三.
ところがその日は、温文洸の言葉がぷつりと途切れた。皆が視線を向ける中、温文洸は仕切り直すように咳払いをして、続けましょうとにこやかに言って地図に向き直る。
「先ほど申し上げたとおり、この地形における攻め方としては二通りがありますが、仮に我が軍がこちらから……ゴホン、こちらから攻めるとなると、障害となるのがこの……つまり……」
今や誰の目にも異変は明らかだった。地図を指す指は小刻みに震え、顔は化粧をしたように真っ白で、暑くもないのに額にはうっすら汗がにじんでいる。
「……失礼」
温文洸は消えそうな声で一言告げると、慌てて天幕の外に出ていった。皆がざわめき、江青虯が後を追おうと立ち上がったその時、ひどくえずく音とともに外がにわかに騒がしくなった。
「文洸!」
何が起こったかは明白だ。江青虯は椅子を突き飛ばすと、血相を変えて天幕を飛び出した。
まず目に着いたのは、天幕から数歩のところで呆然と立ち尽くす温文洸の後ろ姿だ。通りすがりであろう兵士たちがその周囲を遠慮がちに囲んでいて、半円状の人だかりができている。
「文洸、大丈夫か?」
江青虯が温文洸に歩み寄ると、温文洸がゆっくりと振り返った。白い顔に浮かぶのは混乱か絶望か、助けを求めるような視線が江青虯をとらえる。色を失った唇には白っぽい吐瀉物が着いていて、胸の前で行き場を失っている手からは汚物が少しずつこぼれ落ちている。
「へいか……ッぅえッ、オ゛エエッ!」
すでにべとついて汚れている手で、温文洸は口元を抑えてまた吐いた。手からあふれた汚物が胸元や足元を汚し、人だかりが驚きの声とともに後ずさる。江青虯自身もぎょっとして立ち止まり、差し伸べた手が宙をさまよった。
「医者だ!誰か医者を呼んで来い!それから水を持ってこい!」
江青虯はハッと我に返ると、悲鳴のような声で命令した。ゲホゲホと咳き込む温文洸の背中をさすってやるだけの頭は残っていたものの、自分まで気が動転してしまっている。温文洸のふらつく体を支えて地面に座らせると、温文洸は江青虯にぐったりともたれかかった。その体を抱き留め、さすり続けながら江青虯は蒼白な顔の温文洸に呼びかけた。
「文洸、私の声が聞こえるか?文洸?」
「へいか……」
温文洸はまた口元をおさえて咳き込むと、空いている地面に顔を向けて三回目の嘔吐をした。
「今医者を呼びに行かせたから、あと少しの辛抱だ。あと少しだけ耐えてくれ」
江青虯が声をかけると、温文洸は力なく頷いた。よく風邪をこじらせたり、食べ物が合わなくて厠にこもったりはしているが、それでも温文洸は宮殿に召し抱えられてからは長期にわたって臥せることはなくなっていた。それがここに来て、ここまでひどく体調を崩すとは——それも最後の戦を控えたこの大切なときに。
天幕の入り口では、諸侯が固まって何やら言葉を交わしている。内容までは聞き取れなかったが、大方宇の軍と自分たちの行く末が気になっているのだろう。兵士の一人が水を持ってきたのを受け取ると、江青虯は手で水をすくって温文洸の口元に運んでやった。だが温文洸は顔を背けて水を受けつけようとしない。
「へいか……ここはひとの目が……」
弱々しい声で温文洸が訴えた。江青虯を見上げる目にも、やめてくれという切実な願いが宿っている。
「だが、これではお前が不快なだけだろう。まずは口と手を清めろ。」
江青虯はそう言うと、もう一度水をすくって運んだ。温文洸は少しためらったが、諦めて大人しく口をすすぎ、水を吐き出した。江青虯は剣帯に挟んでいた手拭いを水に浸すと、手早くその口元を拭ってやった。血の気の引いた唇と白いあごについた汚れを拭きとり、続けて手の汚れに取りかかる。水でだいたいの汚れを流すと、江青虯は指や爪の間、手のしわに残った汚物を拭っていった。主君を拒む気力も湧きおこらないのか、温文洸は完全にされるがままだ——温文洸はそのまま、駆けつけた軍医の指示で担架に乗せられ、自身の天幕まで運ばれていった。
***
その後
「先ほども申し上げましたが、軍師は胃腸をひどく病んでおいでです。我々よりお体が弱いので、おそらくは水か、食物か、はたまた排泄物からよからぬものをもらったのでしょう」
「そうか……して、治る見込みはあるのか?」
江青虯が尋ねると、軍医はゆっくりとかぶりを振った。
「そればかりは、なんとも申し上げかねます。ここが宮殿であっても、温軍師の体がもつかどうかは不明です。ですが陛下、一つ言えるのは、宮殿はよく清められており薬も豊富で、滋養に良い食事も提供できるということです。回復の見込みはここよりもあるでしょう。ここは清潔でもないし、薬も宮殿に比べれば限られたものしかない。食事も、今の軍師の体調では受けつけないものがほとんどです。そもそも戦場では、いつ誰がどんな病になるか知れたものではありませぬ。ひとたび重病の患者が出れば、それが軍全体に広まる可能性だってある……軍師のご病気は、きわめて重く見るべきかと」
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