春と修羅

水科あき

春と修羅

 窓の外で、今朝干したばかりの洗濯物が風に揺れている。二人分の下着と、わたしのインナーと、佳孝よしたかのワイシャツと。佳孝と暮らし始めてから、一人暮らしをしていたときよりも洗濯が好きになった。と、いうか、日課なのだから好きも嫌いもないのだけれど。

 それでも。一人で部屋にいても、ベランダに干された洗濯物を見ていると、それらはまるで佳孝の抜け殻のように、頼りなく揺れて、揺れて、風にその身を任せているさまは、佳孝のすこし草臥れた笑みのようにわたしの心をなだらかにする。

 こじんまりとした二DK。狭いベランダ。だけど窓の多くて陽当たりのよいこの部屋をわたしも佳孝も気に入っていて、特に寝室にしている和室が、佳孝の心を射止めた。「ここにしよう」。内見してすぐ、彼はそう言った。まだ三つしか物件を見ていないのに。でもわたしは、素直に頷いた。

 午後の二時を過ぎていた。初夏を迎えようとしている太陽は天辺にあって、わたしの頬をあたたかなてのひらで撫でる。

 ふいに、衝動が湧き上がる。煙草が吸いたい。喉を鳴らして唾を飲み、一つため息を吐き出す。

 煙草を断って一年が過ぎていた。これまでいちども吸いたいと思ったことはないのに、このところしきりに喫煙の衝動が襲ってくる。襲ってくる、というのはすこし誇張しすぎているか。体の末端からじわりじわりと蝕むように、悪魔はわたしに囁きかける。吸ってしまえ。吸ってしまえ。

 別段、吸ってはいけない理由はなかった。子どもを持つ予定はなかったし、夫である佳孝は喫煙者で、つき合っていたころはふたり並んで煙草を吸っていた。唯一気になるのは低用量ピルを服んでいることくらいだが、何にせよ誰に迷惑がかかるわけでもない、喫煙の罪は、わたしに健康被害というかたちで返ってくるだけだ。

 体の疼きを逃すように、大きく伸びをする。顎を持ち上げて、天井を見つめる。白い天井。佳孝は部屋が煙草臭くなるのと、壁が黄色くなるのを嫌って――そしておそらくわたしに気を遣って――、喫煙はいつもベランダだ。風が吹こうが雨が降ろうが。喫煙者の煙草への執念はすごい。煙草をやめて、特に禁断症状に見舞われたわけでもないわたしは、佳孝のなにがなんでも煙草を吸う、という気持ちの強さに圧倒され、同時に、わたしもむかしはああだったのだ、と、まだ一年しか経っていないのに、喫煙の習慣を懐かしんだりする。

 築二十年のアパートだというのに、嫌味なほど白い天井が、わたしの頭上にはあって、昼のやわらかな陽を受け止めている。

 いま、ここで煙草を吸ったら、この白い天井はヤニで汚れてしまうのだろう。傷一つついていない子どもの頬を傷つけてしまうような罪深さを感じ、わたしはまた一つ、唾を飲みこんだ。

 ラグの上に体を横たえる。瞼を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。悪魔の囁きはしだいに耳の奥に潜りこみ、遠のいていく。こいつはもうだめだ。悪魔がそう言ったのがわかった。わたしを見限った悪魔は、きっともうわたしの元には現れない。どこか別の誰かを誘惑しに、西へ東へ。

 わたしはきっともう、二度と煙草を吸わない。なぜか確固たる自信があった。煙草などなくても、生きていかれる。煙草などなくても、生きていかれる体になったのだから。

 もう少ししたら夕飯の買い物に行ってこなければならない。それまで、すこし、眠ろう。

 わたしはクッションを枕にして、眠りの世界に身を沈めていった。

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春と修羅 水科あき @miz_aki

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