第3話

「あなた、怒らないんですの? どう考えたって、不敬罪に当たりますのに」

「そ、そ、それ、それ、それは……」


 ダミアンは何か言おうとして……けれどうまく言えず、黙り込んだ。


 その顔から滲み出る苦渋は、きっと彼がこうして言うのをやめた言葉が一つや二つではないということを如実に語っている。


(……気の毒ですわ)


 レイチェルの中に、同情が生まれ始めていた。王子という、常人より遥かに恵まれた立場でありながら、彼はきっとその幸運をうまく享受できていないのだろう。まるで昔のレイチェルのように。


(いえ、苦しいことも多かったけれど、わたくしの方が遥かに公爵令嬢生活を楽しんでいましたわ。それと比べてしまうのは、彼に失礼かもしれない……)


 レイチェルは辺りを見渡した。喋るのがだめなら、筆記はどうだろう。先ほど見た机の上に、羽ペンがあったはずだ。


「あっ、ありましたわ」


 目当てのものを見つけ、嬉々として文机に歩み寄る。それからふと、羽ペンのそばに開かれている小さな手帳に目が吸い寄せられた。開かれた頁は、びっしりと手書きの文字やら記号やらで埋め尽くされていたのだ。


「あら?」

「あっ」


 レイチェルが本を覗き込むと、ダミアンは小さく声を上げた。


 どうやらこれは彼が書いたものらしい。十五歳とは思えぬ、流れるような美しい字。ついつい魅了され、個人的な手帳であることも忘れてレイチェルは中身を読もうとした。


「あ、あ、ああ、あの、あの!」


 とたん、ドタドタと体を揺すりながら、顔を真っ赤にしたダミアンが走ってくる。そこでレイチェルはやっと手帳から目を離した。


「ごめんなさい! わたくしったらつい……。それにしてもあなた、字がとても綺麗ですのね。先生の書くお手本のようだわ」


 感心して褒めれば、彼は首を横に振り、困ったように口元をもにゅもにゅと動かす。


「ね、何か他に書ける端切れはないかしら。あなたの気持ちを紙に書いてくれればいいと思うのよ」


 手帳はあるが、それは彼の大事なものだろう。流石に使わせるわけにはいかない――と考えていたのに、肝心の本人は、なんとためらうことなくサラサラと手帳にペンを走らせ始めた。


「あっ! それを使っていいんですの?」


 戸惑うレイチェルを尻目に、彼は手帳をヌッと突き出す。


『ここに書く』


「……まあ、あなたがいいのなら、わたくしは構いませんけれど」


 レイチェルが言えば、ダミアンはコクリと頷いた。それからすぐにまた何かを書いて、目の前に突き出してくる。


『先程のことだけど、君が身代わりだとしても、僕は怒らない。何故なら僕には資格がないからだ』

「資格がないってどう言うことですの? ……まさかあなたも身代わり?」


 その答えに彼は面食らったようだった。ブンブンと首を振ってから、慌ててペンを走らせる。


『違う。僕は本物だ。でも見ての通り、醜い上にまともに喋ることもできない、“できそこない”なんだ』

「つまり……あなたは“できそこない”だから、家臣が身代わりの娘を寄越してきてもしょうがないと、受け入れるおつもりなのね?」


 問いかければ、そうだとでも言いたげにダミアンが憮然とした顔でうなずく。


(確かに、この方は太っていて、うまく喋れなくて、何より振る舞いが乱暴。王族としては失格ですわ。……でも)


 ダミアンの言葉に、なぜかレイチェルの方が言いようのないモヤモヤを感じていた。何故そう感じるのかわからないまま、正体を見つけるために心の中で整理する。


――先程、彼が投げてきたのはクッションやブランケットなど、当たってもそこまで痛くないものばかり。もちろん花瓶などは最初から置かれていなかったが、ペンを投げることだってできたはずだ。


――次に、レイチェルが真実を告白した時。彼は怒り狂って暴れることもなく、自分がいたらないせいだからと静かに受け入れた。


――そして最後に一つ、大きく気になることがあった。


「……あなた、できそこないと言うには少し早いと思いますの」


 言いながら、レイチェルは手帳を指さす。


「そこに書かれているのは、気象観測の記録じゃなくって?」


 先程チラリと見えた手帳に記されていたのは、一見するとただの天気の記録にも見える。だがそこには、温度や気圧の数字に加え、風向きや風力など、資料とも呼ぶべき情報がびっしりと書かれていたのだ。


 レイチェルの指摘にダミアンは目を丸くした。サラサラと、手帳に新たな言葉が書き足される。


『なぜ気象観測だとわかった?』

「ちょっとした嗜み、ですわ」


 ダミアンの問いに、うふふと笑って誤魔化す。まさか前世で、家に来ていた家庭教師に見方を教えてもらったなどとは説明できない。


「それよりも……こんな緻密な記録が書ける人が“できそこない”って、ちょっと説得力に欠けますわよ。そもそも本物のお馬鹿さんは、文章なんか書きませんし」


 レイチェルは前世で、いわゆる本物のお馬鹿さんを見たことがある。


 伯爵令息だったその男は見た目こそよかったものの、頭にあるのは女と酒とギャンブルばかり。振る舞いも軽薄そのもので、当時王子の婚約者だったレイチェルにすら手を出そうとしてきたため、思いっきり横っ面を叩いたことがあった。


 そんな彼と比べたら――比べるのは大変失礼だと言うことはさておき――物を投げるという大きな欠点こそあれ、不敬極まりない発言にも取り乱さず、さらに気象観測のような根気と知識を必要とする作業ができるダミアンは、できそこないとは言えない気がしたのだ。


「そんな風に自分を卑下するのはおやめくださいませ。人間、誰でも多少の欠点はありますから、その範囲内でしてよ。そうね、物を投げる癖はきっちり直すとして……あなたが名乗っていいのは、せいぜい“変わり者”ぐらいかしら?」


 これまた王子相手に失礼極まりない発言である。

 だが肝心のダミアンはと言うと、やはり怒るでも泣くでもなく、どうしたらいいかわからないような、途方にくれた顔をしただけだった。


「んもう、まどろっこしいですわね! よろしくてよ。ならわたくしが、あなたができそこないじゃないってこと、証明して差し上げますわ!」


 本来の目的も忘れ、レイチェルは腰に手を当てて言い放った。


――これが二人の、長い付き合いの始まりとなることも知らずに。

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