第5話
「白い結婚とは、いったいどう言う事なんだ!」
「お父さま、声が大きいですわ、周りに聞かれてしまいましてよ?」
翌日。首尾を確かめに来たマルセル伯爵は、彼女の報告を聞くと顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。レイチェルが紅茶を飲みながらやんわり窘めると、メイドの目を気にしたマルセル伯爵が行儀良く座り直す。
「おほん。……それで、どうする気なんだ? 我が娘クリスティーナよ」
「そうですわねえ……。こればっかりはわたくし一人でできることではありませんから……」
「クリスティーナ!」
「大丈夫ですわお父さま。ちゃんと策は考えてあります。ただ、あの臆病な王子を動かすには、少し時間がかかると思いますの。待ってくれますわよね?」
それからそっと顔を寄せて、マルセル伯爵にだけ聞こえるよう囁く。
「その間、くれぐれもわたくしの両親をお願いいたしますわ。もし彼らに何かあったら……わたくし気が動転して、あることないこと、国王陛下に吹き込んでしまうかもしれません」
暗に“両親に何かあったら全部告げ口して伯爵家もろとも潰してやる”と脅せば、男の顔がぶるぶると震えた。本当は怒鳴りたくてたまらないのだろう。が、そばには何人ものメイドが控え、常にこちらの様子を窺っている。
(今は形勢逆転していること、ようやく気づいたかしら?)
実はこれが、レイチェルがあっさりと彼の企みを受け入れたもう一つの理由だった。
“妃殿下”となった娘の権力は、時に実親であるマルセル伯爵よりも上になる。
ただの村娘だったら、脅してきた貴族を脅し返そうなどという恐れ多いことは考えなかったかもしれない。だがレイチェルは貴族社会で長年過ごした元公爵令嬢。黙ってやられるほどやわではなかった。
非常に危険な賭けではあったが、さいわい今のレイチェルには勝機が見えている。ダミアンが、身代わりである彼女を受け入れてくれたからだ。
(もう少しダミアンさまと仲良くなって土台を固めたら、頃合いを見て両親の保護をお願いしなければ。脅しが効いているうちはいいけれど、いつこの男の限界が来るかわかりませんもの)
マルセル伯爵に脅しをかけた以上、すでに“一夜だけ過ごして元通りの生活に戻る”という選択肢は消え去った。これからはいかにマルセル伯爵を飼い殺しながら、両親と自分の身の安全を確保するかにかかっている。
(そもそも、わたくしが役目を果たしたとしても、この男が安全を保障してくれるとは限りませんしね……)
人を雇い、家族ごと葬り去れば秘密は永遠に闇の中。マルセル伯爵なら平気でやりそうな手だ。むしろその可能性の方が強いと、今になって思う。
「大丈夫です。わたくし、お父さまの悪いようにはいたしませんわ。こんないい生活をさせてくれたんですもの……きっと恩返しいたします。王家との繋がりが欲しいのでしょう? ゆくゆくは官職にお父様をと、国王陛下にお願いするつもりです。どう? クリスティーナにこんな考えができまして?」
猫なで声を出しながら鞭の後に飴を差し出せば、多少機嫌を直したらしいマルセル伯爵が顎髭をなでた。純粋無垢なクリスティーナには考えつけない
「ふむ……。まあ、わかっているならいい。その調子で励めよ」
「はい、お父さま」
にっこりと、心の奥では全く笑ってない笑顔でマルセル伯爵を玄関まで見送ると、話は済んだとばかりにレイチェルは伸びをした。それから気を取り直して腕まくりをする。
「そんなことより、ダミアンさまですわね」
◆
『これは何?』
テーブルにずらりと並べられた昼食を前に、ダミアンは怪訝な顔をして手帳を差し出した。その隣には、ニコニコ顔のレイチェルが座っている。
「今日のメニューは鳥もも肉のハーブソテーに、野菜たっぷりパワーサラダ。さらにこちらも野菜たっぷりヘルシースープに、デザートの林檎ですわ」
『そうじゃなくて、いつもと全然メニューが違う気がするんだけど』
「ええ、だってシェフに確認しましたら、あなたの好きな食べ物って脂身ばっかりなんですもの。牛肉に豚肉にバターにマーガリンにチーズにケーキにマフィンに……。そんなんじゃ、肥える一方ですわ」
全く、困った人ねとでも言うようにレイチェルは頬に手を当てた。
一方、“肥える”と言う単語に思うところがあったらしいダミアンは、何も言わずに渋い顔で目の前の食事を見つめている。
「ダミアンさま、本当は痩せたいのでしょう?」
レイチェルが声を抑え、そっと囁いた。
「だったらやはり食事ですわ。それから運動。わたくしも一緒に頑張りますから、どちらも無理のない範囲で頑張りましょう。ね?」
長い沈黙の後、ダミアンは返事の代わりにスプーンを手に取った。それからスープを一口含み、何も言わずにモギュモギュとレタスを噛み締める。泥でも食べているかのような表情だったが、なんとか飲み込むと、やはり何も言わずにチキンソテーを口に運んでいく。だんだん食べるペースが速くなっているあたり、味は問題ないらしい。
「お気に召したみたいで良かったですわ。実はわたくし、料理は得意なんですの」
レイチェルが言うと、ダミアンがむぐっと喉に詰まらせかけた。慌ててレモン水を飲み干し、手帳を突き出す。
『君が作ったの?』
「はい。さすが王宮ですわね、良い食材がよりどりみどり……シェフの仕事を奪わないようにするのが大変でしたわ」
レイチェルは食材の豊富さを思い出して、うっとりと目をつぶった。
平民であるレイチェルは、当然自分で料理をする。さらに飯屋の厨房にも時々立たせてもらっていたから、腕にも自信があった。
「まあ! 綺麗に完食! 嬉しいですわ。おやつにはブルーベリーをつまみましょうね。次の気象観測が終わったら、夕食の前に私と軽く体操しましょう」
太っている人がいきなり運動をすると、足腰をやられると村人から聞いた事がある。レイチェルはダミアンの日課となっている気象観測が終わるのを待つと、以前伝授してもらったお年寄りにも優しいという体操を一緒に始めた。
「はい! 伸ばして〜! 両腕あげて〜! しゃがんで〜!」
騎士たちが稽古時に着るようなシャツとズボンという軽装に着替え、レイチェルとダミアンは庭で体操をしていた。その隣でヴァイオリンを抱えた音楽家が、死んだ顔で妙に軽快なリズムの音楽を奏でている。
「んっ! 意外と、これ、馬鹿にできませんわね! 結構、息が、切れますわ! ねっ! ダミアン、さま!」
腕をぐるぐると回しながらレイチェルが言えば、その隣ではダミアンがフゥフゥと顔を真っ赤にしながら体操している。老人向けと聞いていたが、今のダミアンにとっては十分すぎる運動らしい。
「さ、体操が終わったら、次は夕食ですわ! 野菜と魚介のゼリー寄せに、トマトと野菜の具沢山スープ。デザートには大盤振る舞いで、さっぱりしたレモンのチーズケーキ。今回はシェフと一緒に考えましたの」
夕方の観測を終え、再び食事の席についたレイチェルが説明しながらシェフを指し示す。大きな体に似合わずつぶらな瞳を持つシェフは、うるうると瞳を潤ませていた。
「おお、ダミアン殿下が野菜を食べているなんて……! 厨房を任されるようになって早数十年、私、大変感激であります」
「ダミアン。あなた今までお野菜を食べなかったの?」
彼女の問いに、その場にいた者たちに緊張が走る。
レイチェルは知らなかったのだが、今まで食事の時に嫌いなものを無理に勧めると、とたんにダミアンは癇癪を起こしていたのだ。
けれど今のダミアンはふいと顔を背けただけで、文句も言わず、癇癪も起こさず、ただモギュモギュと葉っぱを咀嚼するばかり。
興奮した侍女に、「妃殿下は、一体どんな魔法を使われたのですか!?」と聞かれても、レイチェルにはこう答えることしかできなかった。
「『肥える一方ですわよ』と言ったのが効いたのかしら?」
それは誰にも真似できません、と言った侍女の表情は笑っていた。
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