宵の星
白里りこ
宵の星
ヒュペリオンは天上界の住人で、永遠を生きる者である。
彼の役目は、夕暮れ時から夜にかけて群青の空に昇り、煌々と輝くことだった。昔も今もそして未来も、彼はとこしえに輝き続ける定めにある。
そんなヒュペリオンだが、かつてその役目を放り出していた時期があった。
人間界に、愛しい人ができたからだ。
その人間は高貴な生まれの美しい娘で、名をカタリーナと言った。ある日、彼女が城の部屋の窓から自分を見つめているのに気がついた時から、ヒュペリオンは恋に落ちていた。
カタリーナは、亜麻色の髪、薔薇色の頬、華奢な手足を持っていた。神々の寵愛を一身に受けて生まれてきたような娘だった。まだあどけなさの残る彼女の笑顔が、ヒュペリオンはたまらなく好きだった。
カタリーナと会うことができるのは、ヒュペリオンが空に現れる夕暮れ時から、カタリーナの部屋の窓を横切る夜更けまで。窓は、ちょうどその時期にヒュペリオンが昇るところが一番よく見える格好でとりつけられていた。
ヒュペリオンは、輝き始めてすぐに、カタリーナが城の中で自分を待っているのを見つける。彼女はベッドに座って窓の外を見ている。ヒュペリオンが光り出すと、彼女は愛しげな眼差しをヒュペリオンに向け、安心したように眠りにつく。
そして夢の中でヒュペリオンにこう語りかける。
「ねえ、素敵なお星様、どうかその光を辿って、こちらの世界まで降りてきて。夢を本当にしてちょうだい!」
これがいつもの合図なのだった。会いたいと希う声に導かれて、ヒュペリオンは一旦、眼下の海に身を投げる。次に浮かび上がってきた時には、彼は美しい人間の王子の姿をとっている。その姿でカタリーナの夢の中に踏み込むのだ。
天上界と人間界の間には、無限の隔たりがあるけれども、夢の中でなら二人は対話ができるのだった。
カタリーナの夢の中はたいてい、春の花が咲き誇る楽園のような場所だった。空は澄み切っており、風の香りは芳しく、小鳥が鳴き渡っている。ここにいるとヒュペリオンはいつも、浮き立つような気持ちになるのだった。柔らかい草を踏み分けて夢の奥へと歩いていけば、必ずカタリーナが待っている。庭園の中に佇むカタリーナは、あまりにも可憐で、眩暈がするほどだった。
二人は、遥かな時空を超えて今宵再び会えたことを喜び合い、抱擁を交わす。手を取り合って、夢の庭を散策する。
カタリーナは、ヒュペリオンを覗き込んで訴えかける。
「ねえお星様、どうか人間界に来て。本当の人間になって、私と結婚してちょうだい」
ヒュペリオンは悲しさともどかしさで胸がふさいだ。簡単に天上界を離れるわけにはいかないのだ。人間界に行くには寿命を手に入れる必要がある。永遠を生きるヒュペリオンにとってそれは恐ろしいことだった。
ヒュペリオンは跪いてカタリーナを見上げ、訴える。
「ああお姫様、僕は人間界には行けないよ。それよりも二人で一緒に、海の底の宮殿に駆け落ちしよう。そこでなら僕らは、永遠に、自由に暮らせるんだ」
ヒュペリオンはカタリーナと恒久の時を共に過ごしたかったのだ。だがヒュペリオンのこの素晴らしい提案を、カタリーナは受け入れてくれない。
「駄目よ。私、永遠には興味がないの。永遠に生きることは、死ぬことと同じなんだもの!」
このようにして二人は、束の間の逢瀬で、一緒になれない悲しみに身を焦がすのだった。
天上界と人間界では時の流れ方が全く違う。天上界のものは永遠を生きる定めにあるのに対して、人間界のものはやがて死すべき定めにあった。惹かれあう二人は、世界によって決定的に引き裂かれたまま、その溝を埋められないでいた。
いつもならば、ヒュペリオンが夢の中にいられなくなるまで、二人は悲痛な訴えを続ける。だがある日、カタリーナはいつになく熱心にこう言った。
「ねえ、あなたが人間になって。永遠を捨てて、死すべきものになって!」
「しかし……」
「お願いよ。私と添い遂げて。共に生きましょう。共に死にましょう」
「共に……生き、そして死ぬ……」
ヒュペリオンは、それはとても美しいものだと気がついた。
ようやく分かった。やがて死すべき定めの中にあるからこそ、カタリーナは美しいのだ。ヒュペリオンが毎日放つ常世の光とは全く違う、一瞬の煌めきを、彼女は持っている。その光明の、何とまばゆく、尊いことか。
ヒュペリオンは折れた。カタリーナの望み通りにすると決めた。自分もカタリーナのそばで輝きたいと思った。たとえそのために命を落とすことになろうとも。
「分かった。ほんの少しの間だけ待っていてくれ。すぐに人間になって君の元へ行くから」
ヒュペリオンがそう言うと、カタリーナはぱっと笑顔になった。嬉しくて仕方がないという様子だった。
「早く、早くしてちょうだいね」
「もちろんだよ」
ヒュペリオンは、急いで夢の中からおいとますると、天上界の果てまで一直線に飛んでいった。そこに住む創造の主に頼んで、終わりある命を与えてもらうのだ。
闇の淵、混沌の極地、永久の闇の中に、その神は鎮座していた。威容あるその姿に、ヒュペリオンは臆したが、勇気を出してこう言った。
「偉大なる父よ、僕を死すべきものにしてください。人間にしてください。恋を成就させるために!」
この願いを黙って聞いていた神は、鼻で笑った。
「莫迦な真似はやめろ」
唸るように言う。
「人間というものは儚い。お前もじきに分かるだろう」
「しかし……その儚さに、僕は憧れているのです」
「戯けたことを。帰れ。俺がお前の望みを叶えることはない」
「どうしてもですか」
「どうしてもだ」
ヒュペリオンは、諦めるしかなかった。彼はこのことを報告するために、城を見下ろせる空まで、飛んで戻った。帰ってすぐにカタリーナの姿を探したが、彼女の姿は部屋の中には見当たらない。
慌てて城じゅうを見渡すと、二人の若者が中庭に立っているのが分かった。そのうちの一人はヒュペリオンの知らない青年で、もう一人はカタリーナだった。
困惑するヒュペリオンを、カタリーナは優雅な仕草で見上げた。その眼差しからは、かつてのような愛しげな色は、すっかり消え失せていた。
ヒュペリオンは、創造神の言葉の意味を理解した。永遠を生きる者と刹那を生きる者の違いが何なのかを悟った。
ヒュペリオンが世界の果てに行き、そこから帰ってくるまでの間に、一年の時が過ぎ去っていた。一年もの間、ヒュペリオンは、城を見下ろせる空へと昇ることをしなかった。ヒュペリオンのいない一年間を人間界で過ごしたカタリーナは、以前よりも美しく成長し、そして、新しい恋人を手に入れていた。
「随分と久しぶりね、遠くのお空のお星様」
カタリーナはそう言っているかのようだった。
「その光で私たちを照らしてちょうだい。私たちの幸福を祝って!」
ヒュペリオンは、黙ってその通りにした。
空の上で永久に輝き続けることを決めた。
彼はもう、自分の持ち場を留守にすることはしない。刹那の輝きを求めることもしない。海に飛び込んで人間の姿をとり、夢の楽園へと足を運ぶこともしない。
彼はただ、とこしえにそこに在るものになったのだ。
淡々と、夕暮れ時から夜にかけて空に昇り、輝くことを繰り返す。
ヒュペリオンは天上界の住人で、永遠を生きる者である。
***
――ルーマニア詩歌/ミハイ・エミネスク「金星ルチャーファル」より意訳、一部脚色
宵の星 白里りこ @Tomaten
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