花と鉱石

一宮けい

花と鉱石

花と鉱石

 きらっと光るものがまぶしくて、眼を覚ます。埃っぽさと消毒液の匂いがする。

「あ、やっと起きた」

 眼の前に井川がいた。井川の手につけていた、腕時計の文字盤が反射したのだ。

「え…井川?」

 急に体を起こすとずーんと頭に鈍痛が響く。

「――てぇー…」

「あーあ、飲み過ぎなんだよ」

「仕方ないじゃん、仕事なんだから」

「びっくりした。朝来たら頭痛いから休ませてくれって言うんだもん。病気かと思っちゃったじゃん」

「まあ今病気したら確かに絶体絶命だわ」

 井川から差し出された農夫山泉ノンフシャンチュアンという赤いキャップのミネラルウォーターを手に取る。今俺たちは上海にいる。


 俺の会社は高級腕時計会社だ。うちの会社は派手さはないものの、精巧に動き、かつ洗練された腕時計が多い。


 今回は山東省で採掘されるシャンドンサファイアというサファイアをうちの腕時計に宝飾するべく、上海の宝石商と商談に来たというわけだ。少しでも良質で、少しでも安く仕入れるために、その宝石商を接待した。相手方は皆体の大きなガタイの良い中国人で、ここでひよるな島国根性とばかりに酒を浴びるように飲んだ。しゃべれないことが余計に拍車をかけ、飲んで飲んで飲みまくった。

 初めは紹興酒だったのに、いつの間にかアルコール度数50越えの蒸留酒・白酒バイジュウに変わっていた。そして見事に二日酔いになり、医務室で寝ていたのである。


「はい、これ飲む?」

 井川が日本の頭痛薬を差し出す。

「ありがと…よく持ってたね」

「生理痛ひどいから」

 昔の井川ならさすがに生理とかさらりとは言えないだろうが、さすがに10年も一緒にいればそんなことも平気で言い、俺も「ふーん、大変だね」なんて知りもしないことを口先で返してしまうのだ。

「あの石、いいね、やっぱ来た甲斐あったわ」

 シャンドンサファイアは普通のサファイアよりももっと濃い色をしている。青というよりも黒に近い。墨を流し入れたような色合い。

 井川がどうしてもこのサファイアを手に入れたいと譲らなかった。このミッドナイトブルーはきっと誰かの真夜中に寄り添ってくれるはずだからって。

「俺の体と引き換えに手に入れたサファイアか」

「変な表現やめてよね、穢れるわ」

 悪態をつきながらも、口元がほころんでいる井川を見て俺もつられて笑ってしまう。

「そうだ、これどうしたの?」

 青いバラの花束を井川が差し出す。

「ああ、これ? 人民広場の構内でおばあちゃんがございて売ってたから買っちゃった」

 

 人民広場は上海の中心部の駅だ。その構内では傘や自撮り棒、スマホケースなどのちゃちな日用品から手作りの品や花などがよく売られている。接待が終わった後、べろべろに酔った俺はなぜかタクシーを利用せず、律儀に地下鉄を使い、律儀に値引きされた花を買ってきたわけだ。朝眼が覚めて気づく。なんで男1人でいるのに花なんてあるんだ、と。第一花瓶がない。眼の前の乱れたホテルの部屋には農夫山泉ノンフシャンチュアンとRIOというカクテルが入っていた瓶が散乱している。…なんだ、この惨状は。

 

 ということで、今日二日酔いに苦しみながらも花を握りしめてやってきたわけである。それが何故か井川がここまで持って来ている。

「びっくりした。上海の女の子でも捕まえようとしてるのかと思ったわ」

「かもね」

 なんてな。そんなことしたらまた場がもたなくて、飲みまくって二日酔いすると思う。けど、なんとなく素直に答えたくなかった。

 そんなことを確かめるために、井川は花束を医務室まで持ってきたのだろうか。すると井川は花を抱えたまま青いバラを見つめる。このバラの青は尋常じゃない。眼が覚めるような青さだ。

「少し枯れてるね」

「昨日買ったからね。それにこの夏日じゃ花も枯れるよな」

「あーあ、花ってどうしてこんなにつまんないんだろう」

と言って、井川はバラの花びらを引っ張ってばらばらにして、俺のいるベッドに落としていく。せっかくの花が。

「そう? きれいじゃん」

 井川の落としたバラの花びらをつまむ。

「枯れちゃうじゃない。からっからに」

「それがいいんじゃん。変わりゆく姿もきれいだし、だからこそ今きれいなんじゃん」

「変わらなくったって鉱石はきれい。なのに花の美しさって脆い」

 青いバラはぽつん、ぽつん、と摘まれながらバラの欠片となっていく。

「何それ、自分に言ってんの?」

「そう、わたしの名前が花だからかも。同族嫌悪。よく知ってたね、下の名前」

 その名前を呼びたかった時期もあったから、という思いはぼんやり思い出してぼんやり消えていった。二日酔いのせいかもしれない。

「32にもなってさ、花って名前が似合わなくなってきた気がする。…いいよね、あんたの名前はしょうで」

「なんで俺?」

「あんたの名前って結晶の晶でしょ。小さくて、繊細、だけど変わることのない鉱石。あんたとわたしって同い年じゃん? あんたは全然見た目変わんないけど、女の方が年取るから、わたしはもうおばさんだよ。ほんと花と鉱石みたいじゃない?」

「男の見た目が若いのなんて全然褒め言葉じゃないからね」

 そもそも晶という名前は晶の母親が好きなアイドルの名前の「しょう」という読みを拝借したものだ。さすがに漢字までは一緒にするのはおこがましいと生まれてきた赤子の俺を見て悟ったようで、漢字は画数で良かったものを適当に選んだだけだ。


「…ねえ、このバラって白いバラを染めて作ったんだよね? 青いバラなんてないから」

「そうだっけか」

「石は天然であんなにきれいな青色出せるし、放射線使えば透明な石を青くすることだってできる。でも花ってこんなに品種改良の技術が上がってもきれいな青色出せないなんてね。不思議の国のアリスの時代から変わんないのよ、きっと」

「白いバラをペンキで赤く塗るっていうあれ?」

「そう。それ」

「ふーん、それじゃ今俺たち不思議の国にいるわけだ」

 俺はそう言うと、井川の手を強く引っ張った。

「え…っ!」

 井川は青いバラを抱えたまま、ベッドに倒れ込んだ。倒れたと同時に青いバラの花びらが井川よりワンテンポ遅れて宙を舞った。

 穴から落ちてきたアリスみたいだ。

 慌てて体を起こそうとする井川の両手首をつかんで動けないようにする。

「俺は花がいい。だっていい匂いするから」

と言った。井川と俺の間にあるバラの花束の匂いが二人を包み込む。バラの匂いってイメージだと華々しいゴージャスな香りのような気がするけど、実際の生花はみずみずしくって、もっと素直な香りだ。

「何言ってんの…」

「じゃあなんでここで待ってたの? 二日酔いなんだからほっとけばよかったじゃん」

 井川は何も言わずに天井を見た。顔はほんのり赤くて、井川の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。俺は井川の手に巻き付いた腕時計をはずしていった。はずすと井川の華奢な手首の内側には淡く赤い、腕時計の跡がついていて、そこへ唇を這わせた。

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花と鉱石 一宮けい @Ichimiyakei

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