第6話
「これは何ですの?」
『水銀気圧計。割れたら危険だからあまり触らないで』
「この丸いのは? 綺麗ですわ」
『ストームグラス。大まかな天気が予測できるんだ』
「あっこれは知っていますわ。風見鶏! でもなぜ室内に?」
『デザインが好きで集めている』
「あらっ! すごい。これ全部観測記録ですの!?」
『正式なものは見やすいよう、全部ここに書き写してある。手帳はただのメモだよ』
日を重ねるにつれ、二人の距離はどんどん縮んでいった。初めは近づくだけでも嫌がっていたダミアンがいつしかそばに寄っても怒らなくなり、ついには塔にある、彼の“研究室”に入ることまで許された。
初めて見る不思議な形の装置に驚きの声をあげれば、すぐにいそいそと説明が寄越される。ダミアンの説明は非常にわかりやすく親切で、読めばレイチェルですら使いこなせそうな気がしてくるほどだ――実際には気がするだけだが。
レイチェルが褒めると、ダミアンは顔を真っ赤にし、また大量の注意点やらうんちくやらを書いて寄越す。レイチェルはそんな彼を見るのが好きだった。
天気について語っているダミアンは、夜空に瞬く星のように瞳がいきいきと輝き、とても楽しそうだからだ。
「今日は会わせたい人たちがいますの」
すっかり日課となった朝の体操を終え、レイチェルはおもむろに切り出した。途端にダミアンの顔に警戒が走る。彼はだいぶレイチェルに懐いてきてはいたが、それ以外の人間に対してはまだまだ自分の殻に閉じこもりがちだ。
「そんなに警戒なさらないで。ダミアンさまもよく知っているあの方もいらっしゃいますわ。……ほら、皆様こちらへどうぞ、先生も」
やってきたのは、隠居した前の環境大臣であり、ダミアンに気象観測を教えた先生その人。ダミアンに負けず劣らずの小柄さに、禿げ上がった頭は磨いた玉のようにツルツルで、いかにも人の良さそうな好々爺だ。
その後ろを、まだ年若い役人が二人、おずおずとついてきている。
「おおお、これはこれはダミアン殿下! お元気そうでようございました。もう一度お会いできる機会を作っていただき、妃殿下にもまこと感謝申し上げる。わしは嬉しいですぞ。なんでもまだ観測を続けておられるのだとか! 結構、結構。何事も継続ですからな」
ニコニコしながら早口でまくし立てる先生を、ダミアンは目を見開いて見つめている。その顔に喜びらしき感情は浮かんでおらず、不安になったレイチェルはそっとダミアンに囁いた。
「……もしかして、呼ばない方がよかったかしら? あなたがよく先生の話をしているから、お会いしたいのかと思って呼んだのですけれど……」
ダミアンがレイチェルを見た。それからいつもの手帳にペンが走る。
『驚いただけだよ』
そこで一旦ダミアンは手を止め、しばらく考えてから再度さらさらと書き出した。
『正直自分でもよくわからないけど、嬉しいんだと思う。……多分』
最後の方は自信なさげになった筆跡を見て、レイチェルは微笑んだ。そんな二人を見ながら先生がカッカと笑う。
「おお、相変わらず殿下は寡黙でいらっしゃる。結構、結構。昔からそうでしたな。それでいてわしが話している間、瞳だけはキラキラとしているもんですから、すぐわかりましたよ。あなたが心から喜んで話を聞いていると」
「そうなんですの。ダミアンさまって、意外と瞳に感情が出ますわよね?」
「さすが妃殿下、よく見抜いていらっしゃる。殿下は色々と勘違いされやすいですが、この方ほど知的探究心に溢れ、かつ研究熱心な生徒をわしは未だかつて見たことがありませんよ。いまだ忘れられません、初めて殿下とお会いした時に――」
「先生、話の腰を折って申し訳ないのですけれど、後ろのお二人を紹介して頂いても?」
放っておけば永遠に一人でダミアンのことを話し続けそうな先生を、レイチェルが素早く止めた。
「おおっと失礼! わしとしたことが殿下の話で盛り上がりすぎてしもうたわい」
ぺちん、と禿げあがった頭を叩いて先生が二人を指さす。いかにも育ちのいいお坊ちゃま、と言った風情の役人たちが慌てて頭を下げた。
「この二人はわしが現役だった頃の補佐官での。殿下の気象観測のことを話したらぜひ見せて欲しいと頼まれたので、連れてきたんじゃ」
「わたくしが許可しましたの。もし嫌ならおっしゃってくださいませ、殿下」
ダミアンには同世代の友達がいない。というよりそもそも友達がいない。だから先生から話を聞いた時、レイチェルは考えたのだ。あわよくばこの二人を、部下兼友達にできないものかと。
こう見えて二人ともいい家の令息であるため、彼らがダミアンの人となりを知れば、評判回復の役目を果たしてくれる可能性もある。
――そうしたレイチェルの下心ありありの企みは、見事成功した。
例の二人はダミアンに負けず劣らずの“気象愛好家”だったようで、
「すごい! 緻密! すごい! 王宮に保管してあるものより詳細に書いてある!」
「一体何年分あるんですかこの資料! まさかこれをずっとお一人で!?」
と、キャッキャと盛り上がったかと思うと、ダミアンを即“優秀な研究者”の座に置いて、崇め始めてしまったのだ。
始めはひたすらブスッとしていたダミアンも――ちなみにこれは彼の照れ隠しの癖である――褒め言葉の猛攻撃に、あっさり陥落。気がつけば手帳を駆使しながら、二人とすっかり打ち解けてしまっていた。
そんな穏やかな日々を過ごすうちに、気づけばダミアンにはささやかな変化が訪れ始めていた。
まず、数ヶ月にわたる必死の食生活改善と運動により、劇的に痩せた。
多少のぽっちゃりさは残っているものの、肉に埋もれていた各所のパーツが明確に現れ始め、同時に良質なお肉を摂取したからか、はたまた単に成長期のおかげなのか、背がすくすく伸び始めた。
人とは恐ろしいもので、外見が変わると、その人の評価が百八十度変わってしまうこともある。
「ねえ、最近のダミアン殿下って、ちょっとステキじゃない?」
「わかる。あのくらいのぽっちゃりなら、全然アリよね」
なんて、多少失礼な侍女たちの噂話も聞こえてくるくらい。
次に、以前は酷かった癇癪――気に入らないとすぐに物を投げる癖――が激減、いや、消滅したと言ってもいい。これは純粋に自分のおかげだと、レイチェルは自負していた。
なぜならダミアンが物を投げるのは、どもりによって意思疎通がうまくできない時だ。そのためレイチェルは常に彼に付き添い、周りとの橋渡し役となることで、癇癪の元を断ち切ることに成功した。
おかげで最近のダミアンは、憑き物が落ちたかのように、穏やかとも言える人物になっている。
これには国王や王妃、兄王子までもがレイチェルに礼を述べに現れ、特に王妃は泣きながらレイチェルの手に口付けさえ落とした。王妃は母として、ずっとダミアンのことを思いながらも、うまく助けてあげられなかったらしい。こぼれる涙に長年の苦悩が見えた気がして、レイチェルはそっと細い手を握り返した。
さらに、ダミアンが一人で黙々と続けていた気象観測と研究は相当なものだったらしい。先生と二人の補佐官だけでなく、気付けば色んな人が彼を頼ってくるようになった。
農作物の育ちは天気によって左右され、航海士たちの安全も海の天気にかかっている。その他にも大雨や日照りなどの天災対策、戦で天候を利用した戦い方など、天気予測の活用法は多岐にわたる。
彼の記録した天気記録と予測情報を求め、小さな研究室には、ひっきりなしに人が訪れるようになっていた。
◆
「ねえ、気付いてらして? 今やもう、誰もあなたを“できそこない”なんて思っていませんわよ」
夕食を終えた二人は、庭の長椅子で夜空を見上げていた。夜間の雲の動きや濃さも重要だと彼が言うため、こうして時々一緒に夜空を眺めるのだ。
『まだ早いよ。吃音は全然治っていないんだし』
さらさらと紡ぎ出される筆跡は相変わらず美しくなめらかで、なんでもない言葉すら、詩歌の一節に見えてしまう気がする。
「それはこれから気長に治せばいいんですわ。馬は馬方と言いますでしょう? 何人か、良さそうな医師は目星をつけていますのよ」
『それはそうだけど……問題は吃音だけじゃない気がする。もし君がいなくなったら、また何もできない頃に逆戻りしてしまうかもしれない』
レイチェルは驚いて彼を見た。
「それ、ちょっと口説き文句に聞こえますわね」
からかうと、とたんにダミアンの顔が赤くなる。こういう所ではまだまだうぶなのだ。ちなみに二人の白い結婚もいまだ継続中である。
「大丈夫ですわ」
言いながら、レイチェルはコツンと、ダミアンの肩に自分の頭を預けた。すぐさま彼の体が緊張で強張る。
「あなたは立派になりましたわ。それはみんなが知っているもの。わたくしがいなくても、きっとうまくやっていけます」
(そう……もうわたくしがいなくても、ダミアンさまは立派にやっていけるわ。それならわたくしは、これからどうするべきなのかしら……)
数ヶ月かけて絆を深めながらも、ダミアンは決してレイチェルに触れようとはしなかった。
レイチェルが身代わりであるということは彼も知っている。その上で、彼からはいていいとも、いなくていいとも言われていない。
(流石に身代わりがずっと居座るのは、無理がありますわよね……。わたくしも、新しい身の振り方を考えなければいけないかもしれない)
それはここ最近、レイチェルがずっと考え、悩んでいたことだった。
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