二.

 智将大殿ちしょうだいでんに帰る道すがら、江青虯は物珍しげにあたりを見回していた。薄い雲のたなびく青い空に穏やかな空気、様々に趣向の凝らされた屋敷の数々は、初めて見る者の目にはたしかに珍しく映る。だが、江青虯はその一方で、体力のない温文洸のために、わざとゆっくり歩いていた。その様子に、温文洸は出会って間もない頃、江青虯の迎えで宮殿に行った日のことを思い出した——あのときは数年に渡って臥せていた大病がようやく癒えたあとで、温文洸は遠出などできない状態だった。それを知った江青虯は輿を用意させて自ら温文洸のもとにおもむき、道中もあれこれと気を遣いながら宮殿へと導いてくれたのだ。結局は疲労が勝ってしまったが、それでも江青虯という男の気遣いに救われたように感じたのは勘違いなどではない。


 ふっと笑みをもらした温文洸に、江青虯がどうしたと問う。温文洸は扇子をもてあそびながら答えた。

「一つ思い出したことがありまして。陛下は覚えておいでですか?私が初めて宮殿に招かれたときのことを」

「もちろんだ。忘れるわけがない」

「あのときは、私ごときがあれほど手を尽くしていただけるなど驚きでしかありませんでした。ですが、あなたにお仕えした短い年月の中で、あれがあなたのやり方だというのを私は身をもって知ったのですよ。今とて、私の足に合わせてくださっているのでしょう?」

「さすがは我が頭脳だ、その目は衰え知らずだな。それとも天界に昇ってから磨きをかけたか?」

 呵々大笑する江青虯につられて、温文洸も声を上げて笑う。穏やかな晴天に吸い込まれる豪快な笑い声も懐かしいことこの上ない——温文洸は、江青虯の豪の者っぷりをよく知っていた。宴の席で誰よりも杯を傾け、しかし酔いつぶれることなく最後まで客をもてなし、それどころか酔って無礼を働いた客の片までつけるほどだったのだ。もちろん温文洸が退散する頃合いも作ってくれた。百年も前のことだというのに、まるで昨日のことのように思い出せる。

 温文洸は思い出話を持ち出し、一方の江青虯は彼が死んだ後のことを話した。温文洸が遺した戦術で最後の戦に大勝し、中原を平定したこと。諸侯も国民も、全て温文洸の知恵を駆使して治めたこと。そして、彼が出した命令のこと。


 内政が安定すると、江青虯は戦の犠牲者を弔ってあちこちに祭祀堂を建てさせ、その中で亡き軍師温文洸を祀る廟を建てさせた。温文洸の功績によって宇国が興ったことは国中の者が知っている。しかし温文洸は戦地で病死したために、侍従一人とわずかな副葬品とともに野営地の隅に埋葬するより他になく、江青虯はそのことをひどく悔いていたのだ。そんな宇王たっての願いとあっては誰も建設に反対しない。完成した智将廟を祖武王は一番に参り、諸侯や他の家臣がそれに続くと、数年後には宇国中が知恵を求めて彼に祈りを捧げるようになった。そして江青虯自身も、人生の節目やまつりごとで行き詰ったときに必ず智将廟を訪れた。亡き軍師、亡き友が、生前と同じように彼に知恵を与えて前途を支えてくれるようにと祈りながら——


「……それはつまり、あなたが私の一番の信者だったということですか。」

 一連の話を聞いた温文洸おんぶんこうは、しかしさして珍しくもなさそうに呟いた。その平坦な調子に、江青虯は首をかしげた。

「あそこで力尽きていなければ、お前は私と共に何十万という民を統べていたのだ。私の右腕、私の頭脳たるお前の叡智を仰ぐのは当然であろう?それにあの夜の約束も——」

 シーッ、と、温文洸は閉じた扇子を口元に当てて江青虯を遮った。慌てて口をつぐんだ江青虯に低い声でささやく。

「陛下、ここは人の目があります。その話はどうか智将大殿に着いてから」

「あ、ああ……すまない、つい熱が入ってしまった」

 小声で謝る江青虯。だが温文洸は、次の瞬間にはぱっと顔を明るくして江青虯に呼びかけた。

「ああ、でもその必要はなさそうです。陛下、我が智将大殿に着きましたよ」

 二人の前には、「大殿」の名のわりにはこじんまりした屋敷が建っている。それでも大門と外壁から、道すがら目にした神々の住まいに負けるとも劣らないものであることは十分にうかがえた。朱塗りの門の上部は彫り物で飾られ、中の遍額には金の塗料で書かれた「智将大殿」の四文字が燦然と輝いている。温文洸が近付くと門が中から開き、若い侍従が主人とその客人をうやうやしく出迎えた。

「さ、どうぞ中へ」

 温文洸に促され、江青虯が敷居をまたぐ。二人が門から離れると、侍従は門を閉じて厨房へと姿を消した。


***


 江青虯こうせいきゅうが若くして父の跡を継ぎ、ゆうの主となったとき、彼らの上に立つ王は名前だけの存在になっていた。中原では諸侯がにらみ合い、いつもどこかで戦が起きている。そして案の定、江青虯の邑は、主君が二十そこらの若者になったと知れた途端に一斉に狙われた。

 ところが、江青虯は襲撃をことごとく退けた。そればかりか彼らの領土を次々と併合し、一大勢力圏を築いたのだ。江青虯は広大な領土を宇国と名付け、その王を名乗るようになった。そして宇国をより強大にするために、彼を支える賢者を求めて領土の隅々まで人を遣わした。その中で見いだされ、宮殿に迎えられたのが温文洸だ——風雅で穏やかなこの若き文士は、宇王と同年代の若者でありながらなかなかの切れ者で、彼を見つけた家臣が是非にと太鼓判を押したほどだった。

 しかし、一つだけ問題があった。彼は佳人薄命そのもので、今も大病で数年間臥せっていたのがようやく回復したところだという。それを聞いた江青虯は自ら輿を従えて彼の住まいに出向いたが、温文洸は宮殿に着くなり疲れから寝込んでしまい、その日は誰の前にも顔を出すことができなかった。

 頭は切れても、これでは何の役にも立ちやしない——この貧弱な文士には誰もが眉をひそめ、見切りをつけていた。ところが、一夜明けてようやく姿を見せた温文洸は、家臣から出された無理難題によどみなく答え、それどころか問題の矛盾点や出題に隠れた下心をも全て看破してしまったのだ。さらには江青虯の政や戦の問いにも迷いなく答え、その発言はどれも的を得ているときた。温文洸は、体こそ弱かったが、その知性においては宇国の誰よりも優れていたのだ。江青虯は迷うことなく温文洸を登用し、彼を軍師の座につけた。


 だが、前線に出させるには、温文洸はあまりに体が弱かった。従軍こそしていたが、温文洸は戦場には姿を見せず、代わりに戦術を記した竹簡を江青虯のもとに届けさせて役目を果たしていた。戦上手の江青虯でも重宝するほどに、竹簡に詰められた叡智は素晴らしく、おかげで宇国はさらに多くの領土を平定した。武功に優れた王と病弱ながらも宇国一の軍師、二人の若き天才が手に手を取って広大な王国を築いていくさまは多くの歌に詠まれ、皆が天下無敵と褒め称えた。

 ついに二人は、強敵にして隣国のせいを討つのみというところまでやって来た。この最後の戦のときに、ようやく温文洸は前線の野営地に姿を見せた。ゆったりとした着物を着、竹簡を手に智謀を巡らせるこの軍師のおかげで、江青虯はここでも連勝を重ね、あとは栖王軍の立てこもる城塞を落とすのみというところまで追い詰めた。

 

 だが、戦場はもとより体の弱い者には居場所のない環境だ。それを裏付けるかのように、前線に来てからひと月ほどが経ったころ、温文洸はあっさりと病に倒れてしまったのだ。

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