四.
その夜、
幸いなことに、同じ病で臥せる者は一人も出なかった。それは江青虯も同様で、皆が一様に胸をなでおろしたことは言うまでもない。そして四日目の夜、江青虯はようやく温文洸を見舞うことができた。
江青虯が天幕に入ったとき、温文洸は、床で小さくなって浅い寝息を立てていた。天幕の中はかすかに異臭が残っており、温文洸と彼の侍従たちの連日の苦難をありありと物語っている。江青虯は寝台の端に腰かけると、そっと手を伸ばして赤みの差した頬に触れた。肌に伝わる熱は思いのほか熱く、まるで体の内から火攻めにあっているようだ。江青虯は机の上に置かれたたらいに目をやると、手拭いを浸して絞り、うっすらと汗のにじむ額を拭き始めた。手拭いの冷たさが気持ち良いのか、温文洸の寝顔が少し和らぐ。だが、その頬は目に見えてやつれ、彼が弱っていることは明らかだ。江青虯は手拭いを洗って絞ると、いつくしむようにその頬に当ててやった。
「ん……」
温文洸が身じろぎしてぼんやりと目を開ける。江青虯は手を止めて、
「文洸?」
と呼びかけた。
「文洸、私だ。青虯だ。」
「陛下……」
温文洸はぼんやりと江青虯を見上げ、次いでうろたえたように天幕の入り口に目をやった。
「大丈夫だ。ここには私しかいない」
江青虯が告げると、温文洸は安堵のため息をつく。
「具合はどうだ?」
「見ての通りですよ。熱は全然退かないし、まだ腹が重たくて苦しいんです」
温文洸は悲しげに言うと、江青虯に手を伸ばした。
「申し訳ございません、陛下。せっかくここまであなたに応えてきたのに、最後の最後に失望させてしまいました」
「こればかりは仕方がない。それに、此度の病でお前のこれまでの働きが無に帰すことなど断じてない」
江青虯は枕元に膝をつくと、温文洸の熱い手を握り返した。
「何事が起ころうとも、お前は最高の軍師であり続ける。お前の叡智を貶める者がいれば、この江青虯が容赦しない」
温文洸は、今度は声を立てて笑った。弱り切った笑い声だけを聞いていると、今にも力尽きてしまいそうだ。
「御冗談を。その者は知性で私と渡り合えるかもしれないのですぞ?」
「そうだとしてもだ。……なあ、文洸」
「二人きりなのだから、名を。呼んではくれまいか」
江青虯の願いに温文洸はクスリと笑うと、「分かりました、青虯」と答えた。
「文洸。お前がここまで私に従い、尽くしてくれた恩を私は絶対に忘れない。お前という頭脳を得たからこそ私はここまで来ることができた。それをお前自身にも分かっていてほしい」
「もちろん分かっていますよ。あなたはそこらの脳筋よりは頭がいいですが、それだけの国王です。私がいないと宇国はすぐに潰れてしまう。」
厳しい言葉に、江青虯は思わず苦笑した。温文洸は手をほどくと、肘をついて起き上がろうとした。
「……ねえ、青虯」
よろめく体を慌てて抱き留めた江青虯の腕の中で、温文洸は言う。
「一つ、約束してくれますか。この先何があろうと、決して私を切り捨てないと」
そのすがるような目に答えるように、江青虯は力強く頷いた。
「もちろんだ。約束しよう、文洸、私がお前を無下にすることは絶対にない」
温文洸は安心したように息を吐くと、顔を江青虯に近付けた。耳元で何やらささやいてから顔を離し、江青虯に告げる。
「青虯も、もう休んでください。夜襲の計画もないのなら、英気を養った方が得策です」
「そう、だな……」
江青虯は呆然としたまま、温文洸を助けて横にならせた。先ほど言われた言葉が、頭の中で幾重にもこだましている。そのまま目を閉じて再び寝息を立て始めた温文洸を残して、江青虯は自分の天幕へと帰っていった。
そして、これが二人が言葉を交わした最後の時となった。
彼は江青虯に、三つの竹簡を遺していた。どれも彼のものではない字でつづられていたが、内容はたしかに温文洸の叡智によるものだ。
竹簡を献上した侍従が告白したことには、温文洸は病に倒れたその日のうちからこれが最後と覚悟を決めていたらしい。そして最期まで主に尽くすべく、あの日伝えきれなかった戦略を彼に言って書きとらせたのだ。三つ目の竹簡の末尾にだけ、おぼつかない字で——しかしたしかに温文洸の筆跡で、短い走り書きが残されていた。
『臣が力をお貸しできるのは、おそらくこれが最後です。どうか良いようにお使いくださるよう、さすればこの三つの竹簡が成し得ることは、温文洸にとって最大の誉れとなりましょう。』
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