アップルパイに呪われて

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アップルパイに呪われて

 アップルパイ。私が一番嫌いな食べ物だ。


 とはいえ、アップルパイに罪はない。八つ当たりだと分かっているけれど、もう見たくもない代物しろものになってしまったのだから仕方がない。


 私は、私の世界からそいつを抹消しようと努めた。しかし、懸命な努力がほとんど実を結びかけていた時分になって、盛大な逆襲を受けることになる。


「アップルパイが、食べたいな」


 ■


 私は台所に立っていた。アップルパイを作るのだ。


 匂いだけはしっかりアップルパイなのに、パイ生地がべちゃべちゃ状態で焼き上がる失敗をずっと繰り返している。きっと、余計な水分が混ざりこんでしまうせいだった。ちょっとした塩味までするような気がしてくるから、いい加減変な調味料を入れるのはやめにしないといけない。分かっているのだけれど。


 けいの心臓が、風船になってしまった。


 もういつ破裂するか分からないらしい。助かるためには、切り取ってしぼませるしかないらしい。元々成功率の高くない手術なのに、景の心臓周りの血管が特殊で、到底成功しそうにないらしい。手術より延命を選んで、わずかな余生を楽しむ方がいいかもしれないらしい。たとえそうしたとしても、もう家には帰してもらえないらしい。


 景は、笑っていた。


「一年で駄目になる旦那つかまされて、可哀想になあ」


 景は、そういう人だった。そういう人だから結婚した。それなのに。


 次に焼き上がったアップルパイは、これまでで一番べちょべちょで、食べられたものじゃなかった。


 ■


 本当に馬鹿な話だ。


 まだ景と付き合う前のバレンタインデー。告白と同時に渡す予定だったチョコレートケーキは、半年前から練習を始めて、多分三十回は作った。甘党の景の舌をまず落としてやるつもりで、とにかく必死にやった。努力の甲斐あって、本番、それはもうすばらしい勝負ケーキが出来上がったのを覚えている。


 いざ当日。早めに起きた私は、自信作を冷蔵庫から取り出して、洒落た箱に納め直した。その上から可愛らしいピンクのリボンを巻こうとして——きっと、緊張していたのだ。全身全霊の恋心の結晶は、哀れ、私の手を滑り落ちて床に堕した。あのときほど叫んだことはない。完璧な仕上がりだったはずのケーキは、箱の中で壊滅的な被害を受けていた。


 私は馬鹿だった。


 十時の約束には、まだ三時間強あった。だが、ケーキの材料が揃うスーパーは早くても九時にしか開店しない。一時間弱で買い物とケーキの焼き上げを済ませるなんて、神業でも使わなければ土台無理な話だった。私は、愚かだった。どうして潰れたケーキを持っていって正直に話さなかったのだろうと、後から何度悔いたかしれない。でも、とにかく私は阿呆だったのだ。


 私は走った。


 電車に飛び乗り小一時間。駅から己の足で十数分。早朝から開いていて、脇道にあるためかそれほど客足のない、こじんまりとしたパン屋さん。確実に景が知らないだろうパン屋さん。私はそこで、一切れのアップルパイを買った。プロの作品だ、まずいわけがないし、形だって絵に描かれたものみたいに綺麗だった。


 私は大馬鹿だ。景には、そのアップルパイを渡して告白した。どんな顔をして何を言ったか、覚えていない。でも、返事はその日のうちにあった。


「付き合おっか。アップルパイが、美味しかったから」


 間抜けな私は、それきりアップルパイが大嫌いになった。自業自得なのに、笑っちゃう。


 ■


「アップルパイが、食べたいな」


 四年付き合って結婚して、それから一年経ったけれど、アップルパイを気に入ったはずの景が、それを要求してくることは不思議となかった。ずるい私は、忌まわしい記憶を最早ほぼ封印していた。それなのに、医者から残酷な宣告を受けたその日、アップルパイは突然景の口から蘇って私を襲った。


 死んでしまうかもしれない最愛の人の願いを、どうして無碍むげにできるだろう。


 同じ店に行けば、景をとりこにしたらしいあのアップルパイは簡単に用意できる。でも、駄目だ。駄目なのだ。私は、どうしても私が作ったアップルパイで景を満たしたい。


 面会時間から終わってから、私は毎日台所に立った。一日二つは作ったけれど、大事なその日になっても——手術を受けるかどうか決める期限の日だ——結局、一度も成功しないままに終わってしまった。


 ■


 真っ白な病室で、景は静かに窓の外を見つめていた。


「甘い匂いがする」


 振り向いた景は、いつものように穏やかに笑っている。今、私はどんな顔をしているだろう。あのときと同じでちっとも分からない。


「アップルパイ、作って来たよ」


「うん」


 私はトートバッグから箱を慎重に取り出した。今度こそ落っことしてしまいたい気持ちでいたけれど、そういうときほど落とさないものだ。観念してベッド上の長机に置いた。箱に手をかけて、一息つく。ちらりと一度景をうかがってから、ゆっくり開いた。中に鎮座するのは、相変わらずのべしょべしょアップルパイだ。見た目は悪くはないけれど、当然それだって店売りのものには到底及ばない。


「いい匂い」


 それでも、景はそんなことを言ってまだ笑っている。


「匂いだけはね」


 切り分けるときの音で、食べる前に落胆されるのは嫌だったので、既に済ませておいた。本来聞けるはずの、パイの中に刃が通るときのあの小気味いい音はほとんどなかった。結果はもう、見えている。


「どうぞ」


 紙皿に載せた失敗作を、そっと差し出した。景はなおも微笑んだまま皿を見つめて、フォークをゆっくり突き刺した。しっとりしたパイ生地はいやにお利口さんで、景の思うがままに分けられていく。溜息がこぼれてしまった。


「いただきます」


 景は、ついにそれを口にした。かすかに何か聞こえてくるけれど、あれはパイ生地の放つ音とは違う。りんごのコンポートが咀嚼そしゃくされる音だろう。過去のどうしようもない罪と向き合うときが、やってきてしまった。私は固唾かたずを飲んで、景の審判を待った。


「泣き虫だなあ、弥代みよは」


「今は泣いてないよ」


「ここ。多分、涙の跡」


 景はアップルパイの箱をとんっと指さした。確かに、二か所ほど丸く濡れた痕跡が残ってしまっている。


「アップルパイにも、微妙に塩味がある気がする」


「嘘だあ。それは練習じゃないから、入らないように気をつけたもの」


 言ったそばから、目がうるみ始めてしまった。そのまま涙をしたたらせた私を、景は細めた目で見つめていた。


「俺ね、知ってたんだよ」


「……知ってたって?」


「告白のときにくれたアップルパイ、パン屋のだって」


 凍りついたように動けなくなった私を、景は変わらず微笑んで眺めている。


「あのバレンタインの前、かなり頻繁にチョコ系の菓子の練習してたのも知ってる」


「な、んで」


 何もかも見透かされていた。感情がちっとも追いついてこない。半ば茫然としたまま尋ねると、景は今度は自分の鼻を指さした。


「俺、結構鼻がよくて。お前あの頃、いつもチョコの匂いさせてたからさ」


「……アップルパイは?」


「アップルパイはー」


 景が言葉の最後を伸ばすのは、たいてい機嫌のいいときだった。どうしてこの状況で上機嫌でいられるのか、ちっとも分からない。私ばかりが混乱している。


「お前、レシート落としたもん。詰めがあっまいんだよなあ。ばっちりバレンタインデー当日の精算日。朝七時五十三分。アップルパイ一切れ、代金二百三十円」


 あのとき、着替えはしたけれど鞄はそのままだった。急いでいた私は、パン屋を出る際レシートを無造作に鞄に詰め込んだが、その後それを取り出した記憶は確かにない。ああ、なんてこと。


「で、俺は考えたんだ。多分ずっと自分で作る練習してたくせに、なんでそんなの持ってきたんだってさ。お前、本番で何かやらかしたんだろ? それで、慌ててパン屋でアップルパイ買って渡してきた」


 名探偵景の推理の前に、私はただこっくり頷くことしかできなかった。何から何までその通りで、言葉一つ出てこない。


「じゃ、問題です。一、それならどうして付き合うときに『アップルパイが美味しかったから』なんて言ったんでしょうかー。二、ずーっと触れてこなかったアップルパイに、どうしてこのタイミングで触れたんでしょうかー」


 そんなことをいきなり言われても、急には頭が働かない。おろおろと視線を彷徨さまよわせながら、私はひたすら考えた。


「えっと……一は、私に本当のことを言わせたかったから? 二も、今度こそ自分の口から言わせようとしたとか……」


 しどろもどろの返答に、景は首を振る。もちろん横に。


「はずれー」


 それからアップルパイに目を落として、囁くように言った。


「俺は、弥代に呪いをかけたかったんだ」


「呪い?」


「俺ね、狡いんだ」


 もったいぶったような答えが続く。裁きを待っていたのだが、どうやらそんなものが下される雰囲気はない。


「一の答えは、そう言っておいたら、弥代がアップルパイ見るたびに俺に罪悪感を募らせて、ちょっとした喧嘩くらいなら離れていかなくなるかなって思った。それと、いつか俺が笑って許せば、器の広さみたいなのを示せて、ますます惚れてくれるかなって」


「何それ」


 つい、笑ってしまった。深刻な事態になることを覚悟していたから、拍子抜けしたのだ。私が指先で涙を拭っていると、景は「へへ」と少し照れたように軽く笑い声を上げる。


「二の方は?」


「二はね」


 今の今まで笑っていた景が、ふいに真顔になる。釣られたように、私の笑みも引っ込んでいった。


「もう死ぬなら、呪いを解いてやらないとって思って」


 笑い損ねた景は、唇を不器用に歪ませて、次に薄っすら涙を浮かべた。それでもどうにか強がろうとしてか、らした視線をアップルパイに注ぐ。ぎこちない手つきで切り分けて、もう一口食した景は「やっぱ、しょっぱい」なんて言った。景が泣いているかどうかなんて、視界を再び涙の膜に占領された私には、もう分からない。でも、景は涙声をしていたように思う。


「ちゃんと呪いを解いてやらないと、お前、パン屋にもケーキ屋にも行けないじゃん。……それに、呪いのせいで新しい旦那を見つけるのも難しくなったら、可哀想だし。だからさ、俺」


 そこで、堪え切れなかった嗚咽がこぼれてしまった。一度こぼれ始めるともう止まらない。後から後から、必死に引き結ぼうとする唇を割って飛び出してくる。景が言葉を止めたのを契機に、私はいよいよ本格的に泣き始めた。すぐに、頭にぽんと手がせられる。思わず顔を上げた私の目の前には、初めて見る景の泣き顔があった。


「ほんっと、泣き虫だ」


 余計に涙が止まらなくなった。だって、だって、あんまりじゃないか。どうしてあんな、景を忘れていいみたいなことを言うんだろう。私は今も昔もずっと景が大好きで、こんなに大好きで、だからずっと呪われてきたのに。アップルパイは大嫌いだったけれど、アップルパイに呪われることは別に嫌いじゃなかったのに。死んでしまうなら、解呪なんてしないでほしい。もっといっぱい、一生消えないくらいに強く呪ってほしい。狡い男だと言うのなら、急に優しくなんてならないでほしい。もう私の人生の中から、景を取り除くことなんて到底できないのだから。全部伝えたいけれど、こういうことを口に出せば、景が死ぬのが決まってしまうような気がして、だから私は分かり切ったことを一つだけ言う。その後はもう、言葉にならない嗚咽ばかり吐き出していた。


「好きなの、景」


 景は私をよく知ってくれていた。たったこれだけで、全部分かってくれた。おもむろに紙皿を机の上に戻して、代わりに私を引き寄せる。


「ばかだなー」


 優しく頭を撫でられて、強く抱きしめられる。そっと触れ合わせた唇から伝わって来たアップルパイの味は、確かに塩を混ぜたようだった。


「手術、受けるよ」


 景が言う。


「アップルパイ、美味しかったし」


 かけ直してくれた呪いが、そのときの私には何よりも尊いものに思えた。死なないよと言われるよりも、ずっと心強くて、ずっと温かい言葉に感じられた。


 何度も頷いてすがりついた胸の向こうで、膨らみ過ぎた心臓が、一生懸命鼓動していた。


 ■


「え? お母さん、それお塩だよ」


「そうね」


「甘いものを作るのに、お塩入れるの?」


「うん」


「どうして?」


「うちのアップルパイはね、呪われているからよ」


 パイ生地を作るのに有塩バターを使う人はいるけれど、うちではわざわざ無塩バターを使って、後から塩を足す。他の人が作るアップルパイよりも、少しだけ塩味が強いパイになっているはずだ。


 私はきっと、生涯このやり方でアップルパイを焼いていく。呪いのことについて娘に教えるのは、もう少し後になりそうだ。まだ幼いこの子には、パイ生地に塩を振るときの私の心は理解できないだろう。


 だからそれだけ教えると、娘は目を真ん丸にして瞬かせた。大きな瞳に映りこんだ私は、思った以上に幸せそうに笑っていた。

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