五.

 智将大殿は、二つの庭を取り囲む形で部屋と回廊が配置された、いかにも文士のものらしい屋敷だった。内装も調度も決して華美ではないが、程よい気品の感じられる品が揃っている。特に、温文洸の書斎に面した鉢植えと掛け軸だけが置かれた小さな庭などは、衍義智将えんぎちしょうその人の穏やかさと静けさをそのまま写し取ったかのようだ——それを江青虯に言われると、温文洸は思わず吹き出してしまった。

「褒めすぎです、陛下、ここは私が昇ったときからこうですよ。」

「そうか。ここは天界だから、庭造りを一つとっても入神の域というわけだな」

 久しく見ていなかった温文洸の笑顔に、江青虯もおのずと笑顔を見せていた。書斎を見回すと大量の竹簡がうず高く積まれており、崩れそうで崩れない微妙な均衡を保っている。

「ここでも、竹簡を使っているのか?」

 江青虯の問いに、温文洸は答えて言った。

「ええ。皆参拝のたびに新しい竹簡を供えていくので、いつでも新しい書き物ができるのです。ありがたい限りですよ」

「ほう?供え物とは、そのようなものなのか」

「はい。ここにあるのは食べるもの、飲むもの、私の竹簡のようなものまで、全て地上で供えられたものです。そういう意味では、我々の大殿も各自の廟の反映と言えるでしょう」

 温文洸は話しながら、出しっぱなしになっていた竹簡を片付けた。その横では江青虯が圧倒されたように竹簡の山を見上げている。すると、年老いた男が戸口に顔を出した。

「衍義智将、祖武王そぶおう陛下。茶をお持ちいたしました」

 江青虯は、従者をまじまじと見つめた——どこかで見たような顔の老爺だが、どこで会ったのか思い出せない。温文洸は老爺に礼を言うと、茶器の乗った盆を受け取って机に置いた。

「湯が切れたらまた呼ぶから、それまでは下がっていてくれ」

「畏まりました」

 老爺は温文洸にぺこりと一礼すると、今度は江青虯に向き直って深々と礼をした。

「祖武王陛下、天界にようこそいらっしゃいました。此度の昇天はまことにおめでたい限りです……陛下と温智将が並んでいるところを再び目にできようとは、これほどの慶事はまたとありますまい。」

「陛下はご存知か分かりませんが、彼があの竹簡を書いて献上したのですよ」

 温文洸おんぶんこうが言うと、老爺はまた深く礼をした。合点のいった江青虯が目を見開き、あのときのと呟く。

「はい。智将亡きあとは、宮殿の書記官として勤めておりました。末端にお席をいただいていたゆえ、陛下が覚えておられないのも無理はありません。では、私はこれにて失礼いたします。御用がありましたら何なりとお申し付けください」

 老爺はそう言うと、二人それぞれに礼をして立ち去った。


「なんと、あの翁が……彼もまた、天帝に召し抱えられた神なのか?」

 老爺の足音が十分に遠のいたところで、江青虯は首をかしげた。

「いえ、彼は私が召し抱えたのです。彼が世を去ったときに天帝に申し出て、私の侍従として智将大殿に迎えました」

 茶を注ぎながら温文洸が答える。

「あとはもう一人、陛下が私と一緒に埋めたあの青年もここにおりますよ。彼の庭仕事は実に見事なものです」

 江青虯はほう、と感心したような、呆気にとられたような声を上げた。

「本当だったのだな。彼らが死んだ主に仕えるというのは」

「陛下も、大殿が整えば迎えられますよ。陛下とともに埋められた者が主ですが、追加で迎え入れることも可能です。人数は神によりますが、陛下であればあと十名は確実に召し抱えられましょう。」

 二つ並んだ茶杯から、ほのかに茶の香りが立ち上る。温文洸は一つを取ると、江青虯に手渡した。

「我々は自分の大殿で、日夜を問わず参拝客の願いを聞いています。ですから、最低一人は身の回りを整えてくれる者が必要なのです。どんなに小さな願いでも、はたまた荒唐無稽な夢物語であっても、我々はそれを無視することはできないので」

「ふむ……だが、聞くだけなのか?願いを叶えてやることはしないのか?」

 江青虯が聞き返した。温文洸はええ、と頷くと、茶を一口飲んで喉を潤した。

「何故なら、我々神には、人々の願いを叶える力はないからです。それは彼らが自分でどうにかすることであって、我々が直接力添えをすることはできません。あなたが自分の力で国を築き上げたように、どんな大それた願いであっても、彼らは自分で動かなければ」


 江青虯は黙したまま、淡い色の茶を見つめた。数々の願掛けや神前での様々な儀式、その全てを本当に聞いている者がいたとは驚きだ。江青虯は生前温文洸を祀り、参拝を重ねたが、まさかその全ても天界の温文洸、衍義智将のもとに届いていたというのか?

 しかし一方で、温文洸の語る神の役割は非常にあいまいだ。神というものは、信者の願いを聞き入れるだけでなくそれに応え、時に怒りをぶつけてくるものだと思っていた。だが温文洸の話では、人間の生活に恵みや災厄をもたらす神などいないということになる。

 江青虯こうせいきゅうが押し黙っているのを見て、温文洸は棚からいくつか竹簡を取り出した。

「合点がいかないのであれば、証拠をお見せしましょう。まずはこちらを」

 そう言って温文洸が広げた竹簡には、彼自身の巧みな筆致で、ある男の参拝の様子が記されていた。たくさんの供え物を持って一人でやって来たこの男は、廟の主に自身の婚礼の報告をしていた——そしてなんと、男が並べた供え物の中には、竹簡や筆、そして多種多様な薬といった風変わりなものまでが含まれている。この描写を読んだところで、江青虯は驚愕に目を見開いた。この男は他の誰でもない、生前の江青虯自身ではないか!

「それからこれも、覚えておいでなのではないですか?」

 温文洸が次の竹簡を差し出した。江青虯はぐっと茶を飲み干すと、その竹簡を受け取って読み始めた。先の竹簡と同じ男の、別の参拝の様子が書き留められたその竹簡は、彼が身重の妻をともなって、自分たちの第一子が生まれるという報告をしているさまが事細かに記されている。

「『この子が将来私の跡を継いだときに内外のまつりごとで困ることのないよう、この子が愚策に迷うことのないよう見守っていてくれ』……文洸、これは一体何なのだ?」

 江青虯はすがるように温文洸を見た。竹簡を手に涼しい顔で立っているその姿が、ふいにどこかそら恐ろしい空気をまとって見えてくる。

「私は全て見て、聞いて、知っているということです。ここへの道すがら、陛下が話してくださったことも、全てです——ご結婚のこともご子息のことも、諸侯の統括に苦労されたことも、私の策を応用したらまつりごとが上手くいったことも。それから、即位されてすぐに、私の死を悼んで智将廟を建てられたことも」

「どういうことだ。先ほどお前は、神々の大殿は廟の反映だと言ったではないか」

「廟があって大殿がある、すなわち廟が建って参る者がいるから我々は天界に居場所を与えられるのです」

 温文洸はそう言うと、また茶を一口飲んだ。

「陛下がどうお考えかは私には分かりかねますが、これがここの真実だと私は考えています。先に神という上位の存在があって人々に影響を及ぼしているのではなく、まず人があって、彼らが神というものを作り出すのだと。私たちは、いわば虚構です。地上の不可解な事物、自分たちの力ではどうにもできない物事に答えや助けを求めた人々が作り出した答えが我々天界の神なのだと、私は思うのです。」

「では、お前が天界に昇ったそもそもの原因は、私がお前の廟を建てたことだと言うのか?私は、あの夜約束をしたにもかかわらず、あんな辺鄙な場所にお前を置いてきてしまった償いをしたかっただけだというのに」

 江青虯は半ば噛みつくように言った。天には人間より優れた人々がいて、彼らの意に沿うように万物は成っているのだと、江青虯はかつて父から聞かされたことがある。それを真に受けたわけではなかったが、それでも頭のどこかでは、自分たちの人生を操る見えない力が働いているとぼんやり考えていた——それこそ、若き覇者である自分が、病弱でありながら誰よりも頭の切れる逸材を見出したのは天が定めたことなのだと、ずっと考えていたように。

 そして温文洸は、静かに頷いて言った。

「はい。陛下が私の廟を建て、時にお一人で、時に諸侯や奥方やご子息をともなって参拝に来られたことが、天帝が私の昇天を認めたきっかけだったのではないかと私は考えています。おまけに建国を支えた天才軍師という話が広く伝わったこともあり、皆が知恵を求めて私を拝みました。宇国全体という広大な地域の人々に広く信じられていると分かったからこそ、天帝は私を天界の末席に加えてくださったのでしょう……中でも陛下が、一番私に祈りや感謝をささげてくださいました。先の帰り道で、陛下が私の一番の信者だったと申し上げたのはそういうことです」

「それでは、今のお前……衍義智将は、私が作り出した虚構だと言うのか?私もまた、民の虚構の一部になってしまったのか」

 そう尋ねた江青虯は、口調こそ険しかったが、心の内ではすっかり混乱していた。 

 窓の外はいつの間にか鮮やかな朱に染まり、灰色の雲が緩やかに流れていく。この美しい空間、百年という年月を経て再会したかつての右腕、かつての頭脳、かつての忠臣たるこの戦友、その全てが虚構であるならば、自分は一体何だというのだ?また、昇天を許されたということは、自分にも多かれ少なかれ信者がついているはずだと江青虯は思っていた。だがそれは、「祖武王そぶおう」という神を作り上げた身勝手な群衆に過ぎないというのか?


 ところが、返ってきた答えは否だった。温文洸は茶杯を置くと、穏やかな声で

「そうではありません」

 と言ったのだ。

「たしかに、我々は作り上げられた存在です。ですが、人々がそれを信じ、よりどころとする限り、我々は確かに存在しているのです。彼らにとって我々は現実のものであり、決して虚構などではありません。彼らが我々を信じ、我々という存在を頼みにする限り、我々は確かに存在し続けるのです。現にこの天界だって、それで成り立っているのですから。

 それに、あなたが世を去られたとき、私たちは見たのです。民があなたを讃えて廟を建て、ご子息もそれに協力したことを。そのときからあなたは、宇国の祖、智と仁の心をも備えた武神祖武王そぶおうとして、民に広く頼られる存在となったのです。そして天帝からも、宇国の守護神として正式に認められた。民がこうして架空の力に頼るとき、私たち神の存在は確固たるものになります。彼らがいると信じていれば、私も、あなたも、決して虚構にはなり得ません。むしろそれは現実になるのです」

 温文洸はかつてのように、よどみなく話した。その姿は記憶にあるとおり凛として説得力に満ち、抱いた疑惑が雪のように溶けていく。

「鶏と卵のような話ですが、私はこれが真実だと思っているのです。お分かりいただけましたか?」

 温文洸はそう言って、茶杯の残りを口にした。

「それに、私はあなたが一番の信者で良かったと思っているのですよ。もしあなたが私の廟を建てていなければ、もし私の知恵を使って国を治めただけだったら、こうして再び相まみえることはなかったのですから」

 温文洸は江青虯に向き直ると、拱手して頭を下げた。

「ありがとう、青虯。私との約束を守ってくれたこと、あなたともう一度会えたこと、感謝に堪えません。」

 江青虯は温文洸の手を取って顔を上げさせた。視線が絡まった瞬間、あの夜に温文洸がささやいた言葉が鮮明によみがえる。同時に、江青虯の胸の内でずっと渦巻いていた思いが、言葉となってこぼれ落ちた。

「……今しばらく、お前と共に過ごしたい。あれが最後と言わず、お前のそばで、もう少し……構わないか」

 江青虯はそう言って、温文洸の頬にそっと触れた。

「もちろんです。もう外も暗い、今夜はぜひ泊まっていってください」

 温文洸は柔らかく笑う。そのまま江青虯の腕に引き寄せられ、胸の中におさまった温文洸は、あの夜と同じ言葉をささやいた。

「あなたというがいて、私は幸せです。」

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白玉楼の神と人 故水小辰 @kotako

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