アラブの獅子

 緑の海原を旅する遊牧民族。彼らの母なる草原は今、前代未聞の大嵐に見舞われようとしている。時は1200年代初頭。東方の草原に現れた一匹の蒼き狼は彼の周囲の諸部族を一手にまとめあげるや、すぐさまその版図の拡大に乗り出した。彼が1206年に開かれたクリルタイ(大集会)で称した名はチンギス・ハーン。後に地上の17%を支配し、抱えた民の数は1億を数えたモンゴル帝国の始祖である。彼が本格的に始めた中央アジア遠征の火の粉は、やがてある少年のもとに降りかかろうとしていた。


 黒海の北方に位置するキプチャク草原で育った少年がこの地に生を受けてから14の歳月が過ぎようとしており、今日も両親の手伝いのため、日課の羊の放牧を始めていた。彼はキプチャク族という遊牧民であり、小さい頃から羊や馬に乗って過ごし、更に馬上から矢を射る訓練を積んでいる彼ら遊牧騎馬民族は、卓越した馬術と騎馬戦術をもって度々周辺のルーシ諸国に攻め入っては略奪を繰り返していた。東方の中国王朝にとっても匈奴を代表とする遊牧騎馬民族は大いなる脅威であり、そのあまりの強さに戦いを諦め、貢ぎ物をすることで和睦を図った王朝の数も少なくない。少年は、今日までは、奪う方の集団に所属していた。


 1219年にモンゴル高原を発った15万のモンゴル遠征軍は30~40万ともいわれた大軍を保有する、イランから中央アジアにまたがる大国ホラズム・シャー朝を、不可能とされた砂漠を横断しての主要都市攻撃や内乱の誘発によってその内外から突き崩し、瞬く間に支配下に置いた。その後遠征軍は分散し、チンギス率いる本体はアフガニスタン方面へ、そしてキプチャク草原やカフカ―スへはスブタイ将軍率いる部隊が進撃した。キプチャク草原へ侵攻したモンゴル軍は一度引き返したものの再び侵入し、これをキプチャク族とルーシ諸侯との連合軍がカルカ川河畔において迎え撃つも大敗。ついに1236年のバトゥの西方遠征によりキプチャク族の大半は降伏してその軍門に降り、あるいは抵抗を続け、捕虜となる者もあった。少年はそこにいた。 (続く)

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