られたリソースでは余分な機能を実現できない」

「でもそれは、犯人側にとっても同じはず。……だから、あの事件現場はおかしい」

 わたしの感想に、トクガワは「確かに」と応じる。

「レスパーネ様の暗殺が目的なのだとすれば、あの破壊はあまりに過剰です。遺体にしたって、あそこまで損壊する必要はない」

「どういうことですの?」

「つまり、やりすぎってこと。人を殺すためにあそこまでする必要はない。仮に、魔術で強化された人間がやったのだとしても、あれだけ暴れればかなり疲弊するはず。なんらかの術式を用いたのだとしても、あれだけの破壊には相応に魔力が必要となる。だけど、この世界の大気に魔力はほとんどない」

「不足魔力リソースについては魔結晶などの固体魔力を用いれば補えます。ですが、この世界ではそれすらも貴重品。殺すだけでなく、残虐に破壊するために貴重なリソースを用いるのはあまりに無意味」

 トクガワが断じると、レイノイが顔を俯かせて言った。

「ならば、犯人はお父様に恨みを抱いていたということではなくて? 考えたくはありませんが怨恨が理由ならば、奇妙とも言えないでしょう。……それに、父の【遺書】にはそれを仄めかす文言もありましたから」

 貴族の当主はいつ自分が不慮の事故で死んでも構わないよう、自身の死後発動する術式として【遺書】を作成する。例に漏れず、当主であったレスパーネも【遺書】を用意していた。

 文面はこうだ。


『親愛なる家族へ

 私、エルファンテ・ケイ・ノウストラス・レスパーネ――旧名、イストルート・イェラ・レスパーネ――はこのエルファンテ家当主の座を辞し、エルファンテ家の血を継ぐ正統なる後継者エルファンテ・ケイ・ヴァジュラ・レイノイに家督を譲ることを宣言する。

 また、この私にはレイノイに告げなくてはならないことがある。生前に伝えることができず、申し訳なく思う。

 それは、一つの欺瞞についてである。

 ――――は私ではない。

 ――本当――――は――――――――――』


 【遺書】の文面はあの執務室の机の上に出現していた。レスパーネの血液で記されるかたちで。

 しかし、文面の後半部は何者かに擦られて読めなくなっていた。だから、レスパーネが本当は何を伝えようとしていたのかは、闇の中だ。

「二人が来たときにはもう、【遺書】はあの状態だった」

「そのはずですわ。気付いたのは、だいぶ後になってからでしたけれど」

「……犯人が、消したと考えるのが妥当だろうね。あのレスパーネの告白文には、なんらかの理由により闇に葬られた過去が記されていた。そこには犯人の名前もあった。だから、犯人は告白文を消した――そう、言いたいところだけど」

「その推論に何か問題がありまして?」

「うん。あの破壊っぷりと犯人像が噛み合わない。あれだけ乱雑で残虐な破壊をしているのに、【遺書】は特定箇所だけを消している。全部消しても良かったはずなのに」

 むしろ、そうするのが自然とすら思えるのに。

「……それは、誇りの問題ではなくて?」

「誇り?」

「ええ。家督の継承先を決めずに当主が死亡しては、その家に混乱をもたらします。ですが、犯人はあくまでお父様にのみ恨みを抱いていた。エルファンテ家の混乱までは本意ではない。ゆえに、――」

「つまり、貴族の流儀として【遺書】を丸ごと消すのは避けたって言いたいんだ。部屋を無残に破壊して、執事まで殺したのに」

「それは――言いたくはありませんが、執事のトードヴェルもその秘密に加担していたとか、あるいは単純に犯行を目撃されたので殺害したとか……」

「あの執務室の惨状については?」

「……なにか、モノがなくなっていることに、簡単には気付かせないための方策と考えられますわ。犯人はお父様に多大な恨みを抱いており、お父様は犯人の、なにか大切なものを持っていた。ですから、お父様への復讐と同時にそれを取り戻そうとした」

「――いささか、あの体毛に気を取られすぎではありませんか。お嬢様」

 トクガワが諫めるように言った。

 あの体毛とは、わたしが事件現場で発見した赤茶色の毛のことだ。人間の毛髪ではなさそうだった。おそらくは、類人猿のものだろう。

 また、トクガワさんが調べたところ、その毛には魔力の痕跡が強く残っていたことが判明した。

「なにか、あれに心当たりが?」

 わたしが尋ねると、レイノイはこほんと咳払いして、

「実は、我がエルファンテ家とあまり関係のよろしくない貴族家がありますの。それもまた、古い家柄の……同じ【黄昏の十八血族】でして、銘をイステスと云いますわ。その意味は『肥沃なる森』。彼らは、使い魔の権威でもありますの」


◆◆◆


 よく訓練された使い魔ならば、主と同じ思考ルーチンで行動することも可能だろう。実際、それを利用して自分の死後も使い魔を用いて自分自身の意志をこの世の残し続ける魔術師というものが、あちらの世界にはいた。

「それに、……実はこの家の結界、使い魔や獣を阻むようには作られていませんの。お父様はイステス家との友好を望んでおりましたから…………」

 友好のために、あえて隙を作る。それは立派なことだが、もし、その隙のためにこの事件が起きたのだと思うと遣る瀬ない。

 わたしたちは複雑な思いを抱えながら、イステス家の別荘に赴いた。イステス家はちょうど一週間前から、こちらの世界に滞在しているとのことだった。

 ちなみに、そろそろトードヴェルの遺体にかけた個人同定術式の結果が出るとのことだったので、トクガワは屋敷に残っている。


 イステス邸の前に着くと、家から9歳くらいの少年が出てくるところだった。左頬がわずかに赤い。誰かに殴られたようだ。

 少年はこちらに――というよりレイノイに気付くと、キッと睨みつけてきた。

「お久しぶりですわ。イステス・オウ・クラウミナ・シージュ」

「……んだよ低俗な血統が。もの乞いにでも来たのか?」

「低俗な血統?」

「お父様が下級貴族の生まれであることをバカにしてるのですわ」

「……へぇ」

 わたしはにっこりと笑ってシージュ少年に近付く。レスパーネの生まれをバカにするということはつまり、わたしもバカにされてるということだ。

 いくら事実だとしても、他人にそう言われて愉快な気持ちにはなれない。

「な、なんだよ……」

 わずかに気圧されたか、シージュ少年があとずさる。

「いえいえ。高貴な血統たるイステス家のお坊っちゃんにお近付きになれて光栄で……ぜひ、握手をしていただきたいなあと」

「……そ、そのくらいなら構わねえが……ッ!?」

 無防備にも手を差し出してきたシージュ少年に、言っていいことと悪いことがあると分からせてやる。すべすべでぷにぷにの若い肌をぎゅうっと握る。

「どうですかぁ。卑しい卑しいイストルート家の女に手を握られる感想は」

「いっいだだだだだ!! はっ放せ! 放せ! 畜生! お、お父様に言いつけるからなァ!!」

「そのお父様に顔を殴られたばかりなんじゃないのかなあ? んん?」

「あ、あの暁乃? そこまでにして差し上げて……」

「ためしに、なにしでかしたか言ってごらん? 大丈夫! 卑しいゴミの言うことなんて誰も聞かないから! 秘密は守られるよ?」

「――――! 言うっ! 言うから放せ! はーなーせー!」

 わたしはぱっと手に込めた力を緩めた。見れば、シージュ少年の目には涙が浮かんでる。

「それじゃあ立ち話もなんだし、このまま手を繋いで、どこか適当なところに行こうか?」

 返事は待たない。わたしはシージュ少年を連れて別荘街を出ていく。幸いにも、ここは街に近い方だ。このまま、公園にでも向かうとしよう。

「ちょ、ちょっと暁乃!? どういうつもりですか!」

「いやぁ。つい。悪いとは思ってるよ」

「……の割には随分と目を輝かせてませんの? 貴女」

 男の子の涙は良いものだと思う。

「大丈夫大丈夫。ちゃんと考えがあってのことだから」

「私の目には貴女が衝動的に行動したようにしか見えませんでしたが……」

「…………この女ァ……僕が当主になったらメイドにして寝る間もなくこき使ってやるからなぁ……」

 シージュ少年の甘美な泣き言を聞きながら、わたしは警察不在の素晴しさを噛み締めた。


◆◆◆


 ちょうどキッチンカー(この世界の文化を知りたいという貴族の要望に応えてのものだろう)でアイスクリームが売られていたので三人分買うことにした。飴とムチである。

「こんなもので僕が許すとでも思ってるのか。下賤な――」

 さっきの握手がこたえたのか、シージュ少年はもごもごと口を濁す。

「別に許してほしいなんて思ってないよ。ただ、せっかくだし」

 別に、ズボンにこぼれたアイスを拭きとってあげようとかそういうヨコシマな考えはまったくない。決してない。機会チャンスが来れば、自分でも自分がどう行動するか分からないが。

「……妙な女だな」

「わたしにはヒガシネ・アケノって名前があるんだけど。まあ、いいや」

 ちなみに、シージュ少年は日本語が放せないようなのでここでの会話は全て公国語である。

「それより、はやく本題に入りませんの」

 焦れったそうに、レイノイが割り込んでくる。

「まあ、そうだね。シージュくん。君はどうして、誰に殴られたの?」

「……大切な実験材料を、逃がしてしまったんだ」

「実験材料?」

「うちはこの世界の、魔力をまったく持たない動物を使い魔として利用する研究をしてる……だけど、可哀想になって、一匹だけ、僕のペットにしてもらうようお父様にお願いしたんだ」

「……それで、どうしましたの?」

「許してはもらえなかった。だから、専属魔術師のストリチェスに手伝ってもらって檻から出して、自分の部屋で飼うことにしたんだ……だけど」

「逃げ出してしまった?」

「ああ。それで、お父様に……見つけるまで、帰ってくるなって…………」

 シージュくんは目尻に涙を溜める。それだけひどく叱られてしまったのだろう。時止めの魔術があったら彼に使ってケースに入れて飾りたい。

「……て、低俗な……その、レ、レイノイ。このことは、秘密にしてくれよ。このことが家の外にまでバレたら……僕、お父様に…………」

「ええ。口外は致しませんわ。どんな因縁があろうと、私たちは許婚いいなずけなのですから。未来の伴侶に恨まれたくはありませんもの」

「……え。許婚?」

 レイノイの何気なく出た言葉に、私は困惑する。見たところ、レイノイとシージュには10歳くらい年の差があるように見えるのだが……。

「親同士の取り決めですわ。険悪な関係だった両家の、橋渡しを望まれてますの……何か問題がありまして?」

「いや、……うん。ちょっとだけ向こうの世界に未練ができちゃったかもしれない。そっか……貴族同士ならそういうのもアリか……盲点だったなぁ…………」

「な、なあレイノイ。なんなんだこの気持ち悪い女は」

「……暁乃。シージュが必要以上に怖がりますわ。あとの話は私が伺いますから、貴女は向こうに行っててくださいまし」

 接近禁止命令が出された。


◆◆◆


 レイノイが聴取したところ、事件当夜のイステス家は少々慌しかったらしい。シージュ少年がを逃がしたせいで、行う予定だった実験ができなかったからだ。

 逃げ出したサル探しに家の者たちは奔走していたのだと言う。

「昨夜行われるはずだった実験の内容をシージュは詳しくは知りませんでしたわ。ですがまあ、どうせこの世界の動物を使い魔にする実験でしょう」

 シージュ少年と別れ、わたしたちはトクガワさんの結果報告を聞きにエルファンテ邸へ帰るところだった。

「そっか……ちなみに、そのサルっていうのはどういうのだった?」

「赤茶色の毛並みをした、手の長いサルとのことです。大きさはこのくらいで」

 レイノイは手振りでだいたいの大きさを教えてくれる。

「ならたぶんオランウータンだろうけど……この島にオランウータンは棲息していないはず」

「あら、そうなんですの?」

「オランウータンは東南アジアの熱帯林にしか棲息していないんだよ。ここも南の方だけど、少なくとも野生ではいないと思う」

「ふむ。であれば島の外から持ち込まれた、ということですわね」

「まあ、そうなるけど……そういうのは禁止されているんじゃ」

「抜け道なんて幾らでもありますわ。私のホテルでも、食材は直接島の外から買いつけていますもの。……たとえば、そう。動物園から横流ししてもらう、とかが考えられますわね」

 さすがに、あちらの世界へ生き物を持ち込むのは難しそうですけれど――とレイノイは続けた。

「ええと、それで、そのオランウータンが逃げ出したのは何時ごろの話?」

「それが、シージュは正確な時刻を把握していないようでして、大雑把にしか聞き出せませんでしたわ……夕方の少し前、とのことで」

「なるほど……一応、それならオランウータンにも犯行は可能か……」

「ありえますの? そんな話が」

「そういう内容の小説フィクションもあるみたい。わたしは、読んだことがないんだけど」

「所詮フィクションではありませんの。それに、あれだけの破壊行為を行うサルがいるだなんて思えませんわ。まるで爆弾でも放り込まれたかのような惨状だったではありませんか」

「ん。まあね……それに、野生のオランウータンの毛から魔力の痕跡が発見されるのも妙な話だ」

 この世界の野生動物は、魔力を用いるという生態をしていない。なのに魔力が検出されるなんて、そんなことがあるのだろうか……。

 そんなことを考えていると、スマートフォンが鳴った。

「お、師匠からだ。もうしばらくしたらこっちに来れそうだって」

「師匠というと、その、本職の探偵さん?」

「そう。にしても妙に早いなー。入島手続きだけで半日はかかると思ってたんだけど……ん。どうかしたのレイノイ」

 レイノイはこちらに身を寄せてスマートフォンを凝視していた。

「いえ、そういえば初めて目にする機械ですわと思いまして」

「ああ。そりゃあまあ、通信端末は普通、この島では使えないからね。これは師匠がちょっと改造しててさ、電波を遮断する結界の中でも問題なく使用できるようになってる」

 もちろん、そんなものがあるとバレれば大問題だ。取り上げられるだけでは済まないだろう。

 師匠は探偵とは言うが、遵法精神については非常に疑わしいところのある人だ。今回もたぶん、正式な手続きを無視してこっちに来ようとしているのだろう。

 まったく、困った人である。

「――と、なんかもう一個メッセージが来てる。……『森に気を付けろ』?」

「どういう意味ですの?」

「たぶん、言葉通りの意味だと思うけど……うーん、つまり師匠は、犯人が森に潜んでると考えてるのかなぁ」

 今朝送った情報だけで、そこまで推理できるとは思えないが……相手は師匠だ。そういこともあるだろう。

「しかし、仮に犯人が森に潜んでいるとするならやはりその、オランウータンというサルなのでは。管野さんの人とは思えない声がした、という証言とも一致しますし」

「……まあ、そうなんだけど。やっぱり魔力が検出されたことと、野生のオランウータンにあそこまでの犯行ができたのかって点がどうも……引っかかって……」

「でしたら、こうは考えられません? 犯人のオランウータンが実は使い魔であったという可能性は」

「でも、オランウータンを使い魔にする実験はできなかったんじゃ」

「ええ。そうですわね。仮にオランウータンを一匹しか用意していなかったのでしたら、実験はできなかったでしょう。しかしイステス家には、実は複数のオランウータンがいたのだとすれば? シージュは一匹しかいなかったと思っていたようですが、一匹しかいないと確認まではしていないはず。先に述べた父との個人的な確執が理由で、イステス家の者が使い魔にしたオランウータンで凶行に及んだ可能性は充分にあるのではなくて?」

 なるほど。それであれば、確かに可能性はあるだろう。しかし、

「ならなんで、シージュくんがオランウータンを逃がしてしまったあとで、家は慌しくなったの? シージュくんにオランウータンを探しに行かせたのは? 実験ができたのなら、そんなことする必要はないんじゃない?」

「……それは、」

「あと、動機の面でも不可解なところがある。息子と娘を結婚させようとしてるのに、そんな事件を起こすかなあ」

「いえ、それについては不可解ではありませんわ。なにせ、私たちの結婚を望んでいるのは、シージュのお父様と私のお父様だけですもの。むしろ、シージュの兄や使用人たちはこの結婚を取り止めにさせたいと思っていることでしょう。たとえ、相手の家の当主を殺してでも」

 ……そうきたか。

 そう考えれば、なるほど。筋は通る。

「じゃあその場合、犯人候補は誰になると思う?」

「専属魔術師、ストリチェスが怪しいですわね。実はあの男、かつてお父様とは恋敵の関係にありましたの。別に、貴族の生まれというわけではありませんが、それはもう熱烈に、私のお母様に愛を伝えていたそうですわ」

「その上、シージュくんがオランウータンを檻から出すのを手伝ってもいた……」

「彼でしたら、動物に暗示をかけてしばらくしたら自分のところに来るよう仕向けることだって可能なはずですわ。そして、イステス家当主に内緒で使い魔にして、オランウータンを我が家に放つことだって……」

「でも、もしもそうだとしたら、この事件はこれで終わらないかもしれない」

 レイノイはその可能性については考えていなかったのだろう。きょとんとした顔で訊いてきた。

「どういうことですの?」

 わたしは、はっきりと告げる。

「ひょっとしたら、次のターゲットはレスパーネの娘であるあなた、レイノイかもしれないってこと」

 レスパーネに強い憎しみを抱いている人間が、レスパーネの血を継ぐ娘まで憎まない保証は、どこにもないのだ。


◆◆◆


 屋敷に戻ってトクガワさんの報告を聞く。

 やはり、現場にあったもう一つの遺体はトードヴェル・カミイユのもので間違いないようだった。これで、執事トードヴェルが真犯人という、ミステリ小説めいたオチはありえないと断ぜられるようになったわけだ。

「あと二つ、良い報せがあります」

 トクガワによると、事件後、執務室から消えたものが一つだけ見つかったらしい。

「その名も、【千年果呪】。強大な魔力を秘めた食人植物の果実です」

「なんでそんなものがうちにありますの?」

「……実は、イステス家からの要請なのです。なんでも、動物に魔力を付与する実験に使いたいとのことで」

「事件後に消えていた、と言っても、トクガワさんは日中、わたしたちと一緒にいましたよね」

「ええ。ですから、事件前に、イステス家の方へ引き渡された可能性も否定できません」

「【千年果呪】は食した者に凄まじい力を与える呪物――それを食べさせたオランウータンの使い魔にならば、あれだけの破壊も出来るかもしれませんわね……」

「オランウータンの使い魔?」

 眉を顰めるトクガワさんに、レイノイは自分の推理を披露した。それに信憑性があると思ったのか、トクガワさんは真剣な表情で「なるほど」とうなずいていた。

「では、もう一つの報せをお伝えしましょう。……実行犯の居場所を、突き止められるかもしれません」


◆◆◆


 この江渡ヵ島は霊脈がひどく不安定で、魔術行使の足掛かりとするのが難しい。それゆえにこそ、異世界への門が開き続けているのだ。

 だが、今。どういうわけか霊脈は今までにないくらいの安定状態にあるのだという。

「追跡系の術式が使えないか、念のため確認しててびっくりしました。一本だけでしたが、霊脈の揺らぎがほとんど完全に収まっていたんですから」

 あいも変わらず、魔力濃度は極低。だが、霊脈をベースとした追跡術式であれば、問題なく使用可能だ。

 現場に落ちていた体毛の魔力とレスパーネとトードヴェルの遺体の破損部から検出された魔力は一致したらしい。その魔力の主を、これから追跡するのだと言う。

「――風の向きは東に。波打つ大地は二つに分かたれ、ここに道を拓く。祝福せよ。天は我らを守護せり。……されど汝、侮る勿れ。仇敵は健在なり。壮健なり。強壮なり。罪の証は骸二つ。仇敵を示すはこの体毛。ゆえに彼の居場所を我は欲す。我は欲す。我は欲す――偉大なるもの、全てを知る大地の蛇よ。我が祈り、我が願いに応じ給え…………」

 トクガワは別荘の敷地内に設けられた儀式場で詠唱する。目の前には二つの遺体と例の体毛。

 わたしたちは、生体魔力を分けるためにトクガワとともに儀式に参加していた。

 身体から、なにかが引き抜かれる感覚がして、けれど同時に、血流が速くなるのを感じる。おそらく、魔力が身体から出ていくことで内部が少し、焼けているのだろう。

 儀式を終えるころには、私たちは全力疾走をしたあとのような状態になっていた。

 息は乱れに乱れ、倦怠感も凄まじい。

 本来であればこういう時、魔結晶などを用いるのだが……今回は霊脈ベースの魔術なのでリソースとして魔結晶は使えないのだと言う。だが、そのお陰でいいこともあった。

「……! わかる、わかりますわ。実行犯のいる方向が……!」

 魔術儀式に参加したお陰で、本来術者にのみ与えられるはずの恩恵を、わたしたちも得ていたのだ。

「疲弊してるかとは思いますが、もしお嬢様が狙われているのだとすれば、のんびりもしていられない。行きましょう。レスパーネ様とトードヴェルさんを殺害した犯人のもとへ」

「ええ。逆に、ぶっ殺してやりますわ」

 こうして、わたしたちは向かう。別荘街のその奥、江渡ヵ島北部の森林地帯へと。

「……ところで、犯人がもし凶暴化したオランウータンだったとして、対策はあるの?」

「ええ。もちろんですわ。といっても、これはエルファンテ家秘中の秘ですから、あまり口にはできないのですけど」

 どうやら、レイノイには秘策があるようだ。

「ならいいけど……そろそろ近い。気を引き締めないと」

「ええ。そうですわね。防御術式の準備を」

「いつでも起動できます。お嬢様」

「よろしい」

 さて、そろそろ目視できてもいいはずだが……この熱帯林には隠れる場所が多い。居場所は分かっても、探すのに苦労する。

「見つけましたわ! あれ、ですわよね?」

 レイノイが興奮気味に言う。彼女が指差すのは、たしかに手の長いサルだ。だが、毛は白っぽく身体も小さい。

「いや、あれはテナガザル。オランウータンじゃ、な――」

 その時、テナガザルの頭が弾けた。そうとしか見えなかった。頭部を失ったテナガザルは木の上から落ちていく。その向こうから姿を見せたのは――。

「あれが……オランウータン……?」

 肥大化した大きな手、逆立った毛並み、ぎょろりとしたまなこ、異様に大きな、パラボナアンテナのような形をしたフランジ(顔の出っ張り)……それは、画像や動画で見たオランウータンとは別種の生き物のように思えた。それはあまりに異様で、あまりに威容があり、あまりに――バケモノじみている。

 その時、横からがさがさと草木を掻き分け誰かがやってきた。

「……あれ? お前らなんでこんなところに……」

「シージュ!? 貴方こそ一体なぜ――いえ、愚問でしたわね。こちらへ来なさい。……貴方の探しものは、もしやあれなのではなくて?」

 シージュ少年があの、怪物めいたオランウータンを見る。

「ひっ」

 掠れた、甘美な悲鳴。

 シージュ少年はその場で尻餅をついた。

「――あ、あれだ。たぶん。もっと、穏やかで、優しそうだったけれど……でも、指が欠けてるから、間違い、ない」

 倒れた勢いで、シージュ少年は漏らしてしまったらしい。微かな尿の匂いが漂ってくる。くそう、こんな状況でさえなかったらもっとじっくり楽しめただろうに。

「来ますわ!」

「承知!」

 おそらく、シージュ少年と目が合ったのだろう。こちら目がけて、オランウータン――いや、もはやこれをオランウータンと呼ぶのは憚られる――殺戮オランウータンは飛びかかってきた。次々に木を伝って、蹴りつけてくる。

「守護の術符!」

 トクガワさんが展開した術符の効果でわたしたちの前にシールドが張られる。これで直撃は避けられた。

 だが、殺戮オランウータンの蹴りによってよって生じた風圧は、容赦なくわたしたちに襲いかかる。

 気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな、強い衝撃。これでも術符のおかげで軽減されていることを思うと、こんなのは生身――それも逃げ場のない室内で喰らうことだけは避けねばならないと思い知らされる。

「くっ……思ったより、保ちそうにありません! お嬢様はあれの準備を!」

 こちらがシールドで身を守ったことに憤慨したのだろう、殺戮オランウータンは殴りかかってきた。またしても凄まじい風圧。衝撃。攻撃の瞬間は、目視できない。

 だが、そんな中でもレイノイは凛とした立ち姿を維持していた。秘策とやらを使うためだろう。目を閉じて、何かをぶつぶつと呟いている。

 レイノイの全身に線が走る。赤い、赤い、赤い、赤い、血の色をした線が。

 風は巻き上がり、何者も寄せつけない白の光を纏う。

 だが。その前に。

「ぐぁっ! あああ、ああああ――」

 トクガワの苦悶の声が響く。見れば、右手が滅茶苦茶に破壊されていた。まるで、真正面からプレス機に押し潰されたかのようだ。

「トクガワ!?」

「お嬢様はお気になさらず! ――一瞬、シールドを破られただけですから」

「でも……」

 レイノイの全身から赤の線が薄くなってゆく。光の小さくなり――。

 その時。

「まーた無茶してんなあ。坊主」

 呆れた響きの、男性の声がした。大人の、思わず頼りたくなってしまう声が。

「あ、あなたは……」

「あの娘を守りゃいいんだろ? 手伝ってやる」

 この場に似つかわしくない、黒のスーツを着たヒゲの男はトクガワさんの隣に立つと、そっと右手を前に出した。それだけで。

「――ウギャッ!?」

 わたしたちを守るシールドは、衝撃波をも通さぬ鉄壁になった。どうやらその分の風は殺戮オランウータンの方へ返ってるらしく、一瞬、殺戮オランウータンは怯んだ様子を見せる。

 だが、次の瞬間にはむしろ戦意を倍以上にして、怒りの連撃を繰り出してくる。

 しかし、それさえも無意味。こちらには攻撃の余波さえも届かない。

 一瞬にして状況を一転させた男は、わたしを見るとため息をついた。

「――だから言ったろうが。森には気をつけろって」

「師匠!」

 突如として熱帯林に現れたのはわたしの師匠、魔術師探偵、唐木田からきだ玖楼くろうだった。

「……貴方が、暁乃のお師匠さま?」

「ああ。そうだぜ。エルファンテ家のお嬢さん。……いや、もうご当主さまか。こっちはもう大丈夫だ。集中してくれ」

「――ええ。言われずとも」

 すう、と深呼吸して再び、あの血の線を身体に浮き上がらせる。舞い上がる風と白光のドレスを纏い、手を、前へ。

「――《血族術式・概念顕現》【黄昏の十八血族】が末裔エルファンテ・ケイ・ヴァジュラ・レイノイが命じる。我が父の仇を討つため、我が従者の意志に報いるため。ここに顕現せよ――【高潔剣】エルファンテ」

 光が、血が、織り混ざり、一振りの両刃剣を形作る。

 それは高貴なる刃と何者をも寄せつけぬ光の波濤を持つ。

 いま、わたしたちを鏖殺せんとする殺戮オランウータンを邪とするならば、こちらは紛れもなくその反対――聖。

 碧の瞳を金に染めていま、レイノイが聖剣の柄を取る。

「この剣は、この光は、

 罪あるものとその郎党を討ち滅ぼすためにある。

 手を血に染めた者に罪があり

 彼を唆した者に罪があり

 彼にそのための力を与えた者にもまた罪がある。

 エルファンテの銘はその悉くを消し去ろう。

 聖堂議会二十人審問会第七位がここに宣言する。

 誅伐の時は今。この時なり。

 ――滅せ! エルファンテ――!」

 叫びとともに剣を振り下ろす。暖かな純白の光が雪崩のように殺戮オランウータンへと襲いかかる。

 その高潔な光に私は目が眩み、顔を背けてしまう。

 ――果たして、気がついたときにはもう、殺戮オランウータンは跡形もなく消えていた。

 そして、あの聖剣もまた消えており……レイノイは肩で息をしながら、消耗しきった様子でへたりこんでいた。

「お嬢様! 大丈夫ですか、お嬢様!」

 すぐさま、トクガワさんが駆け寄る。ふと右手を見れば、師匠がほどこしたのだろう、術符でぐるぐる巻きにされていた。

「え、ええ……はぁはぁ、思いのほか消耗しましたが、問題ありませんわ…………ねぇ、シージュ」

「……な、なに?」

 レイノイは隣にいるシージュ少年に顔を向けて、彼女にしては珍しく、少し弱々しい口調で言う。

「今、私が放った【高潔剣】エルファンテは罪あるものとその罪を唆したもの、そしてそのための力を与えたもの、これら全てを滅するものです。たとえあの光を直接は喰らわずとも、……あのサルにレスパーネ殺害を命じたものがいたならば、その者も連鎖的に消滅する……そのような権能なのです」

 シージュ少年は困惑しつつも、真剣な表情で話に耳を傾ける。

 レイノイは乱れた息を整えながら、「ですから、」と続けた。

「ですから、……もしも、貴方の家の者が、貴方が帰ったときにいなくなっていたならば、その時は私を恨みなさい…………貴方には、その権利がありますわ」

 少年はやはり、レイノイの言いたいことを十分に受け止め切れていない様子だった。だが、その真剣さだけは伝わったらしく、「わ、わかった」とうなずく。

 その姿を見て、安心したのだろう。

 レイノイは、ずるりと、崩れるように倒れた。


◆◆◆


「ありゃア身体に相当な負担をかけたな。三日は安静にせにゃならん。まっ、俺がいなきゃ一カ月は身動きできん状態だったろうし、思う存分感謝してくれ」

「ふふ。面白い方ですのね。暁乃のお師匠さまは」


 その日の深夜、エルファンテ邸一階のレイノイの私室にて。

 目を覚ましたレイノイはあの日、わたしに「お友達になりましょう」と言ったときのような笑みをこちらに向けてくれた。

「……それで、いかがでした? イステス家に、消えた方はいまして?」

 まだ目覚めたばかりだというのに、レイノイはそんなことを聞いてきた。それも少し、思い詰めたような表情で。

 だが、安心してほしい。

「いいや。一人も、消えた人はいなかったって。もちろんあの、ストリチェスっていう専属魔術師も」

 つまり、あの事件は偶然執務室に入り込んで、【千年果呪】を食して凶暴化したオランウータンによって引き起こされたものだったのだ。

 わたしは努めて明るく報告した。なのに、レイノイはますます深刻そうな顔をする。

「どうしたんだ。誰も消えなかったんだ、喜ぶべきコトじゃねぇの」

「……いえ、だとすれば私は、無辜の方々に疑念を向けたことになりますわ。『高潔なる剣』の銘を持つエルファンテの当主として、恥ずべき行いです。無論、消えてほしかった、などとは申しませんし思ってもいませんが…………お父様の過去に、イステス家の者との因縁があった――それによってお父様と執事トードヴェルは殺害された……そのような妄想に取り憑かれたことは、やはり恥ずべきことなのです」

「あぁ。例の遺言な。……それについては、真相を知ってる奴が一人いる。入ってこい」

「え?」

 師匠は扉の方へ声をかける。

 出てきたのは、トクガワさんだ。

「トクガワ!? なぜ貴方が――」

「お嬢様。まずはじめに、私は謝罪せねばなりません。遺書の後半部を消したのは、私なのです……すべては、私の正体をあなたにお伝えする決心がつかなかったがゆえに……」

「どういう、ことですの? トクガワの、正体?」

 レイノイは師匠とトクガワさんの顔を見比べて言う。

 師匠は、トクガワさんの肩をトントンと叩き、

「あー、まずな。なんだっけ? トクガワ・シナノノクニ・ブッダ、だっけ? そんなふざけた名前じゃねぇよ。こいつの本当の名は。ほら、言ってやれ」

「……私の本当の名は、金剛こんごう武揚たけあき。日本列島の山中にある、とある寺で育てられた者です」

 それはつまり、トクガワさん――いや、金剛さんがこちらの世界の住人である、ということだ。だけど、それはおかしい。だって、

「トクガワは、私が赤ん坊のころからエルファンテ家に仕えてますのよ!? 門が開通したのは、ほんの十年前のこと! 辻褄が合いませんわ!」

「ああ。だから、ここじゃない別のトコにできた門から、そっちの世界に迷い込んだのさ。この島の特異なところは、門があることじゃあない。門が安定してそこにあり続けることだ。……逆を言えば、一瞬開いて一瞬で消えるような門は、そこまで珍しくもないんだよ。まあ、それを人が通るってのは、ちいとばかり珍しいがな」

 レイノイは不安げな顔をして金剛さんを見る。

「本当、ですの……?」

 返答は無言の首肯だった。

「私は、以前、こちらの唐木田さんとお会いしたこともあります。当時は、十にも満たない子供でしたが。唐木田さんは、当時も今とお変わりない様子で」

「オイオイ。余計なコト言うんじゃねーよ。若作りがバレんだろうが」

「……私があちらの世界に迷い込んだのは、十六の頃だったと記憶しています。そこで私は、身寄りのない孤独な暮らしに翻弄されておりました。……そんな私に、手を差し伸べてくれたのが、あなたのお母様、エルファンテ・ケイ・フォーネ・クレイン様だったのです。

 彼女は私に言葉を、魔術を、あの世界で生きるための居場所を下さいました。……そして、愛すべき娘も」

 レイノイの身体が、固まった。小さな、声にならない声が静寂に包まれた室内に音を生む。

 行き場のない、困惑の声が。

「……レスパーネ様が告げようとしたことは、つまりそういうことなのです。彼はあなたの本当の父親ではない。血縁上、あなたの父は、この、私なのです」

「……そんな、そんな、ことが、本当に。でしたら、なぜ。今まで隠していたのですか! なぜ、従者として、専属魔術師として振る舞い続けていたのですか!」

「エルファンテ家は神々の神秘を受け継ぐ【黄昏の十八血族】の一つです。私のような、身元不詳の男が婿として受け入れられるなどあってはならない。……それに、もし私と結婚などしていたなら、この家は怒り狂ったストリチェスによって大変なことになっていたでしょう。彼がクレイン様を諦めたのは、夫が下級とはいえ貴族のレスパーネ様であったがゆえ。私のような男が夫であったならば、彼はこう考えたはずです『それなら自分でも良いじゃないか』と」

 どうやら、レイノイの推理は部分的には当たっていたらしい。たしかに、ストリチェスにはエルファンテ家と浅からぬ因縁があった。少し間違えば、今回の惨劇は本当にストリチェスの手によって引き起こされていたのかもしれない。

 いや、あるいはそのもっと以前に――エルファンテ家は崩壊してしまったかもしれない。

「あなたの、ヴァジュラというえにし名、それは私のことを示しています」

 縁名とは、今となっては古い家柄の貴族の間にのみ残る慣習である。その子供が生まれたときに、親が子供自身の名とは別に、恩人や大切な友人を表す言葉を名として付けるというもの。

「ヴァジュラってのはサンスクリット語で、日本語に訳せば金剛――つまりこいつの名字になる。……にしてもお前、なんだよあのヘンな偽名は」

「あ、あの時はパニックになってたもので……それに、心細くて……この名前であれば自分と同じように異世界に迷い込んだ人が見つけやすくなるのではないかと…………」

 見知らぬ土地での心淋しさにはわたしも身に覚えがある(主にそこにいるヒゲ男のせいで)。勢いでヘンテコな名前を名乗ってしまわないよう、気をつけるとしよう。

「……ですが、だとするならば、今後私はどうすれば良いのですか」

「レイノイ?」

「お父様だと思っていた方が実は、血の繋がらぬ他人で、召使だと思っていた方が、本当のお父様で、私は、一体――」

 レイノイは涙をこぼして訴える。そんな少女のそばに駆け寄って、涙を拭ったのは、彼女をずっと見守り続けてきた男だ。

「なにも、変える必要などないのですよ。血が繋がっていなくとも、レスパーネ様は立派な、あなたのお父様だったではありませんか。血が繋がっていないからといって、あなたの、父親を誇りに思う気持ちがウソになるなんてことはありません。……同様に、私も、今更あなたの父親として振る舞うつもりはありません。今までと変わらず、どうか御側で、仕えさせてください」

「……トクガワ…………」

 言葉にはしがたい、関係性の二人。その間に、わたしたちが立ち入る隙間はもう、どこにもなかった。ここに居続けるのは野暮だ。

 わたしと師匠は、こっそりとレイノイの私室をあとにした。


◆◆◆


「そういえば師匠、あの時、なんかぬるっと現れましたけど、一体どうやってあそこまで来たんですか?」

「ん。ああ、あれな。あれは、禹歩うほで来た」

「なんです、それ」

 師匠はヒゲを撫でながら自慢気に答えた。

「ああ。霊脈を利用した瞬間移動術式だよ。陰陽師どもが使ってたモンを、自分用に改造してな、それで、アメリカからお前のいるとこまでひとっ飛びってワケよ。正規の手続なんぞ使ってたらお前らみんな死んでただろ? だからわざわざ、この島の不安定極まりない霊脈を一時的にだが安定状態にもってって――ここまで来たのさ」

「霊脈を安定状態に…………それって、まさか」

 たしか、あのときわたしたちが殺戮オランウータンの追跡をすることができたのは、霊脈が安定していたからではなかったか。

 追跡ができないままならば、屋敷の結界を更新して籠城するという手もあったのではないか。

「つーかお前、なんで俺が忠告してやったのに森に行くんだよ。バカじゃねえのか? ん? なんだよその目つきは。俺なんか悪いことしたか?」

「……………………いえ。なんにも」

 一言二言、言ってやりたい気持ちはある。だが、一応は助けてもらったのだ。

 わたしは言葉をぐっと飲み込んで、けれど飲み込み損ねた言葉を一言だけ零す。

「師匠のばーか」

「なっ! ばかとはなんだテメェばかとは! ばかって言ったほうがばかなんだかんな!」


◆◆◆


 ここから先は後日談である。


 三日後、レイノイは本当に回復して元気に動き回れるようになった。師匠の診断によると、それでもまだ、あの剣を使える状態ではないらしい。もっとも、彼女曰くあれは秘中の秘だ。そうそう使う機会など訪れないだろう。

 それから、レイノイはすぐにイステス家にことの次第を報告した。イステス家の当主は息子であるシージュと彼に協力したストリチェスをそれはそれは厳しく叱りつけたようで、レイノイが二人を庇うことになったのだとか。


 新聞の一面を飾った今回の事件は一時、街を騒然とさせたが、という真相が報じられると話はすぐさま沈静化した。まったく貴族とは恐しいものである。


 だが、そんな収束を待たずして、レイノイは家督相続の報告と二人の葬儀のため本家へと帰って行った。あの黒髪の従者を引き連れて。


 そしてわたしはというと――極寒の地、アラスカに来ていた。

 なんでも、江渡ヵ島に来る直前、アメリカで師匠はここでの仕事を引き受けていたらしい。まったくこのばか師匠は……。

 だけど、そんな彼と一緒ならわたしはきっとこれから先も楽しくやっていける――そんな気がするのだ。


(了)

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江渡ヵ島の殺人 砂塔ろうか @musmusbi

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