恋愛ってなんですか

 代官山は初めてだった。

 好きなアパレルブランドのフラッグショップがいくつもあるから買い物に行ってみたいとは思っていたものの、高校生にはどうしても敷居が高いと感じていた。

 まさかアイドルのライブのために来ることになるなんて、人生はわからない。


 改札の向こうに現れた私服姿の刈田くんは、わたしに気づいて口をぽかんと開けた。

「──えっ、えっ、えっ、えっ」

 えっ、を繰り返しながら近づいてくる。気恥ずかしくなって、わたしはさっぱりしたうなじに手をあててへらへら笑った。

「今日はよろしくね」

「ちょ、だって、髪」

「へへへ」

 腰の近くまであった長い髪をばっさり切ってボブにしたのだ。首がすうすうして、肩が軽くなった。何より、シャンプーが泣けるほど楽になった。

 何年も伸ばしていたので親も友達も驚いたけれど、いちばん驚いたのは自分だったかもしれない。

「ネリだ……」

「え?」

「ネリだよ。完璧だよ。すげえ、袴田さん」

 耳たぶがぼわぼわと熱くなった。

 刈田くんにそう言ってほしかったことを、わたしはようやく認めた。


 嘘つきマドレーヌのワンマンライブに行かないかと誘われたのは、夏休みが開けてすぐのことだった。

 昇降口で話しかけてきた刈田くんは、明らかにわたしが来るのを待っていた顔だった。

 嘘マドを生で見ることなんて想像もしていなかったわたしは、とっさにリアクションをとることができなかった。

「どうかな。嘘マド、今すごい勢いあるから、もうあんな狭いハコで観れる機会もなくなっていくと思うんだよね」

 わたしの沈黙を拒絶だと解釈したのだろう、刈田くんの口調に熱がこもった。

「チケット代は俺払うから、お願い」

「や、それは悪いよ」

「ひとりでも沼にはまってほしいんすよ。そのためにバイトしてるんだから気にしないで。"今"の彼女たちを見ておいてほしいし、あの爆音を聴いたら絶対世界が変わるから」

「──もう変えられてるよ」

「え?」

「や、なんでも」

 わたしなんかが行ってもいいのかな。つぶやくと、刈田くんはもっさりした前髪の隙間からのぞく目をうんと細めて笑った。見たことのない笑顔だった。

 沼になら、既にひとつはまってる。


 実はライブ自体が初めてなのだと打ち明けたわたしに、刈田くんはおおいに驚きつつも丁寧にシステムを説明してくれた。「細かいところ気が回らなくてごめんね」と謝りながら。

 整理券の番号帯ごとに呼ばれたら入場する。チケットをもぎられたら、ワンドリンク引換券がもらえる。オールスタンディングだからドリンクはライブ前かライブ後に引き換えること。手荷物はなるべくコンパクトに。ロッカーが空いていれば荷物は預けられる。そしてもちろん、動きやすい服装で。たぶんびっくりするくらい汗をかくから、と刈田くんは念押しした。

 現地に行かなければわからないことは多いだろう。コットンのチュニックと細身のジーンズとスポーツブランドのスニーカーをわたしは用意した。そして美容院に予約を入れたのだ。


 会場である「代官山WAX」に着くと、周辺にはもうそれとわかる嘘マドのファンがあふれていた。首にタオルを巻き、ロゴの入ったTシャツを着て、うちわや双眼鏡を手にしている人たちは、9割以上が男性だ。

 わたしは完全に場違いな気がする。

「あの、これ」

 独特の雰囲気に臆しているわたしに、刈田くんが紙袋を手渡してきた。いいの? と確認して受け取る。

 ──え、なんだっけこれ、ペンライトっていうんだっけ。ぱきっとふたつに折ると発光する、懐かしいアレだ。

「サイリウム。ぜひ、アクト中に振りましょう」

「はあ……」

「袴田さんはネリのカラーのオレンジ。勝手に選ばせていただきました」

「刈田くんはユリヤ推しだからピンク?」

「そう」

 言いながら、刈田くんは自分のリュックから鮮やかなピンク色のタオルを取りだし首に巻きつけた。

 おたく、という言葉が蘇る。同時に、おたくで何が悪いと開き直っている。今の自分はもう空っぽじゃない、そう思う。


 晩夏のぬるい風が頬を撫でてゆく。

 そういえば今日はまだ、いつものパズルゲームをプレイするどころかログインボーナスさえ受け取っていない。ネリみたいに毛先のくるんとしたワンカールをキープできているか、そればかり気にしていた。

 突然、手首をつかまれた。

「やべえ、ネリのT.O.のハッシーさんだ! 挨拶しに行こ!」

 刈田くんがわたしの手を引いて走りだした。意外に大きなその手と体温がわたしの心拍数を上げる。つんのめりそうになりながら、一緒に走る。

 得体の知れない笑いが腹の底からこみあげてくる。人に肩をぶつけ足を踏まれながら、わたしたちは手をつないで走った。


 神様、この感情ってなんですか。

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