一.

 温文洸おんぶんこうは、読んでいた竹簡を置いて窓の外に目をやった。ここ天界にはいつも穏やかなそよ風が吹いているが、今日はそうではないらしい。庭の木が大きく揺られて、ザワザワと音を立てている——いつの間にか空には雲が厚く垂れこめていて、嵐でも来そうな空模様だ。温文洸は扇子を手に取ると、竹簡が所狭しと積み上げられた書斎をあとにした。


 広い庭を足早に通り抜け、植木を整えていた侍従の青年に外出を告げて智将大殿ちしょうだいでんを出ると、ゴロゴロという低い音とともに雲の合間に光が見えた。あたりには強風が吹いていて、ゆるくまとめただけの長髪やゆったりした作りの着物は簡単に乱れてしまう。灰色の雲はある場所を中心に渦を巻いていて、光はその中心部、渦の目のあたりで絶えず発生している。天界に上げられて百年余り、温文洸はこの光景を何度か目にしてきた。そして今回も、光の中に時折人影のようなものがちらついている。温文洸は目を凝らしてその影を見ていたが、驚きに目を見開くと慌てて駆けだした。

 すると突然、ひときわ明るい閃光がひらめいた。一条の雷光が地を打ったかと思うと、地鳴りのような轟音と地震が温文洸を襲う。激しい衝撃に足元をすくわれて、温文洸は地面に倒れ伏した。

 怪我、病、悪天候、災害、地上にいた頃には散々煩わされたもの全てがここ天界には存在しない。そんな天界が天変地異に見舞われるとき、それは新しい神が迎えられるときに他ならないのだ。そしていつものように、揺れはすぐに収まって空も何事もなかったかのように晴れ渡っていく。温文洸は立ち上がって膝を払うと、雷の落ちた場所に向かって走り出した。


 新しい神は、自身の大殿のできる場所に雷とともに落ちてくる。今回は智将大殿からはさほど離れていなかったが、それでも生前から体が弱く、体力も乏しい温文洸が走るには辛い距離だ。途中で何度か立ち止まりながら、息を切らしてようやく到着したときにはすでに人だかりができていた。額の汗を拭い、両手を膝について息を整える間にも、人々——もとい神々が新入りを囲んでいる声が次々と耳に飛び込んでくる。

「ついに昇天されましたな!あなたほどの仁君ならばもっと早くに来られてもおかしくなかったのに」

「いやはや、あれほどの揺れを起こすとは、やはり只者ではありませんな。さすがは祖武王そぶおう陛下だ」

「そうですね、さすが国中から信仰されているだけのことはありますわ。貴方が昇られたと知ったら、衍義智将もお喜びになるでしょう」

 祖武王と衍義智将の名が耳に入った途端、温文洸ははじかれたように顔を上げた。

「まさか、江——ッ、けほん、こう青虯せいきゅう陛下か?陛下が……本当に、ぅゲホッ、ゲホッゲホッゴホッ!」

 まだ息が上がっているところに慌てて言葉を発したせいで、温文洸は派手にむせてしまった。もちろん、興奮した人だかりの後ろで一人咳き込む温文洸に目を向ける者は誰もいない。

「しかし、衍義智将えんぎちしょうはどこにいる?誰かが昇天したら必ず顔を出すのに」

 誰かが温文洸の名を出した——その一言を皮切りに群衆の話題は彼に移り、皆があたりを見回し始める。

「そういえば私も見ていませんわ。今回はご親友の祖武王陛下だと言うのに珍しい」

「もしかして、道中でへばっているのではないか?ほら、あの方は昇天しても体が弱いままだから……」

「待て、文洸もここにいるのか?道中でへばっているとは何事だ?」

 群衆の声を遮って、ひときわ力強い声が聞こえてきた。太くたくましいその声は、何年離れていても間違えようがない。温文洸はどうにか息を整えると、

「陛下、ご安心を。臣はここにおります!」

 と、扇子を持った手を振りながら大声で言った。

 途端に、群衆は水を打ったように静まり返った。皆が温文洸を振り返り、人垣が割れて中心にいる人が姿を現す。温文洸は、百年越しに再会したその人物、かつての主君こと祖武王・江青虯と見つめ合った。


 温文洸が世を去ったのは、宇国が中原を平定する直前のことだった。江青虯のために無理をして戦場に行き、そこで病を得て帰らぬ人となってしまったのだ。それから天界の神々に加えられて昇天したときには、実に二十五の年月が流れていた。

 一方の祖武王こと江青虯こうせいきゅうは、若き覇者として諸侯の頂点に立ち、国の初代国王として三十年にわたって国を治めた。それから七十年余り経ってようやく昇天したということは、彼がゆっくりと、時間をかけて着実に、宇国の民から広く崇められる存在になったということだ——二十代という若さで周辺の諸侯を従属させ、広大な王国を築き上げたこの主は、年を重ねてなお衰えを見せない堂々たる体躯に精悍な顔つきをしていた。髪がいくらか灰色になり、目元の険しさが増し、小さな皺が増えた以外は何一つ往時と変わらない。温文洸は裾を払って片膝をつくとこうべを垂れて、

「祖武王陛下の昇天を心よりお祝い申し上げます。願わくは陛下を慕う国民が、これからも陛下の武功と仁政を忘れることなく、陛下への信心を持ち続けますよう、微力ながらお祈り申し上げまする。」

 と述べた。

「温智将、そなたとこうして再び相まみえるは我が最大の慶事である。万事変わりないか?」

 江青虯はそう言いながら温文洸おんぶんこうに歩み寄り、腕を取って立ち上がらせた。その声は最後に聞いたときから深みを増し、一国の主にふさわしい威厳を供えている。さらに、江青虯の声からは、長い年月を経て再会した友への情がにじみ出ていた。二人が並ぶと温文洸の貧弱さがより一層目立ってしまうが、江青虯はその貧弱さを気遣えない朴念仁ではないのだ。自身に向けられた鋭くも優しいまなざしに、温文洸は疲れも吹き飛ぶような心地になった。

「はい。ここに迎えられてからは、病を得ることもなく過ごしております。体力の方は相変わらずですが……」

「気にせずともよい。そなたの武器は体ではなく頭なのだから、健康に過ごせているならそれで良い」

 温文洸が自虐を交えれば、江青虯はしごく真面目な顔でそれを否定する。肩に置かれた手も決して力のあり余った男のそれではなく、温文洸の薄い肩をふわりと優しく掴んでくれている。

 二人は少しの間見つめ合っていたが、ふいに江青虯があたりを見回して言った。

「ところで、私はどこに滞在すれば良いのだ?この場所には何もないが」

「それならば、日暮れまでお待ちいただければ祖武王陛下の大殿が完成いたします」

 周囲を見回す江青虯に、人垣の中から誰かが答えた。

「せっかく再会されたのですし、今日は一日衍義智将と過ごされてはいかがです?積もる話がおありでしょう」

 また別の誰かが言った。その言葉につられて、群衆も口々に賛成の声を上げる。衍義智将と祖武王の物語は、宇国建国の歴史における重要な要素だ。それは天界においても同様で、しかもここにいる皆が二人きりで時間を過ごすことに賛意を示している。江青虯はそれを見て取ると、温文洸を促して人垣から離れていった。


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