ラズベリーアップルパイ

結月 花

とある夫婦のお話

 アップルパイって知っているか? そう。砂糖で煮たりんごを詰めてオーブンで焼いた菓子のことだ。サックリしたバターの香るパイ皮と、甘酸っぱいりんごのフィリング。ふんわりと鼻孔をくすぐるシナモンの香りと相まって舌をとろかす至高の一品さ。「As American as apple pie(アップルパイの様にアメリカ的)」なんて言葉があるように、俺達アメリカ人にとってはおふくろの味とも言えるほどに馴染みのある菓子なんだが。

 実は最近、俺は「アップルパイ」が食べられないでいる。なんでかって? その理由はこれさ。


「ビル。そろそろティータイムにしましょう? お腹が空いたわ」


 レースのエプロンをつけたブロンドの美女がキッチンから顔を覗かせる。彼女はソフィア。俺の妻だ。キッチンからは濃厚なバターと甘い甘いりんごの香りが漂ってくる。ああ、と短く返事をすると、彼女は頷いてまたキッチンに引っ込んだ。無言のリビングには、テレビのニュースキャスターが今日の株価を告げる声が響き渡る。ああ、クソ。また値下がりしたのか。この数値は俺の仕事に確実に響く。俺は頭が痛くなる。

 そんな鬱屈とした気持ちをよそに、彼女は焼きたてのアップルパイとティーセットを持ってリビングにやってきた。俺は内心でため息をつきながら新聞をたたんで横に置く。ソファの端に寄ると、空いたスペースにソフィアが腰をおろした。


「はい、あなたの分よ」


 そう言ってソフィアが俺の前に切ったアップルパイを置いてくれる。俺は愛しい妻が手づから作ったアップルパイをじっと見つめた。

 全面を生地ペストリーで覆われたオーソドックスなアメリカのアップルパイ。上にかかっている白い粉はグラニュー糖か。フォークを手に取り、さっくりと中を割ってみると甘酸っぱいりんごの香りと共に、仄かに乳臭い香りがふわんと漂った。


「またチーズを入れたのか?」

「そうよ。今日はチェダー・チーズを使ってみたの。お口に合うかしら」


 俺は彼女の言葉に返事をしなかった。無言でフォークにパイを突き刺し、口にいれる。甘く煮た酸味のあるりんごの風味を打ち消すかのようなチーズの臭みが口内に広がり、俺はあわてて横の紅茶で飲み下した。


「どう? 美味しい?」


 妻が屈託のない顔で聞いてくる。美しい巻き毛のブロンドにヴィーナスのように整った彫りの深い顔立ち。俺がカレッジにいた頃、夢中で口説きおとした文句無しにイイ女だ。だが、今はそんな彼女の美貌も全く魅力的に映らない。


「食えなくはない」


 素っ気なく告げる。俺の返事が気に入らなかったのか、ソフィアの目がみるみるうちにつり上がった。


「食えなくはないって何? 何か文句があるなら言えば?」


 彼女は家では俺の妻だが、一度玄関をくぐれば大手製薬会社でチーフを務めるやり手のキャリアウーマンだ。彼女のの追随を許さない隙のない理詰めは、プレゼンでは有効かもしれないが家庭内ではイライラの種にしかならない。そしていつもは彼女のスイッチが入る前にうまく回避していたはずなのだが、今日は俺も虫の居所が悪かった。


「じゃあ言わせてもらうけどな。お前が作るのはアップルパイじゃない。チーズを入れるアップルパイなんて聞いたことがあるか? たまにはまともなアップルパイを作ってくれよ」

「まともなアップルパイって何? 英国ではチーズを入れていたわ。私の母の味よ」

「悪いがここはアメリカだ。英国風のアップルパイは俺の口にはあわん」

? アップルパイはもともとイギリス発祥のお菓子なのはご存知? あなたこそ、なアップルパイを食べたことがないんじゃなくて?」


 彼女の声にトゲが混じり始める。これは非常にマズイ。ここでなんとかして彼女の気をおさめないと、折角の休日がパアになるのは身をもってよく知っている。だが、一度開いた彼女の口はとどまることを知らない。


「アメリカ人はすぐにそうやって自分達が一番みたいな顔をするのね。お言葉を返すようだけど、アメリカのアップルパイとイギリスのアップルパイは歴史が全然違うのよ。何をもってまともと言っているのか、差し支えなければ浅学な私に教えていただけるかしら?」


 小馬鹿にしたように吐き捨てるソフィアの言葉を無理やり右から左に流す。真面目に聞いていたら堪忍袋の緒が切れそうだ。だが、次の彼女の言葉は俺の心を刺すのに十分すぎるものだった。


「あなたが言う『アップルパイ』はどこもかしこも甘すぎるのよ。砂糖で煮たりんご、砂糖を練り込んだ生地。おまけに虫歯になりそうな甘い甘いカスタード。詰めが甘くてお子様なあなたにソックリだわ」


──俺に、それを言うのか?


 俺は数日前に株価の読みを誤ってクライアントに謝罪をしたばかりだ。完全に俺のリサーチ不足が原因だった。そのせいで上司に詰められ、散々な目に遭ったのはソフィアも知っているはずなのに。

 重たい空間に響く株価のニュースが酷く耳を打ち、俺は思わずバンとテーブルを両手で叩いた。


「またそうやって俺を馬鹿にするのか!? いつもそうだ。イギリス人はお高くとまりやがって! イギリス女には可愛げがないんだな!」

「なんですって!?」


 俺の言葉にソフィアが目を見開く。だが、反撃をしようと開いた口から言葉は紡がれず、ただ怒りにワナワナと震えながらこちらを睨み付けるだけだった。


「……ああ、そう。それならさっとここを出ていって、愛嬌のあるアメリカ娘でも抱いてくれば!? 貴方みたいな典型的なアメリカンガイなら、頭のユルい女がいくらでも寄ってくるでしょうよ!」


 プライドの高いソフィアが皮肉めいた悪口をぶつけてくる。このときの彼女は本当に可愛くない。俺も怒りに任せてソファに乱雑に投げ出してあるジャケットを引っ付かんだ。


「ああ、お前がそういうんならそうしてくるよ。今日はもう帰らないからな!」


 俺が怒りに任せてソファから立つと、ソフィアがハッとした顔をする。目の前のアップルパイを見つめながら、彼女は膝の上に置いた両の拳をぎゅっと握りしめた。


「……結婚して、こんな国に来なきゃよかった」


 ポロリとこぼれ落ちる彼女の言葉をかき消すかのように、俺は扉を乱暴に閉めた。


※※※


 外へ出て、あてもなくニューヨークの町を歩く。時刻はちょうど十二時。ランチタイムだからか、人がごった返すように歩いている。俺は排気ガスを顔にあびながら無心で足を動かし続けた。


 ソフィアと出会ったのは俺がまだカレッジの学生だった頃だ。ラグビー部にいた俺はそこそこ女にも人気があり、何人ものガールフレンドに囲まれながら日々のキャンパスライフを過ごしていた。

 イギリスから留学に来たソフィアに会ったのは大学のラウンジだった。いつもの様に女の子に囲まれて談笑していた俺は、授業が始まる為に席を立ち、授業が終わった後にクラッチバックをベンチに置き忘れていたことに気付いた。慌てて先程座っていたベンチに戻るも、もうバックはそこには無かった。


「これ、あなたの?」


 よく通るソプラノが響き、振り返るとそこにいたのはブロンドの美女だった。差し出された手には俺のクラッチバック。


「あ、ああ…ありがとう。でもなぜこれが俺のだとわかったんだ?」

「あなたは目立つからよ。ビル・ウィリアムズ。今度から気を付けなさいね。色んな女の子があなたのバックを狙っているらしいから」


 そう言うと、彼女はブロンドの髪をふわりとなびかせて立ち去った。連絡先も聞かず、本当にバックを渡すだけ。それがソフィアだった。叡智Sophiaの名に相応しい、凛とした美人。俺は彼女に夢中になった。ほとんど一目惚れだ。口説いて口説いて口説き落としてやっと付き合った時は天にも登る気持ちだった。

 それから数年付き合い、エンパイア・ステート・ビルが見えるホテルで俺は彼女にダイヤを贈った。左手の薬指にそれをはめた時、彼女は泣いていた。君にもうロンドン塔を見せてやれなくなると謝ると、彼女は目尻に涙を溜めながらも微笑んだ。


「いいえ、ビル。あなたとずっと一緒にいるわ」


 あの時の彼女は、他の誰よりも美しかった。

 いつからだろうか。あの太陽のような笑顔を見ることができなくなったのは。 


 気の向くままに歩き続ける。先程はカッとなって啖呵たんかを切ってしまったが、こんな状態で他の女を抱く気にもならない。ホテルでも取ってそこでダラダラ過ごそうかと思ったその時だった。

 ふわりと香ばしいバターとシナモンの匂いが鼻を掠める。思わずそちらへ目を向けると、カントリー調のカフェの看板が目に入った。吸い寄せられるように店の中に入り、メニューを開く。メニューの中には、香ばしい焼き目のついたアップルパイの写真。正直もうアップルパイは見たくもなかったはずなのだが……知らず知らずのうちに自分の口は目の前のそれを注文していた。

 目の前に焼きたてのアップルパイが運ばれてくる。フォークでサックリ切ってみると、甘酸っぱいりんごの香りが周囲に漂った。


 アップルパイはアメリカを代表する食べ物のひとつで、デザートではなく家庭料理という認識だ。それほどまでに俺達にとっては身近な菓子で、ひとつの家庭にひとつの味がある。使うりんごの種類、シナモンやナツメグの量、パイの包み方やフィリングの中身もそれぞれだ。俺の母親もよくアップルパイを作ってくれた。歯ごたえが残るさっくりとしたりんごにとろけるように甘いカスタード。スパイシーなシナモンの香りもうまいアクセントになっていて、サンクスギビングデイに食べる母親のアップルパイは俺の大好物だった。

 結婚して初めて彼女が作ったアップルパイを食べたときは、その味の違いに驚いたものだ。もともとあまり彼女は料理が得意ではなかったのもあるのかもしれないが……彼女の作る「アップルパイ」は俺の口には合わなかった。その時は惚れた弱味もあったからか、笑って誤魔化していたけれど、そこには家庭の味の差ではなく、国境の差があった。

 全く違う国で生まれ、違う文化で育った自分達がうまくやっていくのは無理な話だったのだろうか。正直カレッジの時からガールフレンドに困ったことはない。アメリカ娘と結婚していたら、今頃出来立ての甘いアップルパイにバニラアイスを乗せてきゃあきゃあ笑いながら食べていたのかもしれない。


 運ばれてきたアップルパイをフォークで無心につつく。だが、先程から形を崩すだけで、それを口に入れる気持ちには一向になれなかった。ポロポロと皿の上に散らかるパイの破片が、まるで自分達夫婦の仲を象徴しているようでどうしても口に入れるのをためらってしまう。

 折角注文したアップルパイを食べる気になれず、そのまま残して店を出ようかと思ったその時だった。

 付け合わせとして添えられているホイップクリームの上に乗った赤いラズベリーが視界に入った。なんとなく気になり、フォークの先に突き刺した赤く艶やかな実をじっと眺める。


(ねぇ知ってる? ラズベリーってイギリスで初めて栽培化されたものなのよ)


 かつてのソフィアの言葉が脳裏に甦る。彼女は昔からよく英国の話をしてくれた。英国発祥のもの、歴史ある建造物、文化、何を食べて何をして育ってきたのか。祖国のことを話す彼女の顔はキラキラと輝いていて、ここから出たことのない自分にはそんな彼女の顔を眩しく感じたものだ。

 フォークに刺したラズベリーを口に入れる。キイチゴ特有の強い酸味と共に、ほのかに感じる濃厚な甘みが舌の上で踊った。

 ラズベリーは彼女を彷彿とさせた。気が強くて、弱味を見せなくて、凛とした佇まいで男にも引けをとらない勝ち気な女。けれども彼女は、俺の腕の中だけでは可愛い子猫になるのだ。ベッドの中で瞳を潤ませて、か弱い声で啼きながらすがってくる彼女の姿に、俺は夢中で口づけを落とす。彼女を抱いている時、俺は誰よりも幸福な男だと自覚するのだ。けれども、考えてみればもう何ヵ月も彼女とベッドを共にしていない。俺の仕事がうまくいなかくなってから、夫婦の溝は深まるばかりだ。

 そういえば、ソフィアがアップルパイをよく作るようになったのはつい最近のことだ。結婚したばかりの頃はたまにしか作らなかったのに、最近は週に一度はアップルパイを焼いている。それが、俺が残業続きで帰るのが深夜帯になってからだということに気づいて俺はハッとした。

 ソフィアは寂しかったのだ。プライドの高い彼女は顔には出さないけれど、本当は故郷が恋しいのかもしれない。住み慣れた土地を離れて、全く知らない地で生活をする。きっと文化の違いを感じる度に、祖国を懐かしく思うのだろう。

 だからこそ少しでも故郷を思い出したくて、そしてそれを俺にも味わってもらいたくて、彼女は懸命にアップルパイを作っていたのだ。

 家を飛び出る俺を見送る時の、ショックを受けた彼女の顔を思い出し、胸中が後悔の念で満たされる。結婚をすることで故郷を離れた彼女に、どうして俺はもっと寄りそってやれなかったのだろう。どうして俺は彼女の元を離れて、他人が作ったアップルパイを食べているのだろう。


 ──俺が食べるアップルパイは、彼女が作ったものだけなのに。


 そう思った瞬間、俺はフォークにパイを突き刺し、無心で口に運んだ。一息にアップルパイを食べ終えると、お金を払って店を飛び出す。帰る途中でスーパーに寄り、ラズベリーのパックを購入するのも忘れない。

 家につくと同時にソフィアを探す。彼女はエプロンをしてまだキッチンに立っていた。

 ソフィアに近付き、間髪入れずに後ろから抱き締めた。


「ビル!」


 ソフィアが驚いて振り向くが、構わずに首筋に鼻を埋める。ソフィア。俺のソフィア。負けん気が強くて意地っ張りで、けれども誰よりも可愛くて優しい俺の妻。その細い腰に手を回して、スッポリと自分の腕の中に彼女の体をおさめると、ソフィアがくすぐったそうに身をよじった。


「ビル、邪魔よ」


 けれども、そう言う彼女の声色はとても優しい。くるりと振り返りパッチリした青い瞳で見上げてくるソフィアがたまらなくいとおしくて、俺は思わずそのりんごの様な赤い艶やかな唇に口付けた。ソフィアが反射的に俺の胸を押すが、構わずにぐっと腕に力をこめる。俺の体を押す力が弱くなり、やがてその手が控えめに俺の背中に回された。もう随分と長いことこんなキスをしていなかった気がした。

 唇を離してソフィアを抱き締める腕を緩める。そのまま俺は、手に提げていたスーパーの袋を差し出した。


「ソフィア、俺が悪かった。これでも食べて許してくれないか」

「何これ? ラズベリー?」

「ああ。これを食べて、また俺にロンドンの話をしてくれないか? 俺はお前が故郷の話をしているのが好きなんだ」


 そう言うと、ソフィアは驚いたように目を見張り、みるみるうちに顔を綻ばせた。口許に手を当てて華のように可愛らしい顔でクスクス笑う。


「あははっ! まさか貴方がラズベリーを買ってくるなんて、面白いわ」

「ラズベリー……はまずかったか? 祖国のことを思い出してもらおうと思ったのだが……」

「ううん、ごめんなさい。違うの。ちょっとこれを見て」


 ソフィアが笑いながら冷蔵庫の扉を開け、ラップをかけたボウルを取り出す。中には刻んだラズベリーが入っていた。


「あなたの口にはチーズが合わないらしいから、これを入れようと思ったの。そうすれば少しはチーズの臭みも消えるかなって。イギリスではアップルパイのフィリングに、チーズとブラックベリーを使うこともあるのよ」


 ソフィアが俺の目を見て微笑む。俺は家を飛び出してしまったが、彼女はその間もずっと歩み寄ろうとしてくれていたのだ。感激して彼女の顔を見つめると、ソフィアが少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「……私も悪かったわ、ビル。最近、少しイライラしていたの。でも、さっきやっとその理由がわかったわ」


 そう言ってソフィアが背伸びをし、俺の耳元にそっと口を近づける。その口から紡がれる言葉を聞き、俺は飛び上がった。


「本当か!? ソフィア、それは間違いないんだな?」

「ええ。まだ市販のもので調べただけだけど」


 ソフィアがお腹に手を当てながら微笑む。その手の下には新たな命が鼓動を打っているのだと思うと、彼女の笑顔がたまらなくいとおしくなる。感極まってまた彼女の体を抱き締めると、ソフィアが肘で俺の体をぐいっと押す。


「もう、そんなにくっつかないで。アップルパイが作れないじゃない」

「俺も作るよ」


 思わず口から言葉が溢れた。ソフィアが驚いた目で見返してくる。


「あなたが? 包丁も持ったことないレベルなのに?」

「いや、俺にもやらせてくれ。俺達で作ろう。この子が食べるアップルパイの味を」


 そう言ってソフィアのお腹を撫でると、彼女は嬉しそうに──太陽のような笑顔で輝くように笑った。




 アップルパイは家庭料理。その家一つ一つでオリジナルの味がある。俺達の家のアップルパイは、チーズとラズベリーが入った、世界にひとつだけのソフィアが作る味だ。


 そういやラズベリーの花言葉を知ってるかい?



 ──幸福な家庭、さ。

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ラズベリーアップルパイ 結月 花 @hana_usagi

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