逃飛行

霜月はつ果

どこまでも遠くへ

「ねえ、ユリウス。ふたりで逃げちゃおっか。誰も来ない、どこか遠くの世界に」


 頬を撫でる風が冷たい日だった。どんよりとした雲が空を覆い、星はもちろん、月さえ見えない。そんな夜だった。触れ合う肩から伝わってくる体温さえも心地よい。


 聞こえてきた声は穏やかだった。全てを吹っ切ったかのように凪いでいて、全てを諦めたかのように静かだった。だから僕は、アイノがどんな顔をして言っているのか見れなかったんだ。横を向けばすぐにわかったのに。


「いいね」


 僕は前を向いたまま短く答える。もしもそう言わなかったら、アイノがひとりでどこかへ行ってしまう。そんな気がして怖かったから。逃げる場所なんてないのに。誰も来ない場所なんて、誰にも見つからない場所なんて、この世界にはないのに。


「ふふっ。ユリウスならそう言ってくれると思ったよ。でも、ユリウス。本当はそんなことできないって思ってない?」


 アイノは可愛らしく笑ってから、僕の顔を覗き込む。僕らを乗せる箒が少し揺れ、いたずらっ子みたいな笑顔が目に入った。


「そんなことない、とは言い切れないなあ。僕にはそんな素敵な場所が思いつかないからね」


 こんな世界で逃げるだなんて、たかが知れてる。どんだけ遠くに逃げたって、どんなに目立たない場所に逃げたって、魔法で探せば一発だもの。僕はとっくに諦めていた。アイノだったらそんな魔法にも対抗できるのかも知れないけど。


「えー。ユリウスが教えてくれたのに」

「僕がアイノに?」

「そうだよ」


 アイノが楽しそうに笑う。ずっとこんな時間が続けばいいのに。きっともう十分もしたら、どちらかの両親が見回りにやってくるだろう。そしたら僕らは部屋に戻らなくてはいけないし、来年になれば学校だって別々になってしまう。だって僕は、魔法が使えないから。魔法使いのアイノと同じ学校には行けない。


「ユリウス、ヒント欲しい?」

「うん、お願い」

「いいよ。ヒントはね、昨日の授業、だよ」


 昨日の授業。僕らの呼ぶ授業は、学校の授業じゃない。僕たちふたりの、ふたりだけの授業。アイノが魔法を僕に教えて、僕がアイノに科学を教える。魔法で大体のことが解決できてしまうこの世界でも、幸か不幸か、科学は大切にされていた。


「昨日の授業はアインシュタインの話だったね」


 それで、今日の授業が箒で空を飛ぶ授業。アイノに今日は空を飛ぼうと言われたときはびっくりしたよ。結局飛べなかったんだけどね。僕が乗ったときには真っすぐに落ちることしかしなかった箒が、アイノに代わったらピタリと大人しくなったんだから笑っちゃうよ。


「そうそう! それでそれで?」


 アイノに続きを急かされて、僕は記憶をたどる。昨日、というか、ここ最近はずっとアインシュタインの話をしてる気がする。彼の写真は舌を出してるやつだけじゃないんだよ、という話をしてからアイノのお気に入りの科学者なのだ。


「相対性理論だったね?」


 確か五日前は光電効果で、三日前はブラウン運動。ようやく一番有名なんじゃないかって話をできて、満足したんだ。


「そう! もうユリウスならわかるんじゃない?」


 まさか……。


「まさかと思うけど、未来に逃げるつもり?」

「当たり!」


 恐る恐る言った僕に、アイノは満面の笑みでピースサインを作ってみせる。


「ねえ、ユリウス。一緒に未来へ逃げようよ。この箒で行けるとこまで行ってしまおうよ」


 その目があまりに真っすぐだったから、僕には冗談でしょ、なんて返すことはできなかった。そんなことできたらどれだけいいだろう。そう思ったことは隠して、あくまで平静を装ってアイノに尋ねる。


「ちょっと待って。アイノ、あれはあくまで理論でしょ?」


 箒で速く飛んで未来に行く。そんなことが本当にできるとは思わない。


「甘いな~。ユリウスがそう言うことくらいお見通しなんだから!」


 それからアイノは声を潜めて、僕にそっと耳打ちをした。


「実はね、私、今日ちょっとだけ実験してみたんだ。朝早くに外に出てね、思いっきり箒で飛んでみたの。時間を計りながら。そしたら本当に未来に行けたんだ。五分くらいだけどね」


 秘密だよ、とでも言うようにアイノが人差し指を唇に当てる。無茶するなあ。少し間違えたら大変なことになってたのに。


「ねえ、ユリウス。未来なら誰も追ってこないと思うんだけど、どうかな?」


 鼓動が早くなる。心臓を落ち着けようと、ゆっくり呼吸してから返す。


「僕は素敵な考えだと思うよ。でも、昨日言ったこと忘れてないよね?」

「……もちろんだよ。ユリウスが教えてくれたことは忘れないよ。――未来に行くことはできても、過去に行くことはできない。だったよね?」


 そう。過去に行くことはできない。そんなことは、時間軸の曲率が許さない。

 つまり、一度未来へ行ってしまったら、もう元には戻れない。


「それでも、私はユリウスと未来に行きたいと思うよ。こんな世界、大っ嫌いだ」


 こんな世界、大っ嫌い。その言葉に僕は何も言えなくなった。きっとふたりとも、ずっと心に秘めていた。でも、無意識のうちに口に出さないようにしていたから。それを言ってしまったら、均衡を保てなくなるとわかっていたから。


「確かに逃げた先の世界だって、ひどい世界かもしれない。でも、もう疲れちゃったんだ。期待に応えようと頑張り続けることにさ。期待され続けることにさ。もう、疲れちゃったんだよ」


 アイノは悲しそうな笑顔で続けた。無理して笑っているかのような、そんな笑顔。そうだね、アイノ。僕ももう疲れちゃったよ。魔法が使えないなら、せめて勉強を。そう言われてやり続けて。皮肉なことに僕は勉強が得意だったみたいで、あっという間にいい成績が出て。でも、どれだけ勉強したって来年からアイノと別れることは変わらなくて。


「逃げた先の世界で私たちを縛りつけるものは何もないと思うんだよ。私たちを引き裂くものは何もないと思うんだよ。魔法が上手いとか下手だとか。魔法が使えるとか使えないとか。どうでもいいんだ。そんなの関係ない世界に行きたい」


 よくふたりでそんな夢を語り合ったね。アイノは代々優秀な魔法使いを輩出する家庭に生まれて、魔法の才能に恵まれていて。家が隣だったのと、違うようで似ている境遇から仲良くなって。

 

 才能なんていらなかったのに。

 期待なんてしないで欲しい。

 夢も目標も将来も、押しつけないで。


 こんなこと他の誰かに言ったら、罰当たりだって言われてしまうと思ったから。アイノとしか言い合えなかった。


「でもね、私、臆病だから。ユリウスに一緒に来て欲しいんだ」


 アイノは優しい。そして、その優しさに甘えてしまう自分が嫌い。アイノとなら未来へ逃げるのだって成功するかもしれない。でもその先は? 子どもがふたりで生きていける世界なんてあるの? そこで僕はアイノの足かせにならないの?


「僕は足を引っ張るだけだと思うよ」

「そんなことないよ。ユリウスは賢いから。それは勉強がすごいとかそういうことじゃなくてさ、賢いんだよ。私が気づかないことに気づくし、私が思いつかないことを思いつく。今まで私がどれだけ助けられたと思ってるの?」


 助けられたのは僕の方だ。僕はいつだって魔法使いが多数派のこの世界で、アイノがいなきゃ生きていけなかった。


「ひとりじゃ嫌なんだよ。この世界は大っ嫌いだけど、ユリウスはそうじゃないから。ユリウスと一緒じゃなきゃ嫌」


 その時、思わず背筋が伸びる声が聞こえた。僕を呼ぶ声。母さんだ。見回りに来たのだろう。僕の部屋の窓から顔を出している。


「ねえ、ユリウス。行こうよ。私はユリウスと行きたいんだ。ユリウスと一緒にいれるなら、どんな世界でもきっと頑張れる」


 アイノは窓の方にちらりと視線をやってから、固まった僕に畳みかける。


「時間がない。ユリウスが決めてよ。でも私は、ユリウスとじゃなきゃ嫌なんだ。だって私は、ユリウスが好きだから」


 ほら、また助けられちゃう。


「ね?」

「うん、そうだね。どこまでも遠くに行ってしまおう。アインシュタインもびっくりするくらい速く、遠く――」

「そう来なくっちゃ!」


 アイノは優しく微笑んで、僕に箒にまたがり直すように言う。アイノを先頭にふたり乗りして準備は万端。母の声なんて、もうどうでもいい。


「しっかりつかんでてよ? すっごい速いんだからね?」


 そりゃそうだ。光の速さなんだから。


「出発三秒前、三、ニ、――」

「ねえ、アイノ」


 力をためるように箒を握り始めたアイノに声をかける。


「なに、ユリウス? 今さら怖いとか言ったって、もう止まってあげないんだから」

「違うよ、アイノ。――僕もアイノが好きだよ」


 アイノの肩がびくりと動いた。少し見える耳が赤い。


 次の瞬間。アイノは予告なく空を駆けだした。カウントダウンはどこへやら。僕らを乗せた箒が目にも止まらぬスピードでどんどんと進んでいく。安全のためにアイノが箒の先に取り付けた懐中電灯が残像を描く。アイノが魔法をかけてくれたのだろうか。頬に当たる風は痛くなかった。まるで風が僕たちを避けているかのように、空気抵抗なく箒が進んでいく。


「ちょっとちょっと! カウントダウン! 安全運転!」

「いいえー? 私はちゃんと三秒数えましたー。遮ったユリウスがいけないんですー」

「そんなあ!」

「ふふっ」


 ねえ、アインシュタイン。あなたは時間の相対性について、熱いストーブの上に手を置いたときと好きな女の子と一緒にいるときを例に出したようだけど、好きな女の子と光速で飛んでる僕は、もう時間の感覚がぐちゃぐちゃだよ。物理的には遅いはずなのに、あっという間に感じられるよ。


「ねえ、ユリウス。新しい世界でなにをしようか」

「うーん、まずはゆっくり寝坊したいな」

「それ賛成! 最高だよ!」

「でしょ!」


 どこまでも飛んでゆこう。嫌なものは全部おいてゆこう。期待も称賛も、将来も全部。全部全部忘れてしまえ。大事なものだけ持っていくんだ。疲れちゃうくらい頑張り続けたんだよ。嫌になっちゃうくらい頑張り続けたんだよ。そのくらい許されるでしょ?


「ねえ、アイノ」

「ん?」

「これからもよろしくね」

「もちろんだよ」


 さよなら世界。束の間の逃飛行だ。


 その日。月さえ見えない曇り空に、あちらこちらで輝く流れ星が見られたという。


 教えてなんかやらないんだ。

 真実を知っているのは僕らだけでいい。

 僕がこの夜を絶対に忘れないから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逃飛行 霜月はつ果 @natsumatsuri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ