第7話
「ああ、レイチェル! 会えて嬉しいわ」
「さあ可愛いお顔を、もっと母さんと父さんに見せてくれ」
数ヶ月ぶりに会った両親は、泣きながらレイチェルを抱きしめた。
ここはレイチェルやダミアンが暮らす離宮の一室。
レイチェルは、ついに両親をマルセル伯爵の監視下から連れ出すことにしたのだ。当初はマルセル伯爵を追放した後、安全な国を探しそこに身を隠す計画を立てていたが、王宮医なら母の病気を治せるかもしれないことが判明。散々悩んだ末に連れてきたのは、ダミアンの後押しがあったからだ。
『離宮に連れてくれば、僕が手出しをさせない』
彼にしては珍しく力強い筆跡で書かれたその一文は、王族らしい威厳に溢れていた。もう大丈夫だと、レイチェルが思えるほどに。
だからレイチェルは決行した。そのタイミングでもう一人、呼び寄せる。
「本当に、なんとお礼を申し上げたらいいのか……! 妃殿下には感謝しても、しきれません」
そう言って頭を垂れた若い騎士は、何を隠そう、クリスティーナの恋人だった。彼はマルセル伯爵の手によって北の僻地に飛ばされていたのだが、それをダミアンの護衛騎士として連れ戻したのだ。ダミアン付きになれば、マルセル伯爵にも手は出せない。そうしてゆくゆくは、手紙でマルセル伯爵のことを報告してくれているクリスティーナと再会させるつもりだった。
全てがうまくいっていた。行き過ぎ、とも言えるほどに。
――だからレイチェルは、油断していたのだ。
「妃殿下、妹と名乗る方がお見えになっております。お会いされますか?」
やってきたのは、最近小間使いとして入った少年。両親のために新しい小間使いを何人か増やしており、この少年もその一人だった。
「妹?」
「はい、名をレイチェルと。妃殿下とよく似ていらっしゃって……泣いておりました」
まだ関係性をよく把握できていないのだろう。小間使いは自信なさげに答えた。
(レイチェルの名を知っていて、なおかつよく似ている人物と言えばクリスティーナよね? どうしたのかしら?)
何か深刻な事態になっているのだろうか。泣いているという言葉に、レイチェルは慌てて飛び出していく。足早に歩きながら小間使いに確認する。
「お父さまも一緒?」
「ええと、お父君はいらっしゃらなかったと思いますが……」
「そう、ならいいわ」
案内されたのは、貴賓室から少し離れた庭の片隅。そこでクリスティーナは、草むらに隠れるようにして泣いていた。
小間使いを帰らせ慌てて駆け寄ると、クリスティーナが泣きながらレイチェルに謝る。
「ごめんなさい、レイチェルさま、わたくし……」
「一体どうしたの? 何があって?」
「何かあったのは、お前の方だ。この偽物めが!」
冷たい声が、レイチェルの耳朶を打った。急いで振り向いた先には、レイチェルの逃げ道を塞ぐようにマルセル伯爵が立っていた。彼はいつもの豪華な服ではなく、質素な制服を着ている。――どうやらクリスティーナの従者として紛れ込んでいたらしい。
「あらまあ……。お父さま、いつから従者の真似事を始めましたの?」
「ふざけたことを! 私を門前払いするから、こうするしかなかったんだ!」
ダミアンの計らいか、知らぬうちにマルセル伯爵は門前払いされていたらしい。怒った牛のようにのっしのっしとやってきたマルセル伯爵が、ガッとレイチェルの腕を掴む。
「痛いですわ。落ち着いてくださいまし」
「何が落ち着いてだ! 言え! お前の両親をどこに隠した!」
マルセル伯爵の顔は怒りのあまりドス黒く変色し、目はギョロギョロと血走り、まるで狂人のよう。
(油断しましたわ……! まさか変装してやってくるなんて)
マルセル伯爵の本気を舐めすぎていた。加えて、応じたのが新入りの小間使いというのも運が悪かった。なんとか彼を落ち着かせないと。レイチェルが必死に言葉を探す。
「それよりお父さま、最近わたくし国王陛下の顔の覚えもめでたいのですのよ。そろそろお父さまを官職に……むぐっ!」
「何がお父さまだ白々しい! 知っているんだぞ。両親だけでは飽き足らず、あの汚らしい騎士まで呼び寄せたそうだな!? どうせ俺はもう破滅の身。こうなったらお前だけでも道連れにしてやる!」
完全に逆上したマルセル伯爵は、なだめようとするレイチェルの口を塞ぐとそのまま彼女をどこかへ連れていこうとする。彼の力は信じられないほど強く、両足で踏ん張ろうとしても踏ん張りきれず、逆に膝をついたところをそのままズルズルと引きずられてしまう。
(なんて力ですの!)
「お父さまやめてくださいませ! これ以上レイチェルさまに乱暴をしないで!」
「うるさいっ! お前は一体誰の味方なんだ! つべこべ言っていないで手伝え!」
怒鳴られて、クリスティーナの肩がびくりと震えた。長年、父親に押さえ込まれながら生きていた娘だ。逆らえるはずもない。
そう思っていたのに、彼女は予想に反して、強い意志を宿した瞳で父親をにらみつけた。
「……いいえ。お父さまのやっていることは間違いです。もう、お父さまの言うことは聞きません。人を呼びますから!」
なんとそう言って、さっと身を翻したのだ。これに慌てたのはマルセル伯爵の方。このままではクリスティーナが助けを呼んできてしまう。今まで以上の力で、無理矢理レイチェルを連れていこうとする。
だが、それよりも早く複数の足音がしたかと思うと、騎士たちと共に、必死の形相をしたダミアンの姿が見えた。レイチェルの口は相変わらず塞がれたままだったが、彼の姿が見えたことで安心し、じわりと涙が目に浮かぶ。
「レイチェル!!!」
――それは、初めて聞くダミアンの叫びだった。同時に、彼が初めてレイチェルの名を呼んだ瞬間でもあった。
「き、き、き、貴様! 僕の妻に何をする! この者を捕らえよ! 彼女を救うんだ!」
どもりながらダミアンがばっと手を伸ばせば、騎士たちが素早くマルセル伯爵を取り囲む。
とたんに、これだけの凶行に及びながら何も武器を用意していなかったらしいマルセル伯爵がたじろいだ。その一瞬の隙に、レイチェルは自分の体をくるりと反転させ、伯爵の股間目掛けて思い切り蹴り上げた。
「そおいっ!!!」
――その日、離宮の庭園でドグッという鈍い音とともに、鶏が絞められた時のような、か細い悲鳴を聞いた者が何人もいたとか、いないとか。
◆
『本当に君はそれでいいのか? もっと重い刑に処すこともできるのに』
憤慨した顔でそう書き殴ったのはダミアンだ。そばでは書記官が、レイチェルの言葉を聞き逃すまいと緊張した顔で書記版を構えている。
「いいんですわ。大体その場で害するならともかく、武器もなしにあの場に乗り込んできてわたくしをさらおうなんて無謀の極み。そんなずさんな犯行を予防できなかったわたくしにも落ち度があります。――それにマルセル伯爵には、もうひと仕事していただかなければいけませんし」
マルセル伯爵に掴まれて痛めた腕をさすりながら、レイチェルが微笑む。
「わたくし、書類上ではまだ名前がクリスティーナですし、まだあなたの妻なんですの。これを“間違いだった”と教会に認めさせて訂正してもらうには、それはもうたくさんのお布施をしなければいけません。それこそ、伯爵家の金庫が全て空っぽになるくらいには」
何かを察したらしいダミアンが、何も言わずにじっとレイチェルを見る。
「それにね、昔お父さまにも約束しましたのよ。いつか閑職につけて差し上げると。だからそうね……とても小さな村の小さな役所で、人手が不足しているというお話を聞きましたの。屈強な村の皆さんとは顔馴染みなんですけれど、なんでも役人と言っても実際は牧場で豚さんのお世話をするのが主なお仕事なんですって。何かと豚が好きなお父さまには、ぴったりだと思わない?」
あらかじめ用意されたセリフのようにスラスラとそらんじれば、ついにダミアンが堪えきれず笑い出した。その声は快活そのもので、とてもどもりに悩まされている人の笑い声とは思えない。
散々笑った後で、ダミアンは笑いに震えながらペンを走らせた。
『わかった。では君の望む通りに進める。何か、お父さまに伝えておきたいことはある? それとも直接言いに行く?』
「そうですわね……。直接会うのはもうごめんですから……」
レイチェルはそばに立つ書記官を見る。彼は慌ててペンを構えた。
「ではこう伝えてくださる? 『いいか、決して逃げるでないぞ。もし逃げたら必ず探し出して、死んだ方がマシだと思う目に遭わせるからな』と」
初めて会った日に、レイチェルがマルセル伯爵から言われた言葉。それを一字一句違えず、そのまま突き返してやることにする。
「承知いたしました! こちら伝えさせていただきます!」
キビキビとした動きで書記官が出ていくと、部屋の中が急に静かになる。気まず気にもじもじし始めたダミアンに、レイチェルがイタズラっぽく微笑みかけた。
「……ダミアンさま、先程はかっこよかったですわよ」
『僕は何もしていない。騎士たちと君が自分で解決したんだ』
「ダミアンさまが来てくださったから、わたくしも勇気が持てましたの」
本当のことだ。駆けつけてくれたダミアンの顔を見た瞬間、もう何も怖くないと思った。
(わたくしには、ダミアンさまがついている)
誰かが自分の味方でいてくれている。そう思えることの、どれほど心強いことか。今度ダミアンにも教えてあげなくては、とレイチェルは密かに決めた。
「ね、ダミアンさま。あの時、わたくしの名前を呼んでくださったでしょう?」
声の響きに異変を感じたらしいダミアンが、警戒した目でこちらを見る。レイチェルの瞳には、イタズラを企む時特有の光がきらめいていた。
「お願い。もう一度だけ呼んでくださらない? 一回でいいの、お願いですわ」
上目遣いで見上げれば、ダミアンが観念したようにため息をつく。
それからレイチェルの前までやってくると、ダミアンはおもむろにその場に膝をついた。
「えっ?」
予想していなかった行動に、今度はレイチェルの顔に疑問が浮かぶ。さらにダミアンは片方の手を自分の胸に当て、もう片方の手でレイチェルの手を取ると、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめた。
「レ、レ、レイ……レイチェル。あ、改めて、ぼ、ぼく、僕の、妻、に、なって、欲しい」
――それは、突然の求婚だった。
驚きすぎると、人間というのは頭の中が真っ白になってしまうらしい。レイチェルはしばらく返事ができなかった。やがて焦れたらしいダミアンが、こほんと咳払いをしてようやく、彼女は笑った。
「――わたくしでよければ、喜んで」
「ど、ど、ど、どうして、泣く」
「あらやだ、わたくし泣いていまして? きっと、嬉し涙というやつですわね」
ほろほろ、ほろほろと、温かな涙は止まることを知らない。次から次へと流れていく雫を、ダミアンのまだ丸みを帯びた指が丹念にすくい上げていく。
「き、き、きみは、ぼ、ぼ、僕の……」
何かを言葉で伝えようとしたらしいダミアンが、けれど小さくため息をついて手帳を引っ張り出す。
『君は僕の天使なんだ』
「あら、ダミアンさまが急に詩人になってしまわれましたわ」
『本当なんだ。君が僕を見つけてくれて、味方してくれたおかげで僕は救われた。それがどんなに素晴らしいことか、僕は伝えなければならない』
「それならぜひ、あなたのお口から聞きたいですわ」
レイチェルが言うと、ダミアンが不満げに下唇を突き出す。
『……いずれ、僕の口から伝えよう。でも、そんなに急がなくてもいいだろう?』
「ええ、それもそうですわね。だって――」
なぜならレイチェルたちは、これから死が二人をわかつまで、たくさんの時を一緒に過ごすことになるのだから――。
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