第2話
結婚式までは、一瞬だった。
マルセル伯爵は、本当にレイチェルが王子と一夜さえ過ごせばいいらしい。クリスティーナの真似もそれほど強要されなかったし、ましてや家庭教師をつけて勉強させるようなこともしなかった。
「お前が王子によって純潔を失った後は、すみやかにクリスティーナと入れ替わるんだ。そうすれば変な波風は起きず、みんなが幸せに過ごせる。くれぐれも余計なことは言うなよ。わかったな?」
「はい、わかりましたわ」
花嫁姿の娘(ただし身代わり)に、こんな厳しい顔をした父親は他にいるだろうか。いや、いない。レイチェルは嫌々ながらもマルセル伯爵の腕に手をかけると、真っ白なヴァージンロードを歩き出す。
小さな教会は、仮にも第二王子の結婚式だというのに、驚くほど人が少なかった。そもそもこの教会自体、王宮からだいぶ離れた場所で隠れるように行われており、どれだけ第二王子の人望がないかということがわかる。参列者の中に国王陛下と王妃、第一王子の姿がなかったら、レイチェルですら信じられなかったくらいだ。
そして新郎の位置に立つのは――。
(あら、もしかしてわたくしより背が低い?)
縦よりも横に伸びてしまったずんぐりとした体型に、猫背になっているせいでさらに背が低く見えるその人が、夫となるダミアン王子なのだろう。服はちゃんと寸法を確認したのかと思うほど背中がピチピチで、いつボタンが弾け飛んでもおかしくない。
その上王子はレイチェルが来たのに気づくと、目を合わせるどころかサッと顔を背けてしまった。仕方なく、レイチェルは気の乗らない顔で横に立った。その後何やら長ったらしい誓いの言葉を言わされ、少ないながらも熱のこもった拍手を受け(主にマルセル伯爵の座っているあたりから)、おでこにチュッとされたかと思うと、あっという間に結婚式は終わった。
◆
「で、いつ来るのかしら。あの方は」
新婚夫婦のために与えられた離宮の一室、広いベッドに鎮座しながらレイチェルはイライラしたように言った。
先ほどから、ヒラッヒラでフリッフリのナイトドレスに身を包んで夫となった人物を待っているのだが、待てども暮らせども一向に来る気配がない。
(一体何をしていますの? 無事にことが終われば、わたくしは解放されますというのに……)
待ち疲れて、気分がささくれ立ち始めている。こう言うのは待っている側だって緊張するのだ。
(それともまさか、来ないつもり?)
何せ結婚式では、まともに顔も見えないぐらい露骨にレイチェルのことを避けていた。ありえない話ではない。
「ならば、私から行くまでですわ!」
レイチェルはガウンを羽織ると、柔らかなスリッパを履いて部屋を飛び出した。どうも一度死んでから、恥じらいもどこかに落としてきてしまったらしく、淑女らしくない振る舞いも平気でできる。
そうして捕まえた侍女に案内させた小さな部屋で、文机を前にぼんやりと座るダミアン王子の姿を見つけたのだ。
「見つけましたわ! ここにいらっしゃいましたのね!」
人払いをし、扉を開けるなり叫んだレイチェルを見て、王子の口から「ヒィッ」と悲鳴が漏れる。そのままズンズンと詰め寄ると、ダミアン王子は狼に遭遇した豚のように慌てふためき、後ずさった。
「く、く、っ、く、くる、くる、くるな!」
(どもり持ちというのは本当ですわね。でも、お顔は意外と悪くないんじゃなくて?)
レイチェルは目の前の夫をじっくりと観察した。
色々と肉に埋もれているせいで到底美男には見えないが、大きな青い瞳はぱっちりとしてまあ可愛いと言えなくもないし、白豚と呼ばれるだけあってお肌は陶器のように滑らか。くるりと巻き気味の金髪もなかなか綺麗な色をしていて、全体的に覚悟していたほど酷くはない。……気がする。
「き、き、きみ、きみは! な、なん、なん、なんなん、だ!」
(こんな短い単語を話すのに、そんなに時間がかかりますの? ……大変そうだわ)
真っ赤になった顔からして、本当はもっと言いたいことがたくさんあるのだろう。だが重度のどもりのせいで、ほとんどが言えてないようだ。
彼はレイチェルに立ち去る気配がないことを知ると、そばの長椅子にあったクッションを手当たり次第投げ始めた。
「あ、あ、あ、あっち! あっち!」
「きゃっ!」
(怒って物を投げるという話も本当ですわね!)
何とか避けるが、すぐさま追加のクッションやらブランケットやらが手当たり次第に飛んでくる。幸いなのは、花瓶などの危険物が混じってなかったことだろうか。
(――いえ、混じってないんじゃなくて、最初から置いてないんですわね、きっと)
レイチェルは考え直した。
離宮とは言え王族が住まう場所に、花瓶の一つも置いてないわけがない。これはダミアン王子の癖を知っている周囲のものが、わざと置かなかったのだろう。
(それだけ、殿下の性格が知れ渡っているということ……)
眉をひそめて、レイチェルは再度目の前にいる王子を観察した。
――泣いてないのが不思議なくらい顔を真っ赤に歪め、幼い子供のような癇癪を起こしてレイチェルを追い払おうとする姿は、とても十五歳になる王子の振る舞いには見えない。年下とはいえ、あまりにも幼稚すぎた。
(わたくしの知っている王子は、こんな方ではなかったわ。あの方は幼い頃から努力家で、いつも凛としていて……)
そこまで考えてハッとする。
(やだ、ここまで来てまだあの方を思い出しているなんて。やめましょう。不毛ですし失礼ですわ)
つい前世で愛した王子と目の前の王子を比べてしまい、レイチェルは小さく頭を振った。
(今はそれよりも目の前のこと。どうにかこの方に、わたくしの純潔を奪って頂かなくては)
普通の令嬢が聞けば失神しそうなことを考えながら、レイチェルはジリジリとダミアンに近づいていく。相変わらず手当たり次第に物が飛んでくるが、まずは彼と落ち着いて話をしたかった。
「ねえ、別に何も、取って食べようというわけじゃありませんのよ。わたくしはほんの少し……そうね、あなたとお話がしたいの」
つい口調が幼児に話しかけるそれになってしまうが、咎めてくるような相手でもない。というより、咎めたくてもあのどもりでは怒るのも難しいはずだ。ひょいと、枕をよけながらレイチェルは続ける。
「そうね、何から始めましょうか。まずはわたくしの自己紹介から行きましょう。わたくしは、レイチェ……、ええと、クリスティーナよ」
(しまった! わたくしとしたことが)
飛んでくる物を避けるのに神経を使いすぎて、うっかり本名を口にしてしまった。慌てて言い直し、取り繕うように微笑んでみせる。
(ま、まだ大丈夫よ。殿下はわたくしに興味がなさそうだったし、もしかしたら聞き逃している可能性も――)
けれど、彼女の期待に反して、レイチェルという名にピクリとダミアン王子の動きが止まった。同時に先ほどまでの子供じみた表情から一変して、鋭く、知性すら感じさせる瞳でレイチェルを見たのだ。
思わぬ反応に、今度はレイチェルが驚く番だった。
(この方、こんな
それは、とてつもない発見に思えた。まるで砂の中から砂金を見つけたような、石ころの中からダイヤの原石を見つけたような――。
一滴のしずくが
(この方に、真実を話したらどうなるのかしら。怒る? 泣く? それとも……)
そんな危険を冒してはいけない、このまま誤魔化せと理性が警告を鳴らしてくるが、同時に「誤魔化せない」という予感もしていた。
しばらく考えた末に、レイチェルは思い切って口を開く。
「てっきり、あなたはわたくしに興味がないから平気かと思っていましたのに……その様子だと気付いてしまわれましたね?」
まずは様子見として軽い調子で言うと、ダミアン王子がさらに深くレイチェルを見つめた。その瞳は、警戒と興味の両方で爛々と光っている。王子の妖しい光に釣られるように、レイチェルは続けた。
「ごめんあそばせ。実はわたくし、あなたの妻になるはずだったクリスティーナではありませんのよ。ただの平民。いわゆる身代わりというやつですわ。――怒りまして?」
(言ってしまったわ!)
表面上平静を装っているが、内心不敬極まりない発言にレイチェルは心臓が破裂しそうだった。
それに対して、ダミアンの下唇が不機嫌そうにヌッと突き出される。が、彼はすぐに顔を引き締めたかと思うと、ゆっくりと首を横に振った。その顔にはどこか諦めの雰囲気が浮かんでおり、寂しささえ感じられる。
(やっぱりこの方、意外と――)
予感が確信に変わるのを感じながら、レイチェルは尋ねた。
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