補習ってなんですか

 補習授業が夏休みの初日から始まるなんて、神様の嫌がらせだろうか。


 中間考査でも追試でも赤点だった生徒が全学年から一教室に集められ、たっぷり絞られる全10日間。休み明けの再追試でも赤点だったら「とても口では言えないようなそれはそれは大変なことになる」と担任の女性教師はどこまで冗談かわからない口調で言っていた。

 わたしは苦手な英語で引っかかってしまった。

「信じられない。ディスティニーの英語システム3歳のときからやらせてたのに」

 母は海溝よりも深い溜息をついた。

 友達と4人で行く予定だったディスティニーランドも、補習の日程とかぶって泣く泣くキャンセルした。奇跡的に4人とも空いている貴重な日だった。

あずさってそんなに英語できなかったっけ」

「お土産買ってくるね」

 怜奈れな芳賀はがちゃんの言葉がちくちく胸に刺さった。休み明けからもわたしたちはこれまでどおりの関係でいられるのだろうか。

 みんな試験のたびに「全然だめだったー」と嘆くわりに、追試になった子はひとりもいない。わたしだけが混じりけのない本音で「だめだった」と言っていたわけか。ばかみたい。

 自分の人生だけが停滞しているような焦りと不安が、制服の裾からじわじわと這い上がってくる。

 最悪な夏の始まり。


 異常発生しているのかと思えるほどうるさい蝉の声を浴びるように聴きながら学校へ向かった。汗がとめどなく首筋を滑り落ち、なんとなく伸ばしっぱなしの髪を重たく感じた。

 この日に登校してこの教室に来るのは、「自分は英語のできない人間です」という自己紹介である。

 指先にまで倦怠をつめこんで教室に入ると、窓際の隅の席に意外な顔を見つけて思わず「あれっ」とつぶやいた。

 刈田かりたくん。下の名前は忘れたけど、1年のとき同じクラスだった。

 親しい仲だったわけではない。でも一度だけ席が隣になり、教科書を忘れたら見せ合ったし、先生にあてられて答えられないとき助けてもらったりもしたのを覚えている。あまり感情を表に出さないタイプだけど、訊いたことには何でも答えてくれる人だった。

 ホールの壁に貼りだされる成績優秀者一覧に、刈田くんの名前はいつもあった。それはクラスのひそかな誇りだった。特に数学に関しては学年1位のことも少なくなかった。ちっとも鼻にかけるそぶりがないところがいいとひそかに思っていた。

 なんで補習メンバーに入ってるの。意味がわからない。でもあのもさっとした前髪と黒縁メガネはまちがいない。耳に白いイヤホンを突っこんで、太陽にあぶられた桜の木をガラス越しに見つめている。

 けばけばしいデザインのエナジードリンクの缶が、机の上に彼の存在感を補うように置かれている。


 声をかけたわけでもないのに刈田くんもこちらを見たので目が合ってしまい、なんとなく彼の隣の席にどさりと座った。他の受講者もぱらぱらと入ってきては着席してゆく。

「なんでいるの」

 鞄からテキスト類を引っぱり出しながらたずねると、刈田くんは耳からイヤホンを引き抜き、無言でわたしを見た。聞こえなかったらしい。

「なんで刈田くんがここにいるの、って」

「え、ああ……追試赤点だったから」

 ぼそぼそした声。ああ、そういえばこんな声だったっけ。

「いやそれはわかるけど、なんで。成績よかったじゃん刈田くん」

「1年の終わりから英語はガタ落ちっすよ。もともと文系はそこまで得意じゃないし」

「そうなんだ……意外」

「意外でもないよ。語学ってセンスだし、磨かなきゃ鈍るよ」

 言いながら、彼はふと何かにとらわれたようにわたしの顔を凝視した。

袴田はかまたさんって……ネリに似てる」

「え? 何に?」

「嘘マドの」

 ウソマド? 何それ。

 訊き返そうとしたとき、初老の数学教師が入ってきた。教室の空気がサッと引き締まり、刈田くんとの会話はそこでぷつんと打ち切られてしまった。

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