飛べない鳥に勇気は要るか?

惟風

飛べない鳥に勇気は要るか?

 小さな浜辺で、アレックスは煙草をくわえながら眼前の海を見つめていた。

 きらきらと夕陽の光を反射する水面の上を、鳥が何羽も飛んでいる。彼は興味がないので、その鳥達の名前を知らない。

 風に煽られた煙が目に染みて、短くなった煙草をぷっと吹き出して踵で踏み潰した。


「アレックス、ここに居たのね」

 中年の女性の声がして振り返ると、ソフィーが海岸通りから手を振っているのが見えた。アレックスが彼女の学校に通っていたのは五年も前だが、いまだに何かにつけて声をかけてくる。

「先生」

「ハリーの送別会、始まっていますよ」

 小太りの彼女は柔らかい砂に足を取られつつも、ヨタヨタとアレックスに近づいてくる。その声はいつも穏やかだ。

「わざわざ迎えに来たのかよ」

 ソフィーを支えてやりながら、彼は呆れたように返す。母親よりも年上の彼女はいつもおせっかいで、アレックスは今も頭が上がらない。

 彼女は笑みを崩さず海の方に身体を向け、アレックスの視線の先を追う。

「何を見ていたの?」

「別に」

 鳥の数は減り、もう一羽しか飛んでいなかった。それも、どんどんと遠ざかっていく。


「なあ先生。教え子が外の世界に羽ばたいてくってのは、教師としてどんな気分なんだ。気持ちが良いもんなのか」

 アレックスは最後の一羽を見つめながらソフィーに問うた。

 突然の質問に面食らった彼女はアレックスを見たが、彼の横顔には影がかかり、表情は茫洋ぼうようとしている。

「私の言葉で背中を押された子が夢に向かって進んでいく姿を見るのは……ええ、確かに嬉しいものですよ」

 ソフィーは注意深く言葉を紡いだ。

「特にアイツみたいなだった奴を、日の目を浴びれるようにしてやるのは格別なんだろう?」

 アレックスはまだ鳥を見ている。その声にはどこか冷たさが感じられた。

 ソフィーは答えるのに時間がかかった。しばらく彼と同じ方向を見つめ、ふと自嘲気味に笑う。

「そんなことは無いわ……と言えるほど、無私むしの心で教師を務められたら良いのですけどね」

 アレックスは意外そうな顔をして彼女を見た。無精髭ぶしょうひげを生やした顎に手を当てて考え込む。

 ソフィーが声をかけようか迷っていると、もう何もいなくなった薄暗い空を見つめて彼は口を開いた。

「……嫌な言い方しちまってごめん先生。八つ当たりだよ」

「八つ当たり?」

 怪訝そうなソフィーを置いて、彼は海岸沿いにある自分の家に向かって歩き出した。

「ヒゲを剃ってくるよ。すぐに済む」



 ハリーが、都会で絵画の個展を開く。寂れた田舎のこの村を出て行く。

 今日は、その送別会が開かれる日だった。

 身体が小さくて臆病で、いつもじっと絵を描いていたハリーは、学校でよくからかわれていた。教室中の生徒達が彼の絵を小馬鹿にする中で、ソフィーだけはずっと「私は好きだわ。何て素敵な色づかい!」とてらいのない様子で褒めた。

 アレックスは芸術に全く興味が無く絵の良し悪しはだったので、何も言わなかった。

 卒業後にソフィーは知り合いの美術家をハリーに紹介し、ハリーはトントン拍子に才能を開花させていった。

 暇つぶしにハリーをつつき回していた連中は、手のひらを返して「天才だ」「芸術のセンスがある」「アイツはやる時はやる奴だ」と彼のことを持ち上げるようになった。

 それでもアレックスは彼の絵のどこが良いかわからず、結果、やはり何も言わなかった。



 送別会はソフィーの弟がやっている食堂を貸し切って行われることになっていた。アレックスの家からは少し離れた場所にある。

 二人並んで、ゆっくりとした足取りで会場に向かう。

「新しい仕事はどうですか?」

 控えめな歩幅でコツコツと歩きながら、ソフィーが尋ねる。日はとっくに暮れて、少ない街灯がぼんやりと道を照らす。

「今日またクビになった。三日連続で寝坊しちまって」

 アレックスは仕事が二ヶ月以上続いた試しがない。

 ソフィーが悲しげに眉根を寄せたのを見て、彼は取り繕うように続けた。

「来週、ポールさんとこの廃品回収の手伝いをする約束をしてる」

 アレックスは学校でも真面目に勉強に取り組む人間ではなかった。ただ、ハリーが誰かに絡まれていると、決まって間に入ってやっていたことを、ソフィーは知っている。身体の大きなアレックスがいる間は、誰もハリーに手を出さなかった。


 どちらからともなく口を閉じ、乾いた靴音が響くのをしばらく聴いてから、アレックスがぽつりぽつりと喋りだした。それは大柄な彼に似合わずとても小さな声で、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどだったため、ソフィーは懸命に耳を傾けた。

「俺はさ、身体もデカいし、親父に殴られ慣れてるから多少たって平気なんだ。アイツの、オドオドしてるハリーの前に立ってさ、調子ノッてる奴等を脅すのが、楽しかった。その時だけは自分がな人間に思えて、女だって寄ってきてさ」

 アレックスの歩調は変わらない。長い足をゆっくりと動かしてソフィーにペースを合わせている。

 彼女は続きを促した。

「ハリーには感謝されるし。先生だって褒めてくれて、そりゃあもう、すこぶる気持ちが良かった」

 思い出し笑いをするように、アレックスは肩を揺らした。

「でも卒業してからは“教室”は無くなった。家に押しかけてまでハリーを甚振いたぶる奴なんかいない。途端に俺は物足りなくなっちまってさ。俺が誰の役にも立たない、何もできないってことに気づいちまったんだよ。だから」


 だから、言ってしまった。

 この村を出ると言ったハリーに。

 ――くだらねえ絵ばっかり描きやがって。

 ――お前なんかどこ行ったってやってけやしねえよ。


 凍りついたハリーの表情を思い出し、アレックスは首を振った。

「俺には羽なんか無いんだ。仕事は続かない、学も無い。何にもなれねえしできねえ。どこに行ってもやってけないのは俺の方なんだよ。真面目に暮らすより泥棒の方がちっとは簡単かなって思った時もあったけど、ダメだった。そんな顔すんなよ先生。鍵開け一つとっても器用さが要るんだぜ」

 アレックスは煙草を取り出そうとしたが、ソフィーの気管支が弱いことを思い出して止めた。

「けど、アイツは違う。ハリーは違うんだ。先生やそのお友達に褒められる前からアイツは絵を描いてた。みんなにバカにされようがノートを取り上げられようが、次の日になったら何食わぬ顔して手を動かしてんだ。そして自分でチャンスを掴んだ。いや、たとえ先生のお友達が来なくったってずっと絵を描いてたろうし、いつかはここを出てったろうよ。ハリーはそういう奴なんだよ。羽ばたける。どこまで通用するかなんて俺の知ったこっちゃねえ。でも、モノになろうがなるまいが、あいつは俺なんかよりずっと根性があって、上等だ」

 ソフィーは、前を向いてじっと聴いていた。

 道は少し上り坂になってきた。坂を上がりきったところに、彼女の弟の店が建っている。


「さっき思ったんだけどさ」

 二人は店の看板が視界に入るところまで来ていた。

「先生も俺ほどじゃないけど、ハリーを憐れんでたんじゃないか?」

 アレックスの声はおどけた調子だったが、どこかすがるような響きも含んでいた。

「そうかもしれないですね」

 ソフィーは自分のハンドバッグから煙草入れを取り出し、その中の一本に慣れた手つきで火をつけた。煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 驚いた顔をしているアレックスに、いたずらっぽく笑いかけた。

「不思議なもので、自分で吸っていると苦しくならないの」

「俺には散々『煙は身体に悪いんですよ』つってたじゃねえか」

 アレックスは腹を抱えて笑い出した。一頻ひとしきり笑うと、息を整えてソフィーに言った。

「先生」

 彼は目尻の涙を拭った。もう笑ってはいない。

「飛べない鳥に勇気は要るか?」

 彼はソフィーの答えを待たない。

「俺はな、“要る”と思う」

 会場の前に到着していた。賑やかな音楽と人の声が外まで漏れ出ている。

 アレックスは足早に中に入る。

 煙草の始末をしてからソフィーが遅れて建物に入ると、フロアの真ん中でアレックスがハリーに話しかけていた。


 周囲の人間はただならぬ雰囲気の二人を遠巻きに見ている。彼女からはアレックスの背中しか見えず、彼の表情はわからない。

 ハリーは口を真一文字に結び、アレックスの顔を見上げていた。長身のアレックスと並ぶと、よりハリーの背は低く見えた。

「……あんな………とを言って……もらえるとは…ってない……」

 ソフィーが近づいていくと、アレックスの声が少しずつ耳に入ってくる。

「……だが、これだけは言っておきたかった。すまなかった」

 アレックスの手には皮でできた小さな巾着袋が握られていた。その中から塩を一つまみ取り出すと、ハリーの靴のつま先にぱらぱらと振りかけた。


「【この先、ハリー・カーターの行く道には光しか差さないことを祈る】」


 それは村に伝わる、人生の繁栄を願う古いおまじないだった。

 習わしにうといアレックスの唱えた呪文はうろ覚えだったようで正確なものではなかったが、それが彼の精一杯のはなむけの言葉であることは明白だった。

 無言でアレックスを見つめていたハリーは、彼が袋をポケットにしまうのを見届けてから、左手の拳を彼の顔に叩き込んだ。アレックスは少し後ろに揺れた。殴ったハリーの方が反動によるふらつきが大きく、腕時計の上から手首を押さえて顔をしかめる。

「ありがとう、アレックス」

 絞り出したような声で、顔も上げずにハリーは呟いた。

 ハリーを一瞥いちべつして、アレックスは部屋を出ていった。すれ違いざまにソフィーと肩がぶつかったが、彼女の目にはアレックスが笑っていたように見えた。


 数日後、ハリーは村を出た。

 しばらくしてから、アレックスはソフィーの勤める学校で用務員として雑用をするようになった。

 仕事ぶりを度々注意されることはあるが、二ヶ月を過ぎても彼は働き続けている。




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