4

 ユタカ達三人は日がとっぷりと暮れた頃、やっと孤児院に帰り着いた。

 ユタカとクッカの帰りが遅いことを心配したらしいハル先生が建物の前で待ってくれていて、こちらに気がつくと大きく手を降って駆け寄って来た。


 ユタカはハル先生の顔を見たら、引っ込んでいた涙が一斉に飛び出して来てしまった。シズに手を借りて馬を降りるとハル先生に抱きついてわんわん泣いた。

 こんなに馬鹿みたいに酷く泣いている所なんてクッカには絶対に見られたく無かったが、それを我慢する余裕は皆無だったのだ。


 ユタカの様子に驚愕するハルにシズとクッカが訳を話すと、ハル先生は他の子供達の相手をシズ達に任せて、ユタカを寝室に連れて行ってベッドに座らせた。


「無事でいてくれて良かった。ユタカ。

 それだけで十分よ。あなたは本当によくやったわ。強いわね」


 ハルはそう言ってユタカを抱きしめ、泣き続けるユタカの背中をさすり、手を握っていてくれた。

 ほんの幼い頃、悲しくて眠れなくなった時にハル先生によくこうしてもらった。


 赤ん坊の時に孤児院に捨てられたユタカには、本当の父母のことを想って悲しみ、怒り、恨んでは涙して眠れなくなる夜が幾度となくあった。だから、一人の夜はいつだって苦手だ。

 でも、その度にハル先生はユタカを決して否定せず、ただ寄り添って微笑み、話を聞いて背中をさすってくれた。


 本当の父母には会うことはもう、叶わないかもしれない。それでもユタカは、自分の母の代わりとなってくれたのがハルで本当に良かったと、抱きしめられた温もりの中ではっきりと思った。


 —


 ハルはやっと泣き止んだユタカに、「今日は当番の仕事はしなくていいわ。食べられそうだったら食べてね」と言い、夕食のシチューを載せた盆をかたわらのサイドテーブルに置いてくれた。

 大泣きした後できょうだい達と一緒に食事は気まずいだろうと察してくれたのだろう。

 いつだってハル先生はユタカのことをよく分かってくれる。


 しかし、ユタカは食事に手をつける気分になれず、夕闇に包まれた寝室で一人、布団にくるまっていた。サイドテーブルのオイルランプの揺れる光がユタカの周囲だけを静かに灯す。

 今は夕食後の自由時間で、階下からはきょうだい達の楽しげな声が遠巻きに聞こえてくる。

 子供達のベッドの並ぶ寝室に一人きりでいると、何だかいつもと全く違う場所にいるみたいだった。


 クッカが回復魔術をかけてくれたお陰で身体はどこも何事もなかった様に治っていたが、今日の出来事はユタカの自尊心に傷を付けた。


 ハル先生はユタカを強いと言ってくれたが、それは違う。本当に強かったのは、シズだ。自分ではない。

 クッカを助けたかったのに何一つ出来なかった事実が、ユタカの胸に重くのしかかる。もう一度涙が滲んできそうになって、ユタカは鼻を啜った。


 その時、きい、と寝室のドアが開く音がした。


「ユタカ。起きてる?」


 クッカの声だ。ユタカは思わず、少しだけ出ていた頭をぐっと布団の中に引っ込めた。今日で会えるのが最後だとしても、恥ずかしくてクッカにはもう合わせる顔がない。


 しかし、クッカはユタカが首を引っ込めたことで起きていると判断したらしく、とととと、と軽い足音を立ててユタカのベッドのところに走り寄り、ぼすんと音を立てて座った。


「今日すっごく、かっこよかった」


「嘘だ」


 ユタカはクッカの思いがけない言葉に掠れた声で一言だけで答え、顔を枕に押し付けた。

 ただいきがって、殴られ蹴られしただけだ。何も出来ずに、足手まといになった。クッカが泣いたのも、ユタカのせいだ。酷く心配をかけた。


 ユタカの言葉にクッカがため息をついたのが聞こえた。


「ねえっねえ、ねえってば。起きてよう」


 クッカがそう言ってぷにぷにとユタカの頬を指で押す。ユタカはしばらく無視していたがクッカが一向に止めないのでくすぐったく、堪えられなくなってがばっと布団から起き出した。


「っもう、何だよ!」


「じゃっじゃーん!」


 クッカが満面の笑みで白い包みをユタカの前に差し出した。今日の売れ残りのアップルパイだ。そういえば、男達が現れた時に自分の足元に置いたきり、その存在を完全に忘れていた。


「アップルパイ持ったままだとシズ兄さんの馬に乗れなかったから、肩掛け鞄に縦に入れちゃった。だからちょっと崩れてるかもだけど。二人で全部食べちゃおー」


「何でちゃんと、持って帰って来るんだよ」


 あの状況でアップルパイを忘れずに持ち帰ってくるクッカに、ユタカは思わず笑ってしまった。


 クッカはふふふっと笑いながら手にしたアップルパイの包みをベッドに置いていそいそと開いた。


「うわっ」


 包みから出てきたアップルパイを見て、思わず二人は声を上げた。


 それは言われなければアップルパイだとは分からない位に、見るも無惨にぐしゃぐしゃに潰れていた。

 黄金色に輝いていた表面のパイの網目はばらばらに砕けてリンゴの甘煮と混ざり合い、底面のパイ生地が折れ曲がって端に寄っている。

 無理もない。ホールのアップルパイを縦にして肩掛け鞄に入れたらこうなるに決まっている。


「酷いなこれ」


「最早何だか分かんないじゃん! あんなに綺麗に出来てたのに」


 アップルパイの予想外の酷さに、二人は思わず声を上げて笑った。


「まっ、食べれば一緒っしょ!」


 クッカは笑い涙を指先で拭いながら、スカートのポケットからフォークを得意げに二本取り出して、一本をユタカに渡した。食堂からこっそり持ってきたのだろう。ユタカがクッカが好きなのは、こういう所なのだ。


 かつてアップルパイだったものを、ユタカとクッカはベッドの上でフォークで突き合った。


 一口食べれば、その甘さがびっくりするくらいに美味しかった。食欲が無かったのが嘘みたいだ。

 さくさくとした食感が消えてパイとしての美味しさは完全に損なわれていたが、ユタカはこのアップルパイが何故か、今までに食べたどんな食べ物よりもずっとずっと美味しく感じた。

 それは多分、クッカと一緒に笑いながら食べているからだ。


「ぐっしゃぐしゃでも、やっぱ美味しいね。あたしの腕がいいからね」


「いや、おれだよ」


 二人は笑い合いながらも夢中になって食べた。

 粉になったパイは口に運ぶたびにフォークの隙間からぼろぼろ溢れ、二人が食べ終わる頃にはベッドの上はアップルパイのかすだらけになってしまった。恐らくアップルパイは、ベッドの上で食べるのには世界で一番向いていない菓子だ。


 クッカは「うわあ、これはやばいやばい」と慌ててアップルパイのかすをベッドから払い落とす。ユタカも手伝ってしばしの間、二人は無言で真剣にベッドの上を掃除した。

 普段は女神の様に優しいハル先生は、怒ると死ぬほど怖いからだ。怖すぎていつか地獄の門が開いてしまうんじゃないかと思う。


 やっとのことで綺麗に片付け終わり、ふうと一息ついてユタカとクッカは二人でベッドに座った。


 夜の寝室の暗がりでオイルランプに照らし出される、クッカの瑠璃色の瞳。気づけばその視線は、こちらに真っ直ぐと向けられていた。

 その瞳がいつもよりもずっと美しく感じてしまうのは、やっぱり、彼女に会えるのが今夜で最後だからなのだろうか。


 クッカがいつもの様ににこっと微笑み、口を開いた。


「あたし、勘違いしてたの」


「え?」


 予想しなかったクッカの言葉に、ユタカは思わず聞き返した。


「私、ずっとずっとユタカを守らなきゃいけないって思ってた。

 ユタカは泣き虫だしひょろくて弱いから、私がすんごい魔術医師になって、絶対守らなきゃと思ったの。

 だから、さっき言ったけど、ユタカが死んじゃったら意味ないの。

 ずっと、大好きだったから」


「……」


 ユタカはクッカの言葉の最後に目を見開いた。心臓が信じられない位にどきりと大きく脈打ったのを感じ、思わず自分の胸に手を当てる。小さく深呼吸した。


「でもさっ。ユタカもあたしのこと好きでしょ。ばればれだっつーの〜! 孤児院のみーんな分かってるよっ」


「ええ……!」


 クッカの言葉にユタカは一気に身体中の血が顔面に昇るのを感じた。頬が火照って熱い。生まれてからこれ以上ない位に赤面している。


(気がついてないの、おれだけだったのか……)


 クッカへの気持ちを打ち明けられないことに悩んでいたのに、悩む必要など無かったのではないか。

 ベッドに座ったまま頭を抱えて項垂れたユタカにクッカは手を叩いて大笑いし、ユタカの肩をばんばん叩いた。

 恥ずかしい。


「あっはは、可愛いなあ……

 ……でも、今日分かったの。違った。ユタカは弱くない。私を守ってくれたもの」


 馬鹿笑いしていたクッカが一気に真剣な表情になったので、その劇的な変化に只ならぬものを感じて、ユタカはごくりと唾を飲んだ。


「ねえ、ユタカは剣士になるでしょ?」


 クッカが小さく、しかしはっきりとした口調でユタカの目を見据えて言った。


「あたしは絶対、国で一番の魔術医師になるの。だから、ユタカは国で一番の剣士になって。

 そうしたらきっと、生き残れるし、お互いを守れる、それでさ」


 クッカがそこまで一息に言った後、何かを言い淀んだ様に、ふと口をつぐんだ。少し俯き加減に唇をぺろりと舐めて、もう一度、真っ直ぐにユタカを見た。


「戦争が終わったら、あたしのところへ来て。

 結婚しよう」


「……」


 (何もかも、クッカに言われたちゃったな)


 何もかも。

 本当は言いたかったことも。これから先に、言いたかったことも。ユタカはそこに悔しさはあったが、笑顔の彼女の前ではもう、何もかもが通用しないのだ。

 完全に負けていると思った。

 それなら自分に出来るのは、ただ、これからの未来に約束することだけだ。


 ユタカはすうと息を吸って、ゆっくりと吐いた。一呼吸を置いて、クッカの瞳を見つめ返す。


「分かった。約束する」


 ユタカの答えを聞いたクッカは、いつもの、花が咲いたような満面の笑みを見せた。これが、ユタカが大好きなクッカだ。


「絶対よ。絶対ね」


 クッカはそう言って、ベッドの隣に座ったユタカの身体にぎゅっと抱きついた。どうしていいか分からないユタカはされるままに、ただ自分の顔に押し付けられたクッカの首筋の匂いを感じて赤面し、またクッカに大笑いされた。


(了)

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りんごの偏ったアップルパイ 萌木野めい @fussafusa

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