推しってなんですか

 "People don’t like to swim against the tide."

「人は流行に逆らうのを好まない」という意味らしい。

 "swim against the tide"で「流れに逆らう」という意味だから丸ごと覚えなさいと先生は言うけれど、板書をノートに書き写した瞬間から忘れていってしまう気がする。わたしにはきっと語学のセンスがない。

 先生が白いチョークで黒板に文字を書きつけるたびに細かい粉がはらはらと舞って、そこだけが雪景色みたいだと思った。


 初日の席がそのままなんとなく定位置になって、次の日もその次もわたしは刈田くんの隣だった。

 口角唾を飛ばして好きなアイドルを語る刈田くんを見るのはおもしろく、わたしは毎度授業前に話しかけた。


 補習4日目からは駅まで一緒に帰るようになった。同じくらいの背丈だと思っていたのに、並んで歩くと刈田くんはわたしより頭ひとつぶんくらい大きかった。

 最終日には学校近くのハンバーガーショップで膝を付き合わせてお昼を食べた。

 その頃にはわたしも嘘つきマドレーヌについて、いや正確には嘘つきマドレーヌに対する刈田くんの情熱についての知識を深めていた。

 刈田くんの推し、つまり特別好きなメンバーはユリヤだそうだ。ネリじゃないのか、というかすかな失望が胸をよぎる。ばかみたい。ネリ=わたしじゃないのに。

「でも基本DDだから、俺」

「DDって?」

「『誰でも大好き』の意味。つまりはこし」

「はあ」

 英語のイディオムより、アイドル界隈の用語を習得している気がする。


「結局さ、刈田くんは嘘マドにはまりすぎて成績落としたってこと?」

 ポテトをケースから引き出しながら、なんとなく言わずにいたことを訊いてみた。

「ご明察」

「アイドルってそんなに時間を奪うものなの?」

「まあ、楽曲聴きこんだり動画観まくったり公式サイトチェックしたりファン同士の交流したりしてるだけで時間は溶けるよね。次なるライブに備えてバイトもしてますし」

「はあ……いろんな世界があるんだね」

「袴田さんは推しアーティストとかいないの?」

「うーん」

 わたしは返事に窮した。友達とカラオケに行ったとき困らない程度に流行りの曲をチェックしているだけの身に、推しなどと形容できる対象はいない。

「なんだろ。みんながいいって言うものをなんとなく追ってる感じかな」

 自分の傷んだ髪の毛先をいじりながら、正直に吐露してみた。この夏休み、補習さえなければ金髪に染めようと思っていた髪。

 わたしには何も夢中になれるものがない。帰宅部だし、パズルゲームと飼い猫の世話くらいしか日々の癒しがない。高2の夏にして進路さえ決めかねている。

 空っぽだ。そんな底の浅さを刈田くんに見透かされるのが怖かった。

 "People don’t like to swim against the tide."

「人は」だなんて大きくくくりすぎだろ、主語でかすぎだろと思ったけれど、わたしも結局流れに逆らうのを好まない小さな魚なのだろう。凡庸で、退屈で、嫌になる。


「じゃ、今から嘘マドにはまればいいじゃん」

 突然、刈田くんが手を伸ばしてきた。

 自分のスマホにつないでいたイヤホンを、ふたつともわたしの耳に突っこんだ。

 ビートが、リズムが、メロディーが、洪水のように内耳に流れこんできた。

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